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第1回『天皇親政について考える勉強会』(崎門学研究会主催)

令和2年10月18日、都内で第一回『天皇親政について考える勉強会』(崎門学研究会主催)が開催された。同研究会の折本龍則代表が、「天皇親政と天皇機関説の狭間で」と題して発表した。以下、当日配布されたレジュメを転載させていただく。
崎門学研究会・折本龍則代表

★当日の動画は「崎門チャンネル」

■今日の皇室観
① 天皇不要論
社会契約論 共和革命論
② 天皇機関説 象徴天皇
親米・自民党保守 「君臨すれども統治せず」
Cf 福沢『帝室論』「帝室は政治社外のものなり」祭祀が本質的務め
③ 天皇親政論 圧倒的少数派
正統派 原理主義?

■天皇親政の三つの契機
① 正当性
天壌無窮の神勅
葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ。
『正名論』 『柳子新論』
資料)竹内式部の所司代での問答
② 決断主義
「自由主義なるものは、政治的問題の一つ一つをすべて討論し、交渉材料にすると同時に、形而上学的真理をも討論に解消してしまおうとする。その本質は交渉であり、決定的対決を、血の流れる決戦を、なんとか議会の討論へと変容させ、永遠の討論
によって永遠に停滞させうるのではないか、という期待を抱いてまちにまつ、不徹底性なのである。」(C.シュミット『政治神学』)→「例外状態」での決断
『国家改造法案大綱』
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川面凡児の伊吹の法①

川面凡児
 古神道では独特の呼吸法が伝えられた。川面凡児の伊吹の法もその一つである。彼は、以下のように書いている。
 「鼻より空気に通じて宇宙根本大本体神の稜威を伊吸ひ込み、腹内より全身の細胞内に吸ひ込みて、充満充実すること三分五分乃至十分間ほどにして口を開き、静かに長くこれを伊吹くなり。ある限りを吹き出すなり。更にまた鼻より吸込みてかくの如くすること三度五度乃至八度十度十二度十六度等に及ぶ。そのいづれの度数にても、最後の時には口よりは吹き出さず、全然腹内、細胞内に吸ひ込み呑み込みて静かに全身の毛穴より出しつゝ徐々と唇を緩めつゝに出すなり。否最後の時には呑み込み吸ひ込むと同時に、神を拝して向はんとするところに行き、なさんとする事業に執りかゝるなり」(『日本最古の神道』)

本田親徳と白川神道の「十種神宝御法」

 副島種臣に強い影響を与えたのが、神道霊学中興の祖・本田親徳である。本田が再編した神道霊学とはいかなるものだったのか。宗教学者の鎌田東二氏は、『神界のフィールドワーク―霊学と民俗学の生成』(創林社、昭和60年)において、次のように指摘している。
 〈……安政四年(一八五七)頃に、本田親徳は神祇伯白川家の最後の学頭であった高浜清七郎と交わっているので、高浜より伯家神道の神事秘法について教示された可能性もある。かつて平田篤胤も伯家の古学方教授やのちには学頭に就任したことがあるが、この伯家神道すなわち白川神道には「十種神宝(とくさのかんだから)御法」という行法が伝わっている。……文久二年(一八六二)の八月一日付で、その頃備前国岡山に住んでいた高浜清七郎は、「十種神宝御法口授」の認可を受けたことが『白川家門人帳』に「高濱清七郎(源政一) 右今般依願、十種神宝御法被口授訖。万事正路之心得を以、可令修行。伯王殿被命処也、仍執達如件」と記されている。本田親徳はこの高浜清七郎について、「三十年来余と友人たり」とある書簡に記しているから、高浜より伯家神道の祭式や修行法を教わった可能性はかなり高い〉
 では、「十種神宝御法」とはいかなる行法なのか。鎌田氏は次のように続ける。
 〈「十種神宝」については、平安時代にまとめられた物部系の伝承を伝えたとされる『先代旧事本紀』に出てくる。物部氏の祖神饒速日神が天降りするとき、高天原で天照大御神より授けられた瀛都鏡(おきつかがみ)・辺都鏡(へつかがみ)・八握剣(やつかのつるぎ)・生玉(いくたま)・足玉(たるたま)・死反玉(まかるかへしのたま)・道反玉(ちがえしのたま)・蛇比礼(へびのひれ)・蜂比礼(はちのひれ)・品物比礼(くさぐさのもののひれ)の十種の天爾玉瑞宝を、「もし痛む処有らばこの十宝をして、一二三四五六七八九十(ひふみよいつむななやここたり)といひてふるへ。ゆらゆらとふるへ。かくせば死人も反り生きむ。これ即ち布瑠(ふる)の言の本なり」といわれるごとく、揺すり振るいながら生命のさきはいを祈ったのが物部系鎮魂祭の初めとされる。この祭祀は宮中の鎮魂祭祀に吸収されたが、伯家の「十種神宝御法」には、そうした古代祭祀や呪術に加うるに、吉田神道の行法の影響があったのではないかと私は思う。菅田正昭によれば、この「十種神宝御法」の行は「目をつぶったままで行なう幽祭修行で、十種神宝を十個の徳目にみたて、自分の魂を磨くことによって、その階梯を一歩ずつのぼっていこうというもの」とされる。また、そこでは手かざしによる浄霊(鎮魂)が行なわれていたという。そのほか、伯家には気吹の法や永世の法なる一種の呼吸長生法が伝わっていた。
 こうしてみれば、本田親徳の再編した「鎮魂帰神術」は、物部石上系の魂の医療技術としての鎮魂(招魂)法と、神功皇后が厳修したといわれる神教を請う方法としての神懸り(帰神)の法とを合体させ、それを導く「霊学」原理として「審神者」の法を確立した点にその特徴があるといえよう〉

