「著作/文献」カテゴリーアーカイブ

頭山満─維新・興亜陣営最大のカリスマ

南洲の魂を追い求めて─終生の愛読書『洗心洞箚記』

大正十年秋、後に五・一五事件に連座する本間憲一郎は、(とう)(やま)(みつる)のお伴をして、水戸の那珂川で鮭漁を楽しんでいた。船頭が一尾でも多く獲ろうと、焦りはじめたときである。川の中流で船が橋に激突、その衝撃で船は大きく揺れ、船中の人は皆横倒しになった。そのとき、頭山は冬外套を着て、両手をふところに入れていた。
「頭山先生が危ない!」
本間は咄嗟に頭山の身を案じた。川の流れは深くて速い。転覆すれば命にかかわる。
ところが、本間が頭山を見ると、頭から水飛沫を被ったにもかかわらず、ふところに手を入れたまま、眉毛一つ動かさず悠然としている。驚きもせず、慌てもせず、いつもの温顔を漂わせていたのである。「これが無心ということなのか」。
この体験を本間は振り返り、頭山が大塩平八郎の心境に到達していたものと信じていると書き残している。大塩は天保三(一八三二)年、中江藤樹の墓参の帰り、琵琶湖で暴風に遭い、転覆の危機に直面した。このときの教訓を大塩は、その講義ノート『洗心洞箚記』に記している。 続きを読む 頭山満─維新・興亜陣営最大のカリスマ

坪内隆彦「『靖献遺言』連載第7回 崎門学派の志と出処進退」(『月刊日本』平成25年6月号)

御用学者・林羅山
 慶長十(一六〇五)年四月、若き林羅山は徳川家康と初めて対面しました。二度目の会見の際、家康は羅山に「後漢の光武帝は漢の高祖の何代目であるか」、「前漢の武帝の返魂香(伝説上の香)はどの書に出ているか」、「屈原の愛した蘭の品種は何か」と尋ねました。羅山はいずれの質問にも正しく回答しましたが、これらの質問は儒学の本質と関わりのない愚問です。
 『林羅山』を著した堀勇雄氏は、「この難問・愚問はこの後の家康と羅山との関係─聖賢の道を求める師と弟子との関係ではなく、学問知識の切売りをする雇傭関係を表徴するといえる」と書いています。
 さらに、堀氏は、家康は天下の覇権を握り政治を行うために、羅山の該博な知識を利用しようとしただけであり、いわば百科事典代わりに羅山を側近に置こうとしたのであると書いています。
 当時、幕府の官職に儒者を登用した先例はありませんでした。そこで、家康は羅山を僧侶の資格で登用することにしたのです。慶長十二年、羅山は家康の命によって剃髪し、名を道春(僧号)と改めました。堀氏は「廃仏を唱える羅山が剃髪したのは、聖人の道を行おうとする実践的精神を放棄して、単に博学と文才を売物とする職業的学者の立場を選んだことを意味する」と批判しています。家康に取り入った羅山は、家康の権力によって収集された貴重本の充満した書庫を管理するようになり、慶長十五年には幕府の外交文書を起草するようになりました。 続きを読む 坪内隆彦「『靖献遺言』連載第7回 崎門学派の志と出処進退」(『月刊日本』平成25年6月号)

坪内隆彦「『靖献遺言』連載第3回 死生利害を超えて皇統守護の任に当たる」(『月刊日本』平成25年2月号)

対外的危機意識が生んだ国民的自覚と伊勢神道
 日本的自覚、国体への目覚めのきっかけは、対外的危機認識の高まりと密接に関わっています。本連載第二回(平成二十四年九月号)でも、永安幸正氏の主張を援用しながら、隋唐国家の膨張期(五八一~九〇七年)に続く、第二の危機の時代として蒙古襲来の時代を挙げました。文永の役(一二七四年)、弘安の役(一二八一年)と二度にわたる蒙古襲来こそ、日本的覚醒の大きな引き金となり、神道思想においても一大転換をもたらしたのです。
 その象徴が伊勢神道の台頭です。それまで、わが国では仏教優位の神道思想が力を持っていました。その有力な思想が、「日本の八百万の神々は、様々な仏が化身として日本の地に現れた権現である」とする「本地垂迹思想」です。仏を主、神を従とした本地垂迹思想に対して、神を本とし仏を従とする教理を体系化したのが、伊勢神道(度会神道)だったのです。
 久保田収氏によれば、伊勢神道には密教や老荘思想も吸収されてはいますが、鎌倉新仏教の台頭や、蒙古襲来という未曽有の国難から、神道の宗教的立場と国民的自覚を明らかにする主張が盛り込まれました。
 伊勢神道の「神道五部書」(『宝基本記』、『倭姫命世記』、『御鎮座次第記』、『御鎮座伝記』、『御鎮座本記』)は心身の清浄を説き、正直の徳を神道の主要な徳目として強調しました。ここでいう「正直」は、現在我々が使っている意味とは異なり、「神から与えられたままの清浄潔白な姿」を意味します。 続きを読む 坪内隆彦「『靖献遺言』連載第3回 死生利害を超えて皇統守護の任に当たる」(『月刊日本』平成25年2月号)

