「アジアとの関係を最も重視した政治家」(『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』レビュー、令和4年11月8日)

 以下、「アジアとの関係を最も重視した政治家」(『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』レビュー、令和4年11月8日)を紹介します。

 本書は木村武雄氏が日中国交正常化にどのように尽力したかが描かれていますが、個人的にはインドネシアとの関係の深さ、とりわけスハルト大統領(当時)との関係が印象に残りました。御子息の莞爾氏が中断されていた陸軍第三十六師団の遺骨収集再開スハルト大統領に直訴し、すぐに実現したのは、武雄氏とスハルト大統領との間に深い信頼関係があったからこそだと感じました。
混沌とする世界の中で、「王道アジア主義」とは何か、そして21世紀におけるアジア主義をどのように構築していくか、考えさせられる一冊です。

広沢安任氏「永久平和の先駆」(『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』レビュー、令和4年10月22日)

以下、広沢安任氏の「永久平和の先駆」(『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』レビュー)を紹介します。

 木村武雄という有力な代議士がいたことを知っている人は決して多くない。木村は石原莞爾の王道アジア主義の継承者である。同じ山形県の出身でもあり、木村は戦前より東亜連合の思想に惹かれ、石原の門下生となっている。木村は、歴史の方向性を変える変革者として、石原をナポレオン、レーニンと並ぶ逸材と評している。石原没後暫くした後に著作として世に問うている(木村武雄著 ナポレオン レーニン 石原莞爾 近世史上の三大革命家)。
 石原莞爾ほど誤解されている人物は珍しい。満州事変の謀略を実行した張本人とされている為だが、死去する際には永久平和の実現に進むべきことを提唱している。
 石原には有名な「世界最終戦論」という著作があるが、多くの評論などでは真実が正しく伝えられていない。終戦後、山形県庄内地方の鳥海山麓で石原と共に農場を創設した武田邦太朗は次のように骨子を適切に纏めている。
「世界を二分する大勢力が領土や資源を目的とせず、主義の勝敗をかけ、開戦と同時に勝敗の決まる徹底した決戦戦争を、人類の最後の戦争として戦う時期は切迫している。最終戦争なしに、永久平和が実現すれば、これに越したことはないが、世界の現実を直視すれば最終戦争不可避の公算が大きい。故に日本は最終戦争の一方を担うという発想の元に、東亜諸国と心から手を握り、国土計画を始め一切の準備を整え、戦争の悲惨さに耐えつつ公正な世界平和の実現を期すべき時である」
 しかし、その目論見は外れ、日本は敗戦国となり、石原が述べた最終戦争は米国とソ連の間で行われるであろうと予測した。日本はそのどちらにも加担せず、国際世論をリードして、世界最終戦争を回避しつつ、平和へと導く役割を担うべきとした。そして、石原は戦後の日本復興を見ることなく、「身に寸鉄を帯びず」という言葉を残して昭和24(1949)年に亡くなった。其の最後を看取った一人が武田邦太朗だった。戦後は現実政治にも携わったが、晩年は石原の郷里の山形県庄内地方に戻り、石原の墓守として静かに過ごした。
 世界は石原の予測の通りに米ソの冷戦時代に突入した。ところが、その一方であったソ連は、自ら崩壊した。残念ながら、その過程において石原が求めたような日本が大きな役割を果たすことはなかった。石原は21世紀の初頭には永久平和が訪れる旨を予言したが、その兆しは全くない。米ソの冷戦構造が崩壊したことによって、それまで均衡を保っていた国家間のバランスが崩れ、民族主義や原理主義、国家主義が台頭して今日を迎えている。そして現在は、ソ連に代わって中国が経済的も軍事的にも肥大化して、米国との新たな冷戦構造を作ろうとしている。
 最近は中国に対しては、厳しい眼差しが向けられている。香港における民衆運動の弾圧や台湾有事の懸念、中国国内の人権弾圧などを考えれば当然と言えよう。しかし、この混迷極まる状況下であるからこそ、日中関係の歴史を俯瞰してみる必要性があるのではないか。日中国交正常化における裏方での木村武雄の尽力を知る人は少ない。坪内氏は王道アジア主義を基盤とした視点に立ち、丁寧に石原莞爾と、その思想の継承者である木村武雄を描き切っている。本著は一人でも多くの人に読まれるべきである。

山崎行太郎氏「石原莞爾と木村武雄。……坪内隆彦著『木村武雄の日中国交正常化』を読む」(令和4年11月7日)