副島種臣「王道論」─「国を治むるの要は民を安んずるに在り」

 副島種臣は「王道論」で次のように書いている。
 「帝王の道は国を治むるに在り、国を治むるの要は民を安んずるに在り。民を安んずるの要は人を得るに在り。国体の異なるを問わず、政治の同じからざるを論ぜず、一にこれ皆、国治を以て主となす。民安んじて国治まると称すべし。(中略)このゆえに明王は人を得るに勤む。吐哺握髪なおこれを失わんことを恐る。民をしておのおのその知るところを言わしむ。故に大、得ざるなきなり。故に情、通ぜざるなきなり。かくのごとき精神を以て下に臨めば、すなわち士またおのずから見(あら)わるる者なり。何ぞ得ざるを憂えん。その得ると得ざるとはこれ他なし。ただ君を立つるは民のためなりの旨を持すると持せざるとにあるのみ。これを持する者は必ず盛んに、これを持せざる者は必ず衰う。これ王道盛衰の源なり」

副島種臣と佐賀開進会

 副島種臣は、明治十四年十月に設立された佐賀開進会とも関わりを持っていた。
 同会は、士族反乱の系譜をひく憂国党、国権論を重視する共同社、米倉経夫らの民権派の三派が合流して設立された。
 その主義書は次のように謳っている。
 「我輩ハ開進党ナリ、蒙昧ヲ開キテ善良ニ進ムナリ、凡事漸ニスベキアリ急ニスベキアリ一途ニ拘ベカラズ、漸ニスベキトキハ則漸ニスルヲ以テ漸進党ト謂レテモ可ナラン、風俗教化ノ如キハ漸ヲ以テ成ルモノナリ、更革ノ際ハ急激ニスルコトモアルベシ、急進過激党ト謂レテモ不可ナラズ、尚モ小民社約ノ困難ハ解カシメンコトヲ要ス、此小民ナルモノハ後ガ後程多クナルモノナリ、今ヨリ後人口繁桁セバ土ニ開クベキノ資ナクシテ而食ヲ仰グノ取ルベキナケン、此時ニ当テ流離顛沛ヲ余所目ニ視流スハ人類同儕ノ意ニ非ズ、夫人生ルヽ時ヨリ国民ノ名ヲ被ラザルハナシ、宜ク亦撰挙被撰挙ノ権ヲ有スベキナリ、此理ヲ以テセバ社会党ナリ、我国アリテヨリ君父アリ、栄貴ノ二字ヲ君父ニ譲ルゾ忠孝ノ本意ナレ、斯クテハ王党トアルモ何ノ不可カ之有ン、道義ヲ以テ起チ道義ヲ以テ処ル、我道義ハ天ノ賦スル侭ノ自由ナリ、仁ニ当テハ師ニサヘモ譲ラズ純然タル自由党ナリ、此数党備テ而後ニ開進党ナリ、偏言偏行ハ完璧ニ非ルナリ、且我輩之ヲ観ル王者党ナシ決ヲ多類ニ取ル、苟も此義ヲ推セバ天下ノ公道成ル」
 この主義書は、副島が口述したものを筆記したものである。また、米倉の日記からは、米倉のグループと副島の関係の深さが窺える。
 同会が設立された当時、副島は北海道開拓使官有物払下げ事件に憤慨し、同会メンバーを糾合しようとしていたのである。

