真木と高山を繋ぐ宮原南陸
 
 平成三十年四月十五日、筑後市水田に向かい、真木和泉が十年近くにわたって蟄居生活を送った山梔窩(くちなしのや)を訪れた。
 やがて、真木は楠公精神を体現するかのように、行動起こすが、彼の行動は高山彦九郎の志を継ぐことでもあった。
 真木は、天保十三(一八四二)年六月二十七日に、彦九郎没五十年祭を執行している。では、いかにして真木は彦九郎の志を知ったのであろうか。それを考える上で、見逃すことができないのが、合原窓南門下の宮原南陸の存在である。
 文政七(一八二五)年、真木が十二歳のとき、長姉駒子が嫁いだのが、南陸の孫の宮原半左衛門であった。こうした縁もあって、真木は、半左衛門の父、つまり南陸の子の桑州に師事することになった。ただし、桑州は文政十一(一八二九)年に亡くなっている。しかし、真木は長ずるに及び、南陸、桑州の蔵書を半左衛門から借りて読むことができた。これによって、真木は崎門学の真価を理解することができたのではなかろうか。
 一方、彦九郎の死後まもなく、薩摩の赤崎貞幹らとともに、彦九郎に対する追悼の詩文を著したのが、若き日に南陸に師事した樺島石梁であった。石梁こそ、彦九郎の志を最も深く理解できた人物だったのである。
 石梁は、宝暦四(一七五四)年に久留米庄島石橋丁(現久留米市荘島町)に生まれた。これが、彼が石梁と号した理由である。三歳の時に母を亡くし、二十五歳の時に父を亡くしている。家は非常に貧しかったが、石梁は学を好み、風呂焚きを命じられた時でさえ、書物を手にして離さなかったほどだという(筑後史談会『筑後郷土史家小伝』)。
 天明四(一七八四)年江戸に出て、天明六年に細井平洲の門に入った。やがて、石梁は平洲の高弟として知られるようになった。石梁は寛政七(一七九五)年に久留米に帰国した。藩校「修道館」が火災によって焼失したのは、この年のことである。石梁は藩校再建を命じられ、再建された藩校「明善堂」で教鞭をとった。

高山彦九郎の志を励ました樺島石梁
 後藤武夫の『高山彦九郎先生伝』には、彦九郎と石梁の親密な関係が活写されている。例えば、寛政元(一七八九)年十一月十八日の夜のことが次のように描かれている。
 
 〈(高山)先生は、桜田門外において丹生佐七なるものと一盞を傾け、微醺の余、西久保を過ぎ、有馬藩邸において樺島石梁と会見せられた。そこでもまた吸物や酒が出た。席には二、三の客があつた。……同日の記に「大に語る」とあるから、酒漸く醺するに従つて、学問の話や、詩文の話で相当賑はつたらしかつた。……詩は主人役の石梁から始まつた。
    赤城山人見訪  樺 公禮
 丈夫三歳別。 寧得不愀然。 相逢倶刮目。 寒月上高天
 此詩によつて、先生と石梁とが、如何に旧相識の間柄であつたかが知れる。三歳の別であるから、三年このかた逢はれなかつたことが想はれる。先生は喪中の籠居によつて三年の長き間、江戸に出られなかつた。謂ゆる「丈夫三歳別」である。「赤城山人訪はる、喜んで賦す」と云つた久留米藩の儒人石梁の先生に対する感情は、さながら春風の如く和らかであつた〉
 後藤は、これに続けて、同席していた客人の詩を紹介した上で、次のように記している。
 〈(高山)先生之に酬いられたものは、一首の和歌であつた。
   ますら男の三とせ別れし後に逢ふて
    共に見し夜の月ぞさやけき
 霜月十八日の月は、氷の如く中天にかゝつて、寒光一しほに冴えた。庭前の竹影定めし婆娑たるものがあつたであらう。一夕の雅会がそゞろに羨まれる。……
 嘗て先生が江戸に召されて、其の至孝を旌賞せられんとし、却つて咎を被り、落莫空囊故郷に帰るの秋、彼は先生を送るに頗る豪宕な文字を以てした。「性責権を避けず、曰く七尺の躯、三尺の剣、厳として諸侯なし、勇にあらずして何ぞや、礼俗に拘々たらず、名利に汲々たらず」と云へる。正に先生の真面目を直写したものである。又先生の志を得ざるを慰めて、「天の君を抑屈して、乃ち君をして其の足らざる所を勉めしめ、而して玉成を中行に要めんと欲する耶」と云つて居る。之を要するに石梁ほど高山先生を善く理解したものはない。之を激励し、之を慰撫し、共の奇行狂簡を改めしめ、以て中行に玉成せしむべく努力したものは、実に樺島石梁其の人であつたのである〉
 石梁は、「即似庵」における彦九郎と久留米崎門派の会合にも参加していた。寛政二(一七九〇)年末頃、唐崎常陸介が「即似庵」を訪れたときのことを、三上卓先生は次のように描いている。
 「唐崎、此地に滞留すること五十余日、主人守居を中心とせる闇斎学派の諸士、不破(実通)、尾関(守義)、吉田(清次郎)、田代(常綱)等及国老有馬泰寛、高良山蓮台院座主伝雄、樺島石梁、権藤涼月子、森嘉善等と締盟し……」

[つづく]

坪内隆彦