 以下、山崎行太郎氏の「石原莞爾と木村武雄。……坪内隆彦著『木村武雄の日中国交正常化』を読む」(令和4年11月7日)を紹介します。

 今年は、《日中国交正常化50周年》を迎え、記念式典も開催されたようだが、田中角栄内閣時代に実行された、この《日中国交正常化》という歴史的イベントをめぐっては、その評価は大きく分かれているようだ。本書の著者=坪内隆彦は、《王道アジア主義》という理念の元に、それを高く評価している。王道アジア主義とは、《覇道の原理でアジアに迫る欧米の勢力を排除し、王道の原理に基づいたアジアを建設する》ということだ。この王道アジア主義は、石原莞爾や西郷南洲、頭山満等の思想にも通じる。こういう立場は、現在の日本では、おそらく少数派かもしれない。現在、日本の政治状況は、 安倍晋三や安倍晋三シンパ、あるいは《ネットウヨ》が象徴するように、米国主導の中国敵視政策、中国包囲網作りの渦中にあり、とても《日中国交正常化50周年》を、素直に祝う雰囲気ではない。その意味では、本書は、反時代的な書物ということになるかもしれない。しかし、坪内隆彦は、そういう近視眼的な歴史感覚ではなく、《王道アジア主義》という大きな歴史哲学の元に、 《日中国交正常化50周年》を捉えようとしている。
 そこで、彼が着目するのは石原莞爾と木村武雄である。特に、田中角栄内閣で、《日中国交正常化》に向けて奔走した木村武雄という政治家に着目する。私も、木村武雄という自民党政治家のことは知っていたが、その政治思想としての《王道アジア主義》のことも、田中角栄内閣で、《日中国交正常化》に奔走したことも知らなかった。木村武雄は、石原莞爾と同郷の山形県米沢の出身であり 、若い時から、石原莞爾の《王道アジア主義》に共鳴し、石原莞爾に私淑し、石原莞爾亡き後は、石原莞爾の遺志を受け継ぐべく、あくまでも裏方として、《王道アジア主義》実現に向けて尽力、奔走していたというわけだ。
 実は、坪内隆彦氏は、私も「顧問」として参加し ている民族派右翼の思想雑誌『維新と興亜』の編集長である。『維新と興亜』を舞台に編集長の坪内隆彦氏だけでなく副編集長の小野耕資氏、発行人の折本龍則氏……等も、自民党=統一教会的な《ネットウヨ》とは一線を画した、反米愛国的な、あるいは反統一教会的な《民族派右翼》とでも言うべき立場から論陣を張っている。
 本書は、自民党的保守や自民党的右翼、《ネットウヨ 》的保守、あるいは《ネットウヨ 》的右翼とは、思想的次元の異なる《 保守》や《 右翼 》というものが存在することを、明晰に明らかにしている。《 中国敵視政策》も《中国包囲網作り》も、日本の伝統や文化を守り、日本国民の人権と国益を守る道ではない。

近松家と赤穂義士

■知られざる尊皇思想の発火点・尾張藩
 尾張藩が水戸藩と並ぶ尊皇思想の発火点となったのは、初代藩主・徳川義直(敬公)の遺訓「王命に依って催さるる事」が脈々と継承されたからである。
「王命に依って催さるる事」は、事あらば、将軍の臣下ではなく天皇の臣下として責務を果たすべきことを強調したものであり、「仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」と解釈されてきた。
 この義直の遺訓は、第四代藩主・徳川吉通(在任期間:一六九九~一七一三年)の時代に復興し、明和元(一七六四)年、吉通に仕えた近松茂矩が『円覚院様御伝十五ヶ条』として明文化した。やがて十九世紀半ば、第十四代藩主・徳川慶勝の時代に、近松茂矩の子孫近松矩弘らが「王命に依って催さるる事」の体現に動くことになる。
 ここで注目したいのが、近松家と赤穂義士の関わりである。もともと、近松茂矩が学んだ崎門学においては、赤穂義士の行動を肯定する議論が展開されていた。もちろん、崎門学派の中でも佐藤直方のような否定論はあったが、浅見絅斎は「四十六士論」において、義士の行動を称えていた。そして、勤皇の志士の中には、赤穂義士の行動に尊皇反幕の思想を読み取ろうとする者もいたように見える。
 赤穂事件は、吉通が藩主に就任してまもなくの元禄十四(一七〇一)年三月十四日に起きた。浅野内匠頭長矩が、江戸城松之大廊下で、高家の吉良上野介義央に斬りかかった。将軍・綱吉は激怒し、浅野内匠頭は即日切腹に処せられた。これに対して、翌元禄十五年十二月十四日夜、家臣の大石内蔵助良雄以下四十七人が、江戸の吉良邸に討ち入りしたのだ。
 縁者である近松勘六(行重)が赤穂義士の一人だったこともあり、茂矩にとって赤穂事件は極めて重い意味を持っていた。勘六は、討ち入りの際、表門隊の一員として早水藤左衛門らと屋外で奮戦、泉水に転落したが、ひるむことなく敵を斬り伏せたという。勘六の兄弟の奥田定右衛門も義士の一人であった。