副島種臣宛て明治天皇御宸翰(明治13年3月31日)

 副島種臣は明治12年から侍講を務めていたが、明治13年に入ると体調を崩し、進講を中絶し辞意を示すようになった。同年3月31日、副島の辞意を知った明治天皇は、その夜宸翰を認め、侍補土方久元に即刻、副島邸にもたせた。
 「卿ハ復古ノ功臣ナルヲ以テ朕今ニ至テ猶其功ヲ忘レス、故ニ卿ヲ侍講ノ職ニ登庸シ以テ朕ノ徳義ヲ磨ク事アラントス、然ルニ卿カ道ヲ講スル日猶浅クシテ朕未タ其教ヲ学フ事能ハス、頃来卿病蓐(びょうじょく)ニ在テ久ク進講ヲ欠ク、仄ニ聞ク、卿侍講ノ職ヲ辞シ去テ山林ニ入ントス、朕之ヲ聞ク驚駭ニ堪ヘス、卿何ヲ以テ此ニ至ルヤ、朕道ヲ聞キ学ヲ勉ム、豈一二年ニ止マランヤ、将ニ畢生ノ力ヲ竭サントス、卿亦宜ク朕ヲ誨ヘテ倦ムコト勿ルヘシ、職ヲ辞シ山ニ入ルカ如キハ朕肯テ許ササル所ナリ、更ニ望ム、時々講説朕ヲ賛ケテ晩成ヲ遂ケシメヨ」
 この御宸翰に感泣した副島は、翌朝参内し、侍講の継続を誓った。以来、明治19年侍講職が廃止されるまで副島は進講を続けた。

「副島建国策」─延喜天暦の治の理想

副島種臣
 明治初年、岩倉具視が「建国ノ体ヲ昭明ニシテ以テ施政ノ基礎ヲ確定スル」ため、参議たちに意見を求めたのに対して、副島種臣は明治3年9月頃、「副島建国策」を起草した。注目すべきは、その一項目に「延喜天暦」とあることだ。
 「皇綱紐ヲ解テヨリ以来、武人天下之権ヲトル、頼朝、尊氏、豊臣氏、徳川氏ノ如キ、一時天下之政ヲ為ストイヘトモ、抑一家ヲ営ムノ政タリ、万民ヲ保全セシムルノ政府ニアラサルナリ、荀モ此義ヲ審ニスレハ、建国之体可弁也」(「岩倉具視関係文書」)
 ここからは、明治政府が天皇親政の雛形である「延喜天暦の治」を目指すべきだという副島の考え方が窺える。

