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尾張藩国学の先駆・田中道麿①─『養老町が生んだ国学者』


●一旦、歌の道を断念
田中道麿翁顕彰会・養老町教育委員会編・山口一易執筆『養老町が生んだ国学者 田中道麿さん』に基づいて、田中道麿の生涯を追う。まず、生い立ちから、桜天神で国学塾を開くまでの歩みについて整理しておく。
道麿は享保九(一七二四)年、美濃国多芸郡榛木(はりのき)村の農家で生まれた。道麿は、学派にとらわれない國體思想の学脈を築いた松平君山(一六九七年生まれ)より二十七歳年少であった。また、道麿は君山門下として知られる岡田新川(一七三七年生まれ)、磯谷滄洲(いそがいそうしゅう、同)より、十三歳年長であった。
道麿は物心つきはじめた頃から、大垣俵町の平流軒という本屋に小僧に出された。これをきっかけに、本好きになったのであろう。少年の頃に、伯父が与えた「節用集」を全部暗記してしまったという。「節用集」とは室町時代後期の国語辞書のことである。やがて、それらの教養書では飽き足らなくなり、近郷近在はもちろん、諸方に足を運んで書物を借りて読み、筆写していた。
道麿の弟子・加藤磯足が文化三(一八〇六)年に道麿の経歴や逸話を記した『しのぶぐさ』には、次のように書かれている。
〈農家の生まれですが幼年の頃より目にするもの耳にするものすべてに歌をつくられたとか、大へんすぐれた力を持った人でした。初めて歌を詠まれたのは九才のときといわれている〉、〈成長するにつれ近所はともかく少し遠方でも歌の本を所有している人があれば出かけて本を借りて写し取るなどして、ますます歌のみちに心を引かれていかれたが、みせてもらった書物はどれも古く六・七百年程の昔のもので何となくあやふやなことが多く、歌のみちに名高い人を訪ねて疑問の点などを質問しても、これは教えられない秘め事だとか、かんたんにあなたが調べ尽くせることではありませんと返され、はっきりと道筋を立てゝ納得のいく様に教えてくれる人はありませんでした。迷い迷ったあげく歌というのは何なのか…こんなことを勉強して何になるのだろうか…何もならないのではないか…と試行錯誤の上、二十八才のときから歌をつくることも書物を読むこともすっかり止めてしまった〉
このように道麿は、一旦歌の道を断念し、土木工事や屋根葺きの手伝いに従事していたようである。

●彦根の大菅中養父に師事
しかし、彼の生来の向学の志は再び燃え上った。良き師を求めて、彼は東海道土山宿の轎夫(かごかき)となり、駕籠を使う旅人から情報を集め始めたのである。そして、ついに道麿は、彦根に大菅中養父(おおすがなかやぶ)という人物がいることを知った。中養父は宝永七(一七一〇)年、彦根藩印具氏家老の家に生まれた。契沖の歌論を好み、賀茂真淵に師事して古典を研究した。
宝暦七(一七五七)年頃、道麿は早速彦根に赴き、中養父に弟子入りするのである。道麿を支援する者も現れた。道麿の向学の思いを知った彦根の豪商・納屋七右衛門が自宅に道麿を住まわせ、生活の面倒をみることになった。しかも、道麿のために必要な書物は全て買い揃えてやったのである。こうして道麿は、三年間何の心配もなく、学問に打込むことができた。
彦根での勉学の末、ようやく国学者として一本立ちする自信を固めた道麿は、彦根を去った。そして、最初は大阪で塾を開いたが、容易に受け入れられなかった。
そこで、道麿は名古屋に移ることにした。そして、狂歌の添削をきっかけにその存在を知られるようになっていく。
『しのぶぐさ』には、〈安永(一七七二~一七八〇)のはじめごろ狂歌(おどけた調子の歌)が流行した。あるとき狂歌集を見られて、その歌のよい、わるいや、今の慣習で昔からのしきたりと違っていることなどを指摘して一つの本にされた。それがあちこちに広がり、こんな人が居たんだと人々の話題にのぼるようになった。このようにして一人、二人、三人、四人と次々にひろがっていった。直接翁と会って歌のことを尋ねる人もでき、今まで聞いていたよりも身近かで親しみ易く上品でりっぱな人だと評判になった。そしてこの様にすぐれた力を持っている人を埋もれさせておいてはよくないと同じ気持ちの人々が集まり、今のつとめをやめて、もっと名前の知られた所に住んでもらって古典の勉強や古学の勉強の先生になってもらおうと迎えられることになった〉とある。
こうして、道麿は小桜町の桜天神の傍にあった霊岳院に住み、桜天神の社僧となった。そして詠歌の道、古学の講筵を開くことになったのである。

賀茂真淵『祝詞考』①

 『祝詞考』は賀茂真淵が最晩年の明和5(1768)年に書いた『延喜式』祝詞の注釈書。門人の荒木田久老によって、真淵没後30余年を経て刊行された。
上巻冒頭に「事と言は、古へ相通はし書事、万葉に多し、字に泥む事なかれ」と書かれている。これは本居宣長の『古事記伝』にある「抑意と事と言とは、みな相称へる物」と響き合う。中巻の大祓詞の部分は「大祓詞考」とも呼ばれる。