■近松勘六と山鹿素行
 令和二年二月には、大アジア研究会代表の小野耕資氏、樽井藤吉研究者の仲原和孝氏と共に大津に赴いた際、勘六旧邸を訪れたが、残念ながら邸宅内の見学は叶わなかった。
近松勘六旧宅
 令和四年十一月三日の明治節の日、『維新と興亜』同人で泉岳寺を訪れ、勘六のお墓にお参りすることができた。
近松勘六墓
 ここで注目すべきは、勘六が山鹿素行の思想に学び、尊皇思想に目覚めていたことである。素行は、元和八(一六二二)年八月に生まれ、林羅山に朱子学を、小幡景憲、北条氏長らに甲州流兵学を学んだ。寛文五(一六六五)年に『聖教要録』で朱子学を批判し、赤穂藩浅野家預けとなった。
 「聖人の学を志すときは聖人を師とす」(『山鹿語類』)とあるように、素行が志した学問は「聖学」、すなわち「聖人」の学問であった。当初彼は、中国の聖人、孔子とそれ以前の十聖人(伏義・神農・黄帝・堯・舜・禹・湯・文・武・周公)を聖人として崇めた。やがて彼は、聖人たる根拠を求めていく過程で、神を聖人と同一視するようになり、日本の神々こそ「聖人」であり、「往古の神勅」をはじめとする遺教こそ「聖学」・「聖教」の渕源であり、神道こそ「聖道」である、という考え方を固めるに到った。こうして彼は、儒学に匹敵するわが国の「聖教」を導き出すべく、『日本書紀』が伝える神勅と向き合ったのだ。
 そして素行は寛文九(一六六九)年に『中朝事実』を著し、易姓革命のない日本こそが中華であると言い切った。「中朝」とは日本を指している。
 素行は、神武天皇が群臣に詔して、「ここに謹んで天位に即き、国民を統治し、アマテラス及びタカミムスビがこの国を授け給うた御徳に沿い、ニニギノミコトが降臨されて、正道を中心として人民を導かれた御心をさらに天下に弘めたいと考える」と仰せられたことを重視していた。また、第十代・崇神天皇が即位四年の冬十月に下された詔について、素行は、天子が皇位を私有視することを戒められたものであり、永遠の皇室の御繁栄を基礎づけられたものと拝察できると書いている。さらに素行は、「民のかまど」の逸話に示される仁政で知られる第十六代・仁徳天皇について「御身に並々ならぬ節約を守られ、国民を裕福にさせて、頼るべき人のない哀れな者を救って、国民の貧富は、そのまま帝王の貧富だとされた」と述べている。
 勘六が素行の国体思想を継承していたことは、西村豊の『赤穂義士修養実話』に、「原惣衛門(近松勘六)は大石内蔵助の四天王にて義挙に貢献したことは云ふまでもないが、近松勘六の一美事として見るべきは、山鹿素行の遺著なる山鹿語類を愛読した点である」と書かれていることから明らかだ。
 西村は、勘六が郷友に送った手紙に「山鹿語類、武教要録の儀、先其許へ御指置可被下候」とあることを指摘し、こう続ける。
 「義士中にありて山鹿に親炙せしものは原惣右衛門、間喜兵衛の二人のみ、此は山鹿日記に見えて居る、其外大石内蔵助始め四十七士は山鹿の感化を得る所ありしあらんも、其の得し所のもの如何なる順序を以てせるか又如何なる書物に依りて得たるか今明かに之れを知ることが出来ないが、勘六の如きは間接と云ひながら、此の手紙によるときは彼は山鹿の尤も心力を注ぎし語類を蔵すれば、之を愛読したのは明白である」
 一方、『天津日を日神と仰ぎ奉る国民的信仰に就いて』などを著した丸山敏雄は、「大石内蔵助が、その大業成就の最大動因は、その師山鹿素行先生に享けた『中朝事実』にあらはれた国体観念であり、山鹿流軍学にうけた日神の信仰でなければならぬ」と述べている。大星伝を受容していた近松茂矩は、素行から勘六や大石に伝えられた国体思想と不可分の「日神(天照大神)信仰」、そして大星伝に強く共鳴するところがあったに違いない。
『義士四十七図 近松勘六行重』(尾形月耕画)
 赤穂義士十七回忌にあたる享保四(一七一九)年、片島武矩が編纂した『赤城義臣伝(太平義臣伝)』が刊行されている。その首巻には、義士の図像が掲載されているが、勘六の図像の賛を書いたのが茂矩であった。
 また、茂矩は赤穂義士の一人で、名古屋出身の片岡高房(源五右衛門)に対しても特別な思いを抱いていた。茂矩の『昔咄』には、「内匠頭大変の時、源五右衛門、始めから義心鉄石の如くにて、四十七人のなかにて勝れたる者なり」と記されている。