『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』参考文献②

◎主要書籍

 『垂加神道』(上・下)、神道大系編纂会 昭和53年~59年
 NHKプラネット中部『写真家大名・徳川慶勝の幕末維新―尾張藩主の知られざる決断』日本放送出版協会、平成22年
 阿部秋生『河村秀根』三省堂、昭和17年
 井上智勝『吉田神道の四百年 神と葵の近世史』講談社、平成25年
 磯前順一・小倉慈司編『近世朝廷と垂加神道』ぺりかん社、平成17年
 羽賀祥二、名古屋市蓬左文庫『名古屋と明治維新』風媒社、平成30年
 加来耕三『徳川宗春 尾張宰相の深謀』毎日新聞社、平成7年
 河合敦『徳川幕府対御三家・野望と陰謀の三百年』講談社、平成23年
 河村秀根・益根編著『書紀集解 附録 河村氏家学拾説』臨川書店、昭和63年
 梶山孝夫『義公漫筆』錦正社、令和2年
 岸野俊彦『幕藩制社会における国学』校倉書房、平成10年
 岩田隆『東海の先賢群像 続編』桜楓社、昭和62年
 岩田隆『東海の先賢群像』桜楓社、昭和61年
 鬼頭素朗『尾張学概説』奎星社、昭和15年
 亀井宏『尾張の宗春』東洋経済新報社、平成7年
 近藤啓吾『山崎闇斎の研究』神道史学会、昭和61年
 近藤啓吾『続・山崎闇斎の研究』神道史学会、平成3年
 近藤啓吾『続々・山崎闇斎の研究』神道史学会、平成7年
 拳骨拓史『兵学思想入門: 禁じられた知の封印を解く』筑摩書房、平成29年
 皇学館大学出版部『皇学論集 高原先生喜寿記念』(田辺裕「徳川義直の神道研究」所収)、昭和44年
 高橋美由紀『伊勢神道の成立と展開 増補版』ぺりかん社、平成22年
 高埜利彦『江戸幕府と朝廷』山川出版社、平成13年
 佐伯有義等編『神祇全書』皇典講究所、明治39年
 三田村鳶魚『将軍家の御家騒動』グーテンベルク21、平成26年
 山下昌也『徳川将軍家の真実』学研プラス、平成19年
 山口和夫『近世日本政治史と朝廷』吉川弘文館、平成29年
 市橋鐸『松平君山考』名古屋市教育委員会、昭和52年
 手島益雄『愛知県勤王家伝』東京芸備社、大正13年
 手島益雄『愛知県儒者伝』東京芸備社、大正元年
 出村勝明『吉田神道の基礎的研究』臨川書店、平成9年
 松永義弘『柳生一族の陰謀』富士見書房、昭和58年
 松本丘『垂加神道の人々と日本書紀』弘文堂、平成20年
 城山三郎『冬の派閥』新潮社、昭和60年
 植松茂彦編『鈴門遺草』中日出版社、昭和59年
 森田康之助『湊川神社史 中巻 景仰篇』湊川神社社務所、昭和53年
 秦達之『尾張藩草莽隊―戊辰戦争と尾張藩の明治維新』風媒社、平成30年
 水谷盛光『実説名古屋城青松葉騒動―尾張徳川家明治維新内紛秘話』名古屋城振興協会、昭和47年
 石岡久夫編『日本兵法全集 第7 諸流兵法 下』人物往来社、昭和43年
 折本龍則『崎門学と『保建大記』―皇政復古の源流思想』崎門学研究会、令和元年
 大鳥居武司『天野信景の研究』大鳥居武司、平成20年
 中部日本放送株式会社編『宮廷の雅 有栖川宮家から高松宮家へ』中部日本放送、平成23年
 中野雅夫『革命は芸術なり 徳川義親の生涯』学芸書林、昭和52年
 塚本学・新井喜久夫『愛知県の歴史』山川出版社、昭和45年
 田中善一『熱田神宮とその周辺』名古屋郷土文化会、昭和43年
 田辺裕『尾張藩と真清田神社』真清田神社社務所、平成13年
 渡辺博史『幕末尾張藩の深慮遠謀―御三家筆頭の尾張が本当に何もしていなかったのか』ブックショップマイタウン、平成27年
 藤田覚『江戸時代の天皇』講談社、平成30年
 徳川義親『最後の殿様―徳川義親自伝』講談社、昭和48年
 徳川義直著、尾張徳川黎明会編『類聚日本紀 解説』尾張徳川黎明会、昭和14年
 徳川美術館編『徳川義直と文化サロン : 尾張家初代藩主義直生誕400年 : 秋季特別展』徳川美術館、平成12年
 徳川黎明会徳川林政史研究所編『源敬様御代御記録 第1~4』八木書店古書出版部
 南原幹雄『御三家の反逆 上』角川書店、平成7年
 日本史籍協会編『尾崎忠征日記 1、2』東京大学出版会、昭和59年
 平賀泥水『山県大弐と宝暦・明和事件 知られざる維新前史 Kindle版』日吉埜文庫、平成25年
 北川宥智『徳川宗春 〈江戸〉を超えた先見力』風媒社、平成25年
 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 第1巻 文教編』名古屋市教育委員会、昭和35年
 名古屋市教育局文化課『徳川義直公と尾張学』昭和18年
 名古屋市博物館編『尾張名古屋の古代学 江戸時代の名古屋人がみた古代』名古屋市博物館、平成7年
 名古屋市蓬左文庫編『名古屋叢書 三編第11巻』(楽寿筆叢)、名古屋市教育委員会、昭和60年
 野口勇『維新を動かした男―小説尾張藩主・徳川慶勝』PHP研究所、平成10年
 有馬祐政編『勤王文庫 第1編 教訓集 第1』大日本明道会、大正8年
 林英夫編『図説 愛知県の歴史』河出書房新社、昭和62年
 林董一『将軍の座―徳川御三家の政治力学』風媒社、平成20年

