教学の中心的指導精神を神道に置いた北条氏長の兵学について、河野省三は『近世の国体論』(日本文化協会出版部、昭和十二年)で次のように書いている。
〈氏長の兵学が神道精神を中心として展開し来り、素行の兵学が國體観念に結合して所謂武士道としての学的体系を取つて進展し行くことは、日本精神発展史の上からも深く注意すべきことである。……有馬成甫氏の『北条氏長とその兵学』には、彼の行動を支配した精神の中心は天照大神の信仰であつて、深く神道に帰依して居つたことを明かにし、又吉田家の唯一神道に於いて重んじた三社託宣に対する尊信が其の日常行為に著はれ、後学松宮観山等の思想にも深い感化を与へたことを一言し、更に進んで、氏長の兵学に於ける特徴として、師伝を体系化したこと、其の本質が教学であること、其の教学の中心的指導精神を神道に置いたこと、その兵学が、実学であることの四点を挙げてをる。此の中で、特に注意すべき点は、氏長の教学としての兵学が、その中心的指導精神を神道に置いた点であつて、其の神道思想の中心が天照大神であることである。北条流の兵法三ケ条の大事として、人事の乙中甲伝、地理の分度伝、天理の大星伝といふことがあるが、大星伝といふのは、当時、兵家の問に尊重された心魂鍛錬の秘法である。氏長には『大星伝口訣』といふものがあるが、「兵家相承天理ノ大事大星ニ止レリ」といふ重要性を有するものであつて、「当流日本流」の立場から、大星を以て.日輪として天照大神に配し奉り、大神の分身たる自家の心魂に大光明を見出し、此に道徳の本体.武道の本源を定めようとする法である〉
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藤本隆之さん、ありがとう
藤本隆之さんが令和4年9月16日に永眠されました。謹んで哀悼の意を表します。
寂しいです。いまも藤本さんの顔を思い浮かべると、あの独特の口調で話す彼の声が聞こえてきます。
「ボクはボクですから」
「俺はやるどー」
「急ぐべからず、慌てるべからず」
「お主も、〇〇だね」
「ラジャー」
「あいよ」
そして、酔えば「酒の一滴は血の一滴」……。
藤本さんと最初に直接お会いしたのは、平成10(1998)年前後だったと記憶しています。新嘗祭で小田内陽太さんから紹介していただいたのが、最初だったと思います。以来、親しく付き合わせていただきました。死ぬほど飲みましたね。周囲は、「致死量を超えるほど飲んでいる」と呆れていました。
いつも最後は、「原宿に行くぞー」と言って、馴染みのロック・バー「ハーフムーン」に連れていかれました。若い頃は、とことん付き合いました。
私が藤本さんの寿命を縮めたA級戦犯であることは間違いないところでしょう。私は、藤本さんから「お前、飲みすぎだよ」と真顔で言われた人間ですから。
最初の頃は、酔って意見が対立すると、いきなり頭突きをしてきました。5回ほど頭突きをされたことがあります。
『月刊日本』副編集長の尾崎秀英君を、藤本さんに紹介したときのことです。やはり議論が白熱し、いきなり藤本さんは尾崎君に頭突きを食らわせました。ところが、尾崎君も引きません。思いっきり頭突き仕返したのです。以来、藤本さんが頭突きをする頻度は次第に減り、やがてしなくなりました。尾崎君も酒を飲み過ぎたことが発端で病気になり、40歳の誕生日を前に亡くなりました。藤本さん、あの世で尾崎君とはもう対面しましたか。
平成24年(2012)年5月15日、岐阜護国神社で五・一五事件80周年大夢祭が開催されました。前日の14日、廣瀬義道さんらとともに、東京から車で岐阜に向かいました。
藤本さんは、焼酎の水割りを水筒に忍ばせて後部座席に座り、こっそり飲り始めました。途中、飲み過ぎて手洗いに行きたくなった藤本さんは、高速道路走行中に、運転していた廣瀬さんに「止まれ」「おい、止まれよ」と、繰り返し叫びました。廣瀬さんは、やむを得ず路肩に停車。藤本さんは、車から飛び下り、慌てて用を済ませた瞬間、足を踏み外して崖から転落。皆、櫨本さんは崖底まで転落し、逝ってしまったと思ったことでしょう。皆、言葉を失いました。