徳富蘇峰と崎門学

■なぜ蘇峰の父は「一敬」と号したのか
 徳富蘇峰は、竹原の崎門学派・唐崎赤斎の顕彰碑碑文を撰したのをきっかけに、崎門学への思いを一層強めていった。やがて蘇峰は、横井小楠やその門人であった父一敬らについても、次のように書くに至る。
 「世間では横井小楠を目して、陽明学派と称するも、彼は本来山崎学派にして、小学、近思録、大学或門、中庸或門輯略などは、彼自ら読み、且つ門人にも課した。而して其の門人たる吾が父及び其弟の如きも、闇斎を崇敬するの余り、闇斎の名たる敬義を分ち用ゐ、一敬、一義と称してゐた程であつた。又小楠の学友長岡是容、元田永孚の如きも、亦然りであつた。固より彼等は永く崎門の牆下には立たなかつたが、其の門戸は是れに由つた。されば元田永孚の 明治天皇に御進講申上げたる経書の如きも、彼が如何に山崎学に負ふところの多大であつたかは、今更之をくだくだしく説明する迄もあるまい。若し地下の闇斎先生にして知るあらば、吾道の明治聖代に際して、大いに世に明らかになりたるを、定めて思ひ掛けなき幸運として感謝したであらう」(「歴史より観たる山崎闇斎先生及び山崎学」『山崎闇斎と其門流』伝記学会編、明治書房所収)
 この蘇峰の一文に誇張したところはない。崎門の楠本碩水が編んだ『崎門学脈系譜』付録には「私淑派」というカテゴリーが設けられており、そこには吉井正伴、吉井底斎、長岡温良(監物)、横井小楠、元田東野、徳富淇水、徳富龍山らの名前が記されているのだ。徳富の父徳富淇水は一敬と、淇水の弟龍山は一義と号していたのだ。また、平泉澄は『解説近世日本国民史』で次のように書いている。
 〈蘇峰の晩年に、といふよりは最後に面談した時に、遺言として色々話があつた中に、淇水の諱一敬の敬も、龍山の諱一義の義も、また蘇峰の諱正敬の敬も、すべて是れは山崎闇斎の諱敬義の一字を貰つたのであると、私に語られた。また其の幼年時代に母の膝の上に抱かれながら、謝畳山(枋得)の詩「雪中の松柏いよいよ青々」を聴き覚えに覚えた事は、蘇峰自伝に見えてゐる。して見れば徳富家は、江戸時代かなり有力に肥後に伝はつてゐた山崎闇斎の学問を以て家学としてゐた事、明かである〉
 すでに蘇峰は大正七(一九一八)年六月三日に『近世日本国民史』の執筆を開始していた。そのきっかけは、明治天皇の崩御であった。明治という時代の終焉に当り、蘇峰は「明治天皇御宇史」の著述を決意したのである。
 大正十三(一九二四)年十一月四日には、崎門学派弾圧事件が発生した宝暦、明和の時代を扱った第二十二巻「宝暦明和篇」を書き始め、大正十四年二月十三日に脱稿している。同巻では、「尊王斥覇の思潮」の一章を割いて、以下のように述べている。
 「国典の研究は、決して幕政の支持に有利ではなかつた。歌人は、万葉、古今の王朝を偲び、律令格式の学者は、朝政の盛時を慕ひ、歴史研究者は、皇祖肇国の大業を仰ぎ、何れの方面に於ても、慕古の思想を萌生し、而して慕古の思想は、やがて、復古の思想たらざるを得なかつた」
 蘇峰は、「宝暦明和篇」起稿前年の大正十二(一九二三)年の八月には、「月田蒙斎」という随筆で次のように書いている。
 「山崎派の本山とも云ふ可きは、京都の望楠軒であった。望楠軒の主盟は、若林強斎・西依成斎而して最後に梅田雲浜だ。若し夫れ九州に於ける山崎派の学統は、肥後の月田蒙斎より、肥前の楠本碩水に至り、延いて今日に及んでいる」(『第二蘇峰随筆』大正十四年所収)

■徳富蘇峰・平泉澄・有馬良橘が崎門学継承を強く意識した昭和三年
 崎門学の継承において、蘇峰が果たした役割は極めて大きい。その活発な活動は、平泉澄との出会いによって拍車がかけられたように見える。
徳富蘇峰
 以下、高野山大学助教の坂口太郎氏の「大正・昭和戦前期における徳富蘇峰と平泉澄」(第十九回松本清張研究奨励事業研究報告書、平成三十一年三月)に基づいて、蘇峰と平泉の関係について紹介したい。
 両者の好誼は、大正十五(一九二六)年から蘇峰が亡くなる昭和三十二(一九五七)年まで三十年以上にわたって続いた。
 平泉は蘇峰を追悼した「徳富蘇峰先生」で、「私が先生より受けましたもの、又先生が私に対して示されました深い御理解、或は御愛顧といふものが、殆ど日夜咫尺して居ると異ならぬやうに私は感ずるのであります」と述べている。
 蘇峰の『近世日本国民史』の連載が『国民新聞』で開始された大正七年、平泉は東京帝国大学文科大学の学生だったが、国民新聞に載った「国民史」の連載を切り抜いて読んでいたという。
 両者の直接的に交流は、『国民新聞』が主体的に運営していた国民教育奨励会での活動を通じて始まっている。大正十五年八月に奈良県吉野山蔵王堂で開講された師範大学講座において、平泉は「国史通論」と題して講演したのだ。以来、平泉は蘇峰から講演会の講師として招聘されるようになる。
 また、蘇峰は平泉の『神皇正統記』研究を支援していた。蘇峰は貴重な自らの蔵書である、『神皇正統記』の梅小路家本・登局院本を特別に平泉に貸し出している。
 そして、昭和三年は蘇峰と平泉、さらには海軍大将の有馬良橘が崎門学の継承を強烈に意識する年となる。その年は、橋本左内の七十年忌に当っていた。左内の顕彰に注力していた平泉は、左内七十年忌に際して、盛大な講演会と展覧会を催すべく、蘇峰に講演を懇望したのであった。同年十月七日、東京小松原の回向院において、橋本左内の墓前祭が斎行され、その後、東京帝国大学仏教青年会館に場所を移して、記念祭典と講演会が開催された。「橋本左内先生」と題して講演を務めたのが蘇峰である(坂口太郎「大正・昭和戦前期における徳富蘇峰と平泉澄」)。
 蘇峰は翌十一月、昭和天皇の即位御大典に際して京都に赴き、海軍大将の有馬良橘の案内で黒谷にある闇斎の墓にお参りしている。平泉が予てから尊敬していた有馬と出会うのは、翌十二月のことだ。平泉は、同月十四日に開催された、海軍の退役高級武官の親睦修養組織「有終会」主催の講演会で、「歴史を貫く冥々の力」と題して講演し、崎門学の真価を訴えたのである。平泉は次のように振り返る。 続きを読む 徳富蘇峰と崎門学