『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』参考文献①

◎国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能な書籍

 庵原小金吾『名古屋史談』東壁堂、明治26年
 井上哲次郎・有馬祐政編『武士道叢書 中巻』(特に兵要録抄録等)、博文館、明治39年
 荻野錬次郎『尾張の勤王』金鱗社、大正11年
 河村秀根『書記集解 首巻』国民精神文化研究所、昭和15年
 近松彦之進編『昔咄 抄録』国史研究会、大正4年
 近松茂矩他著『円覚院様御伝十五箇条』名古屋史談会、明治45年
 佐賀楠公会編『楠氏余薫』木下泰山堂、昭和10年

 佐藤堅司『日本武学史』大東書館、昭和17年
 佐野重造編『大野町史』(特に第18節「勤王と大野」)大野町、昭和4年
 山本信哉編『神道叢説』国書刊行会、明治44年
 山野重徳『国会請願者列伝 通俗 初編』(特に荒川定英)博文堂、明治13年
 手島益雄『愛知県城主伝』東京芸備社、大正13年
 小菅廉編『尾参精華』秀文社、明治32年
 西村時彦『尾張敬公』名古屋開府三百年記念会、明治43年
 天野信景『塩尻 上』帝国書院、明治40年
 天野信景『塩尻 下』帝国書院、明治40年
 田部井鉚太郎編『愛知県史談』片野東四郎等、明治26年
 徳川宗春『温知政要』秋廼屋秋楽、天保7年
 名古屋市編『名古屋市史 人物編 第1』川瀬書店、昭和9年
 名古屋市編『名古屋市史 人物編 第2』川瀬書店、昭和9年
 名古屋市編『名古屋市史 政治編 第1』名古屋市、大正4年
 名古屋市教育会編『済美帖』名古屋市教育会、大正4年
 名古屋市立名古屋図書館編『郷土勤皇事績展覧会図録』郷土勤皇事績展覧会図録刊行会、昭和13年
 野村八良『国文学研究史』(特に13 吉見幸和及び河村秀穎、同秀根)、原広書店、大正15年
 『越中史料 巻3』富山県、明治42年
 『吉見幸和集 第1巻』国民精神研究所、昭和17年
 『吉見幸和集 第2巻』国民精神研究所、昭和17年

「いま『大アジア』を問うことは時代錯誤だろうか」─松岡正剛『千夜千冊エディション 大アジア』

松岡正剛『千夜千冊エディション 大アジア』(角川ソフィア文庫)

 令和2年7月、松岡正剛氏の『千夜千冊エディション 大アジア』(角川ソフィア文庫)が刊行された。「大アジア」というタイトルに驚き、筆者の問題意識と重なる多くの書物が手際よく紹介されていることもあり、熟読した。
 さて、同書において、12年も前に書いた拙著『アジアの英雄たち』(展転社)を圧倒的ページ数(287~353頁)で取り上げていただいたことに、心より感謝申し上げる。
 〈著者は日本経済新聞出身のジャーナリスト兼ライターの坪内隆彦で、「月刊日本」連載の『アジアの英雄たち』をもとに充実させた。タイトルに『アジア英雄伝』とあるように、あからさまな大アジア主義称揚の視点で綴られている。冒頭に頭山興助の「推薦の辞」が飾られているのだが、この人は頭山満のお孫さんだし、あとがきには田中正明の『アジア独立への道』(展転社)からの影響を記している。田中は松井石根の私設秘書から近現代アジア史の著述に向かい、『パール博士の日本無罪論』(小学館文庫)、『東京裁判とは何か』(日本工業新聞社)などを書いた。
 そういう一冊ではあるのだが、当時の大アジア主義にかかわった人物を点検するには浩瀚かつ便利な一冊になっている〉
 松岡氏が「そういう一冊ではあるのだが」と、わざわざ前置きされたことについては、いろいろ考えるところがあるが、筆者が「大アジア主義称揚の視点」で綴っていたことを否定するつもりはない。
 ただ、大アジア主義といっても、在野のアジア主義と政府のアジア主義には違いがある。筆者は一貫してアジアの亡命志士たちが日本政府の政策に失望した事実を強調してきた。拙著の中でも次のように書いている。 続きを読む 「いま『大アジア』を問うことは時代錯誤だろうか」─松岡正剛『千夜千冊エディション 大アジア』