国学と水戸学の関係

 維新の原動力となった国学と水戸学。両者は対立しつつも、相互補完的な関係にあった。この論点に言及した、『月刊日本』平成26年1月号に掲載した「現在も続く直毘霊論争」の一部を紹介する。
 〈本居宣長は、強いて神の道を行おうとすると、かえって「神の御所為」に背くことになると主張していました。『玉勝間』においては、中国の古書はひたすら教誡だけをうるさく言うが、人は教えによって善くなるものではないと書いています。これに対して、水戸学の会沢正志斎は次のように批判しました。
 「仁政の要を知らざれば、人の上たること能はず、臣として君徳を輔佐すること能はず、義を知らざれば、元弘、延元の世の如きにも、去就を誤る類のものあり。礼を知らざれば君に事へ、人に交るに敬簡の宜を得ず、譲を教へざれば争心消せず、孝悌、忠信を教へざれば、父母に事へ、人と交て不情の事多し。多人の中には自然の善人もあれども、衆人は一様ならず、教は衆人を善に導く為に施す也」 続きを読む 国学と水戸学の関係

蒲生君平が頼りにした「諸陵寮」とは

 蒲生君平が天皇陵(山陵)を研究調査する上で頼りにしたのは『古事記』『日本書紀』の陵墓関係記事と「諸陵寮」である。「諸陵寮」とは、延長5(927)年に完成した格式(律令の施行細則)『延喜式』の中で、朝廷が管理すべき山陵諸墓に関する記述部分。
 記紀では陵墓所在地が漠然と指定されているのに対して、「諸陵寮」では位置を明示している。
 陵墓名の下に諡号、陵墓所在地名、兆域の大きさ、四至(東西南北の境界)、陵戸や守戸の数などが記されている。

蒲生君平の九志

 
蒲生君平は『山陵志』全二巻を板刻した際、サブタイトルに九志の一、九志の二と明記していた。彼は『神祇志』『山陵志』『姓族志』『職官志』『服章志』『礼儀志』『民志』『刑志』『兵志』の「九志」編纂を目指していたのである。しかし、『山陵志』と『職官志』の刊行にこぎつけたものの、残り七志を完成させることなく、文化10(1813)年に亡くなった。

安藤秀男氏は次のように解説している。
〈各志の関係を説いて、およそ国の礼は祭よりも大なるものはない。歴代天皇が、その誠敬を尽されたところも、ここにあるのだと、先ず「神祇志」を挙げる。また、神祇の祭礼に次いでは、御歴代の山陵が尊崇されなければならないと、『山陵志』を挙げる。次いで、神を祭り、祖先を祀るにも、氏族、あるいは家ごとに行なわれるが故に、氏族の系譜を知らなければならないと、「姓族志」を挙げる。そして、氏族制度と並んで、秩序を正しく維持するためには、官職の変遷を知らなければならないと、『職官志』を挙げる。さらに、職官には其れに相応した服章がなければならないと、「服章志」を挙げ、さらに、位に応じて守るべき形式のほかに、人間相互のあいだにも、必ず守らなければならない約束があると、「礼儀志」を挙げる。さらに、治められるもの、すなわち人民の上について、その生活の様式を知らなければならないと、「民志」を挙げる。さらに、人民を治めるには、礼とあわせて刑をもってしなければならないと、「用志」を挙げ、最後に、人民は礼と刑とをもって治め得ても、外国に対しては軍備がなければならないと、「兵志」を挙げている。
 こうして見ると、「九志」というものには、首尾一貫した一つの思想体系のあることがわかる。それは、儒学の精神に立脚したところの政治の理想、聖人の道、王道とでもいうべきものである〉   

稲村公望先生「日本、情報戦に敗北す」全文英訳

以下は、『月刊日本』平成25年10月号に掲載した稲村公望先生の「日本、情報戦に敗北す」の全文英訳です。

Japan Losing the Information War
Kobo Inamura
Visiting Professor
Chuo University

Japan Falls from Position as Representative of Asia

Interviewer: Professor Inamura, you went back to the Fletcher School of Law and Diplomacy in the United States, where you studied in the mid-1970s, and were shocked to see how much Japan’s presence has declined.

Kobo Inamura: Until the mid-1980s interest in Japan was extremely high in the United States, and Japanese studies were lively. The Edwin O. Reischauer Institute of Japanese Studies was established at Harvard University in 1973, Harvard Professor Ezra Vogel wrote Japan as Number One in praise of Japanese-style management in 1979, and the Reischauer Center for East Asian Studies was opened at Johns Hopkins University in 1984. 続きを読む 稲村公望先生「日本、情報戦に敗北す」全文英訳