「覇道主義の克服」─『木村武雄の日中国交正常化』レビュー②(令和4年10月19日)

 〈木村武雄のことは、本書を読んで初めて知ったが、かつてはこのような立派な政治家がいたのかと驚くと同時に、戦前昭和にこうした「王道の原理に基づいた」アジア主義者がもっと多くいれば、あるいは敗戦という憂き目も避けられたのかも知れないと思うと、悔やまれる思いがする。
 確かに、例えば当時の東条政権も、口では「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」などの構想を語っており、表面的にはアジア主義に見えるのだが、しかし木村武雄の師である石原莞爾に言わせれば、結局「東条には思想がない」(p77)のであり、「彼らの大部の心は依然西洋覇道主義者」(p67)であった。一方、本当のアジア主義者は、「然諾を重んじ万人に親切である事」(p17)を第一義とする。
 本書を読んで感じたのは、表面的なスローガンや構想は誰にでも言えるが、真の意味で「思想がある」政治家は、今も昔も少ないのかも知れない、ということだ。そうだとすれば残念なことではあるが、しかし道が無いわけではない。著者は、「我々は王道アジア主義と覇道アジア主義を峻別し、覇道アジア主義の過ちを真摯に反省し、いまなお残存する内なる覇道主義を克服する必要がある」と訴えるが、本書を通読すれば、この主張は多くの人に納得をもって迎えられることだろうと思う。〉(さちひこ氏、アマゾン・レビュー、令和4年10月19日)。
坪内隆彦『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』(望楠書房、令和4年9月)

国体をつないだ礒宮八幡神社の赤斎唐崎先生碑

 敗戦の瞬間、占領軍によってわが国の国体の破壊が開始された。この苦難の時代を耐え抜いて国体精神を守り抜いたのは、先人の魂を伝えるために身を挺して日本人であった。中でも広島県・竹原の崎門学派・唐崎赤斎の魂を伝えようと志した同門、同郷の吉井章五の不屈の精神こそ、日本人が忘れてはならない歴史の一つなのではなかろうか。
 筆者は令和四年七月、竹原市を訪れ、赤斎ゆかりの礒宮八幡神社に向かった。吉井が幾多の困難を乗り越えて建立した赤斎唐崎先生碑の前に立つと、「首向宮闕」の四文字が目に飛び込んできた。赤斎の遺墨だ。徳富蘇峰撰、上田鳩桑書の碑文冒頭には「先生、覇府(幕府)鼎盛の世に当り、尊皇の大義を首倡し……」とある。この碑こそ、吉井が赤斎顕彰に人生を懸けた証である。
 筆者はいま、崎門正統を継いだ近藤啓吾先生門下の金本正孝先生の研究を継いで、赤斎の足跡を令和の世に伝えようとしている。

唐崎赤斎墓赤斎唐崎先生碑赤斎唐崎先生碑 
 吉井が「年来の素願」であった赤斎顕彰碑建立に動いたのは、昭和四(一九二九)年秋のことであった。吉井は上京し、熊本新聞主幹を務めた同郷の村上定を訪問、顕彰碑の建設について相談したのである。村上はただちにこれに賛同し、篆額は東郷平八郎大将に依頼してはどうかと提案した。吉井が村上に宛てた書簡が残されている。
「……唐崎先生之碑文之儀、種々御厄介之儀御頼申上候処、早速御賛同御承諾被下喜悦大に力を得申候、既に申上候通り小生年来の素願にて、此機を失しては、永久に国士を礼賛する標識、望無之事と信じ申候。又一郷之思想を永久ニ誤らしめざるは之に優るもの無之存候。此素願を是非共達成致度く存申候間、何卒微衷御洞察の上、此上とも万事御援助賜候て所願貫徹せしめられ度御願申上候。篆額之儀、興国標的たる大偉人東郷大将の御揮毫の御気付は更に大妙、宜しく〱御心添被下、又書の儀は其内東都なり平安の大家御考慮被下候様願申候……」
 金本は、この書簡が出されたのは昭和四年十一月八日だと推測している。
 吉井の念頭には、碑文を徳富蘇峰に依頼することがあったに違いない。村上は蘇峰と交友があったからだ。昭和五年が明けると、吉井の念願は蘇峰に伝えられたのである。蘇峰が約半年かけて練った文稿は、同年六月二十七日に吉井に届けられた。