それでも「生きているかもしれない」と思った私は、「藤本しゃちょーーー」と大声で叫んでみました。すると20メートルほど下の方から「おー」という声が聞こえてきました。枝に引っかかって、下まで転落するのを免れたようです。崖から這い上がってきた藤本さんは、「悪い」と言って、何事もなかったように車に乗り込みました。
その1年後の平成25(2013)年のある日。新宿で散々飲んで泥酔。「次行くぞ」と言ってフラフラと中華料理店に入ろうとして、ガラスに向かって突進。その瞬間、ガラスが粉々に割れました。そこに藤本さんは倒れ込みそうになりました。それを助けたのが私です。以来、「お前は俺の命の恩人だよ」と言ってくれるようになりました。
その後も、お互いに酒の失敗を繰り返しつつ、飲み続けました。やがて、藤本さんのホームグラウンドは、下北沢のバー「トラブルピーチ」になりました。酔っぱらって携帯を頻繁になくすため、奥さんに携帯の所持を禁じられました。そのため、連絡を取り合うのが、面倒でしたね。
平成28(2016)年10月29日に大アジア研究会主催で、山下公園において、フィリピンの英雄アルテミオ・リカルテ生誕百五十年記念祭を開催した時には、二日酔いのまま、東京から横浜までタクシーで駆け付けてくれました。令和元(2019)年10月26日に、富士霊園で開催した三上卓先生墓前祭にも参加してくれました。この時もやばかったですが。
ただ、私と藤本さんは酒を飲んでいただけではありません。国を憂いて真剣な議論もしました。何よりも、藤本さんからは、酒を介して、多くの方をご紹介いただきました。その事を何よりも感謝しています。
藤本さんは、交流が深まるにつれ、私が書いたものにも注目してくださいました。ただ、遠慮なく言い合える仲でしたので、厳しいことも言ってくれました。「文章に艶がないね」「文章は下手だね」と。
「だけどお前もブレずに書いてるね」ということで、『月刊日本』に書いた連載をまとめて、平成20(2008)年11月に、展転社から「アジア英雄伝ー日本人なら知っておきたいに十五人の志士たち」を出版していただきました。
翌平成21(2009)年4月2日に、文京シビックセンターで出版記念会を開いていただきました。深く感謝しています。その後も、展転社から『維新と興亜に駆けた日本人―今こそ知っておきたい二十人の志士たち』(平成23年)と『GHQが恐れた崎門学─明治維新を導いた國體思想とは何か』(平成28年)を出版していただきました。
やがて、藤本さんは展転社を退職。私は月刊日本を退職。
ちょうど2年前の令和2年12月12日、藤本さんは福永武さんの協力を得て、大東会館を借りて壮行会を開いてくださいました。そこで、同志を集めて私を励ましてくれました。『維新と興亜』が本格稼働を始めた時でした。深く感謝しています。
藤本さんは体調を崩していましたが、『維新と興亜』の顧問にも就任してくださり、営業面でも編集面でも的確な助言をしてくれました。書店取次のJRCにも同行していただき、『維新と興亜』の書店販売の道を開いてくれました。
また、オンラインで開催している『維新と興亜』塾「橘孝三郎を読み解く」(講師:小野耕資)や維新と興亜懇談会には欠かさず参加され、議論を盛り上げてくださいました。
藤本さんは、『維新と興亜』が今年7月22日に敢行した外務省前抗議街宣(日米地位協定改定要請)にも参加し、街宣車に上って堂々たる主張を訴えました。久々に街宣車からの演説をして闘志に火がついたのか、また街宣をやりたいと言い始めました。しかし、残念ながらそれが実現することはありませんでした。
藤本さんは、今年10月22日に還暦を迎えるはずでした。そこで、8月に入ると私は稲貴夫さんたちと相談し、還暦のお祝いを企画しました。ところがその矢先、藤本さんは逝ってしまいました。
最晩年、肝硬変について尋ねると、藤本さんは「大したことねえよ。医者も飲んでいいって言ってる」と言い張りました。「そんなはずはない」と思ってましたが、それでも藤本さんに、「一切飲むな」と言うことはできませんでした。私がもっと強く止めていればと悔やまれます。しかし、藤本さんは最後まで自分らしい生き方を貫かれました。酒は全力で走るためのガソリンだったのですね。
藤本さん、ありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。いずれ、そちらで一献やりましょう。