木村武雄は中国のエージェントか愛国の王道アジア主義者か─『木村武雄の日中国交正常化』レビュー①(令和4年10月17日)

〈先日門田隆将氏の『日中友好侵略史』を読み、木村武雄という人物のことを知りました。同書では「廖承志が隠し続けた人物」として木村が登場、中国による工作のターゲットになっていた様子が描かれています。果たして木村武雄はエージェントだったのでしょうか。
 この木村武雄の人生に光を当てたのが、本書『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』です。木村は、本書では単なる親中派ではなく、石原莞爾の王道アジア主義を体現した男として描かれています。著者は「王道アジア主義は西郷南洲を源流とし、宮島誠一郎、宮島大八、南部次郎、荒尾精、根津一、頭山満、葦津耕次郎といった人物に継承されていた」と述べ、日中関係に取り組んできた先人たちの思いを重視しています。長期的な日中関係の在り方について改めて考えさせられました。〉(アマゾン・レビュー、令和4年10月17日)。
坪内隆彦『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』(望楠書房、令和4年9月)

『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』目次

はじめに
第一章 政治家・木村武雄の誕生
  「俺は馬賊になる」
  党人政治家・安達謙蔵との出会い
  そんぴん(損貧)
  「十一教授追放事件」
  「混濁の世に社会正義を貫き徹す」
  「自分が農民の先頭に立って戦う!」
  突然逃げ出した石原莞爾
  王道アジア主義への道
  アジア統合と「国体と融合した仏教思想」
  「満蒙占領論」から「満蒙独立論」への転換
  橘樸の王道論
  詠士を「覇道あることを許さぬ真人」と称えた笠木良明
  稀有の大文章「自治指導部布告第一号」
  石原莞爾と笠木良明の不幸なすれ違い
  協和会に混在した王道アジア主義と覇道アジア主義
  大亜細亜建設協会と大亜細亜協会

第二章 石原莞爾と東亜連盟
  特使として派遣された宮崎滔天の長男龍介
  石射猪太郎の和平工作
  「日本は日清戦争以前にまで逆行するぞ」
  「国民政府を対手とせず」
  近衛三原則と東亜連盟
  中山優の警告
  「この日本軍が皇軍と僭称することを天はゆるすであろうか」
  「支那難民救恤運動」の開始を訴えた葦津耕次郎
  中野正剛と東亜連盟
  東亜連盟協会を旗揚げ
  石原─板垣─辻ラインが進めた「アジア大学構想」
  辻政信が起草した「派遣軍将兵に告ぐ」
  「日本主義」に潜む西洋覇道主義
  日中の危機回避に動いた繆斌と権藤成卿
  「西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城となるか」
  汪兆銘は孫文の対日批判を切り落としたのか
  東亜連盟に対する弾圧の開始
  覇道アジア主義に飲み込まれる王道アジア主義
  東条に歯向かい続けた木村武雄
  上海の「木村公館」─王道アジア主義の牙城
  木村の一声で集まった六十万トンのコメ
  周恩来と東亜連盟

『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』 

第三章 王道アジア主義の源流
  八紘一宇(八紘為宇)に侵略的な意味はない
  「派遣軍将兵に告ぐ」に示された八紘一宇
  木村武雄の八紘一宇論
  王道アジア主義の源流・西郷南洲
  南洲は征韓論など唱えていない
  「支那のことは宮島(誠一郎)に聞け」と仰せられた明治天皇
  曽根俊虎と興亜会
  宮崎滔天と孫文
  王道アジア主義者を輩出した宮島詠士の善隣書院
  人種差別撤廃を唱えた宮島詠士
  中野正剛の名刺をもみくちゃに捩りつぶした詠士
  南洲の東洋経綸と道義外交を引き継いだ荒尾精
  「漢口楽善堂」に集結した興亜の志士
  南部次郎と日華提携の真義
  「将来の中国のためにこそ中国を撃つ」
  皇国の天職と「百年の長計」
  松井石根大将処刑の逆説
  清国変法自強派と東亜会の連携
  「明治維新に学べ」─康有為に影響を唄えた黄遵憲『日本国志』
  日清両国の君主の握手
  「乙未同志会」から同文会へ
  東亜同文書院の精神
  書院の建学精神を体現した石射猪太郎

第四章 執念の日中国交正常化
  アジアの団結に対する強い危機感
  「ペリーを呼んでこい」
  辻政信の潜伏に手を貸した東亜連盟の同志たち
  公職追放によって阻まれた木村武雄の動き
  石原莞爾最後の言葉
  総選挙で躍進した東亜連盟系候補
  「秘密独善の外交一掃」を掲げる
  日本民主党に加わらなかった木村武雄
  鳩山一郎政権と反米ナショナリズム
  廖承志・高碕(LT)貿易の端緒
  三木武吉による「木村打倒」によって落選
  日中接近を阻んだアメリカ
  木村武雄と陳毅外交部長との会談
  スハルト政権との太いパイプ
  スハルトへの直談判で実現した第三十六師団(雪部隊)の遺骨収集
  自民党内の親台派と親中派
  佐藤栄作は親台派だったのか
  「毛沢東と会う」と言った佐藤栄作
  ニクソン・ショック後の自民党の変化
  石原莞爾との誓い─御成山公園に聳え立つ「石原莞爾分骨記念碑」
  幻の「佐藤栄作・王国権会談」
  「佐藤内閣をここまで追い込んだ責任は岸・賀屋グループにある」
  「田中さんの人柄に惚れてしまった」
  ポスト佐藤は官僚ではなく党人派に
  佐藤の逆鱗に触れた木村武雄
  日中国交正常化を推進した外務官僚・橋本恕
  外務官僚などに任せず、自ら中国の胸の中に飛び込む
  田中派旗揚げの瞬間
  北京の決断と木村武雄
  国家公安委員会委員長として右翼を抑える
  「今、日本の東亜連盟の同志はどうしていますか」

第五章 田中角栄失脚の真相─王道アジア主義を取り戻せ
  「ジャップたちが上前をはねやがった」
  高をくくっていたアメリカ
  キッシンジャーの「秘密兵器」
  親台派の強烈な反発を招いた日中国交正常化
  怒号が飛び交った総理帰国当日の両院議員総会
  日中航空協定交渉に反発した青嵐会
  木村武雄と中川一郎の「激突対談」
  田中退陣と「三木おろし」
  木村武雄の交通事故には謀略説も
  日中平和友好条約締結に情熱を燃やした木村武雄
  渡辺三郎衆議院議員の追悼演説
  日中蜜月の時代から日中対立の時代へ
  アメリカを恐れる日本の指導者たち─田中角栄失脚のトラウマ
  肇国の理想を失った国家は「生ける屍」だ
  今も生きている黄禍論
  大東亜共栄圏と「一帯一路」構想─王道アジア主義を取り戻せ

おわりに

石原莞爾との誓い─御成山公園に聳え立つ「石原莞爾分骨記念碑」

── ようやく、日中国交正常化を実現するための環境が生まれてきた。石原莞爾先生の悲願をいまこそ私が成就させなければならない。
 木村武雄はそう決意したに違いない。昭和四十六(一九七一)年八月十五日、木村は石原莞爾に誓いを立てるべく、米沢の御成山公園に「石原莞爾分骨記念碑」を建立した。昭和二十四(一九四九)年八月十五日に石原が亡くなると、木村は石原の遺骨を分骨し、米沢に持ち帰って埋葬していたのである。
 令和四年八月、この分骨記念碑を訪れるため、木村武雄の次男莞爾氏、三男征四郎氏、孫の忠三氏の案内で、大アジア研究会代表の小野耕資氏とともに車を走らせた。中腹の御成山公園からは米沢盆地を見渡せる。そこからさらに八百メートルほど山道に沿って登ると、重厚な記念碑が姿を現した。高さは五メートルほどもある。木村はこの記念碑を石原の故郷鶴岡に向けて建てたという。木村が撰した碑文には、彼の思いが凝縮されている。
 〈石原莞爾先生は明治二十六年一月十八日、山形県鶴岡市日和町で生誕されて、昭和二十四年八月十五日山形県飽海郡遊佐町に逝去された。在世六十年七ヵ月である。
 先生の歴史は昭和六年九月十八日の満州事変と満州建国に要約し得るが、その中に包蔵された先生の思想はこの歴史よりも遥かに雄大で、岡倉天心のアジアは一なりの思想、孫文の大アジア主義と軌を一にする東亜連盟から世界最終戦争論にまで発展する。その総てが世界絶対平和を追求する石原先生の革命思想の発露である。
石原莞爾分骨記念碑 
 岡倉天心が明治二十六年七月、中国に渡って欧州列強の半植民地政策による貧困と苦痛をつぶさに観察して足を印度に延ばし、詩聖タゴールと交ってヨーロッパの繁栄はアジアの恥辱なりと喝破してアジア復興をアジアの団結に求めて印度を追放されたのも、孫文が日本に亡命してアジア主義を提唱して中国の独立を日本の援助に托したのも、石原先生が満州を建国して東亜連盟に踏み出したのも、その真情は総じてアジアの解放にある。
 先生はアジアを直視して、アジアの独立と繁栄が、隣国を敵視反目する中国と日本の調整に始まるとした。そして先の両国の中間にあたる満州に日華民族の協和する王道楽土を建国し、これを橋梁として多年抗争する両国を東亜連盟で結んで欧米勢力と対決して人類歴史の前史を最終戦争の勝利で締めくくり、かくて世界絶対平和の後史をアジア人の道徳を中心として建設せんとした。だが、その構想は爾後の戦争で歪曲蹂躙され敗戦と共に埋没したが、先生の思想と行動は昭和前史の□□と共に永く後世を照鑑する事と確信する。世に石原先生ほどアジア人を愛した人は少ない。
 そしてその解放と繁栄と世界絶対平和を、マルクスの唯物史観を超えた先生の戦争史観に□□を托されたが、史観の予言した如く、今や人類の前史は早晩終りを告げんとし、人類が世界絶対平和の後史に突入する日も間近かである。
 先生の遺骨を分骨して郷里米沢に持参して二十二年になる。昭和四十六年八月十五日埋葬した記念としてこの碑を建立する〉(□は判読不明)
 ここにある「敵視反目する中国と日本の調整に始まる」という言葉こそが、日中国交正常化を目指す木村武雄を支え続けたのである。

幻の「佐藤栄作・王国権会談」
『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』 
 この記念碑を建立した直後、木村武雄は佐藤栄作を動かそうとした。そのために、まず王国権と佐藤栄作の会談をセットしようとしたのである。王は、戦前に日本に留学した経験を持つ外交官であり、昭和四十五(一九七〇)年に中国人民対外友好協会副会長、中日友好協会副会長に就任していた。
 昭和四十六(一九七一)年八月二十一日、日中国交正常化を見ることなく、松村謙三が死去した。その葬儀に参列した王国権は、政府関係者、各界の有力者とも次々と会談し、「王国権旋風」を巻き起こした。
 松村の葬儀は八月二十六日、東京築地の本願寺で執り行われた。王は最前列に着席していた。しばらくすると佐藤総理が会場に現れ、わざわざ王の前に来て、握手を求めながら、「遠路はるばるお越しいただき、非常に感謝しております」と言ってから、着席した。
 葬儀が終わると、佐藤総理は再び王のところに来て、「周恩来総理によろしくお伝えください」と言った。王は「ありがとうございます」とだけ答えた。
 実は、王が日本を訪れる前、木村は香港に飛び、あるお寺のお堂で王と密かに面会していたのである。王が来日する際、佐藤総理と会談させようと根回しをしていたのだ。そして、木村は官房長官の竹下登に、王を羽田で出迎えて、佐藤総理との会談をセットするように指示していた。そして、木村は、王・佐藤会談の結果を聞くため、香港で王の帰りを待っていた。戻った王に、木村が「佐藤総理と会談はできましたか」と問うと、「できなかった」との答えだった。
 この時の木村の失望と怒りは想像を絶するものだった。日本に帰国した木村は、そのまま官邸に乗り込み、竹下のいる官房長官室に怒鳴り込んだ。そして、テーブルにおいてあったコップの水を竹下にぶっかけて、「おまえは政治がわからん?野郎だ」と怒鳴りつけた。その場にいた木村莞爾氏は「あれほど激高した親父は見たことがなかった」と振り返る。それほど木村は、佐藤栄作・王国権会談に賭けていたのだろう。

「佐藤内閣をここまで追い込んだ責任は岸・賀屋グループにある」

 やがて佐藤への木村の期待は失望へと変わっていった。その引き金の一つとなったのが、国連の中国代表権問題をめぐる佐藤の姿勢だった。
 昭和二十四(一九四九)年十月の中華人民共和国政府成立以来、台湾政府は中国本土に対する実効的支配を失った。それ以来、国連での代表資格をめぐって、北京政府と台湾政府が争ってきた。
 ところが、昭和三十五(一九六〇)年になると、台湾支持に賛成の国は、反対国と棄権国の合計を下回るようになった。さらに、中国は昭和四十五(一九七〇)年以降、カナダ、イタリアなどと次々に国交を樹立した。こうして、昭和四十五年十一月の国連総会では、「中国の加盟、台湾の追放」を骨子とするアルバニア決議案が初めて過半数の支持を得たのである。
 これに対して、日本とアメリカは「逆重要事項指定案」で対抗しようとした。台湾追放の部分を総会の三分の二多数を要する事項に指定するという案だ。木村は、佐藤に「日本は逆重要事項指定の提案国にだけは絶対になってはいけない」と言い続けていた。
 ところが、昭和四十六年の国連総会で、日本はアメリカとともに「逆重要事項指定案」の提案国になったのである。こうした佐藤政権の姿勢に、北京政府も不満を抱いていた。周恩来首相は、九月に自民党若手議員とともに訪中した川崎秀二に対して、「国交正常化交渉は、次期政権とのみを行う」と述べた。
 木村は、『週刊文春』のインタビューで、次のように不満をぶちまけた。その矛先は外務省に、さらには岸信介や賀屋興宣にも及んだ。
 「総理は何も逆重要を自分で考え出したわけではないのです。総理の知らない間に、外務省の役人どもが逆重要という手をアミ出してアメリカに持っていった。アメリカがこれに飛びついたのはなぜだと思います? 今後の競争相手は日本だと彼らが考えているからですよ。そのためには、中国が日本と親しくなってほしくないわけですね。……佐藤内閣をここまで追い込んだ責任は岸・賀屋グループにあると思います。総理はいつもわたしの一つの中国論に耳を傾けて聞き入ってくれる。ところが岸さんのグループに会うと、とたんにグルリと意見が変わってしまうんだ」(「総理〝ご意見番〟木村武雄の転身」『週刊文春』昭和四十六年十月二十五日号)
 結局、日本が提案国となった「逆重要事項指定案」は、昭和四十六年十月二十五日、賛成五十五、反対五十九、棄権十五で否決されたのである。そして、「中国の加盟・台湾の追放」を骨子とするアルバニア案が賛成七十六、反対三十五、棄権十七で可決された。この結果、台湾は国連脱退を表明し、中国の加盟が正式に決まった。
(『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』)

坪内隆彦の「維新と興亜」実践へのノート