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「楠河州の墳に謁して作有り」に示された山陽の尊皇斥覇論

 頼山陽は、早くも十八歳にして、忠臣としての大楠公の真価を見抜き、しかも尊皇斥覇の思想を固めていた。そのことは、寛政九(一七九七)年、山陽十八歳の時、江戸遊学途中、湊川を訪れて楠公の墓に参詣し、漢詩「楠河州(なんかしゅう)の墳(はか)に謁して作有り」を詠んでいることに示されている。

東海の大魚 鬣尾(りょうび)を奮ひ、
黑波(こくは)を蹴起(しゅうき)して 黼扆(ふい、玉座のこと)を汙(けが)す。
隠島(いんとう)の風雲 重ねて惨毒、
六十餘州 總て鬼虺(きき)。
誰か隻手(せきしゅ)を將(もっ)て妖氛(ようふん)を排す。
身は當る 百萬哮闞(こうかん)の群。
戈を揮つて 回(かへ)さんと擬(ほっ)す虞淵(ぐえん)の日。
鋤(すき)を執つて 同(とも)に劚(ほ)る即墨(そくぼく)の雲。
關西(かんさい)自(おのづか)ら男子在る有り。
東向(とうこう)寧(あに)降將軍(こうしようぐん)と爲らんや。
乾(けん)を旋(せん)し坤(こん)を轉(てん)じて値遇(ちぐう)に答へ、
輦道(れんどう)を洒掃(さいそう)して鑾輅(らんろ)を迎ふ。
功を論ずれば睢陽(すいよう)最も力有り。
謾(みだり)に稱(しよう)す 李郭天歩を安んずと。
出でては將入つては相位(あいくらい)未だ班せず。
前狼(ぜんろう)後虎(こうこ)事復(また)難し。
策を帝閽(ていこん)に獻じて達するを得ず。
志を軍務に決す 豈生還せんや。
且兒輩(じはい)を餘して
微志(びし)を繼がしめ、
全家の血肉 王事に殲(つ)く。
南柯(なんか)舊根(きゅうこん)を存する有るに非ずんば、
偏安(へんあん)の北闕(ほくけつ)、何れの地に向はん。
攝山(せつざん)逶迱(いい)として海水碧(みどり)なり。
吾來(きた)つて馬を下る 兵庫の驛
想見す兒(じ)に訣(わか)れ
弟(てい)を呼び來(きた)つて 此に戰ふを。
刀(とう)折れ矢盡(つ)きて 臣(しん)が事畢(おわ)る。
北向(ほっこう)再拜すれば 天日陰(くも)る。
七(なな)たび人間(じんかん)に生れて此賊(このぞく)を滅さん。
碧血(こんけつ)痕(こん)は化す 五百歳。
茫々(ぼうぼう)たる春蕪(しゅんぶ) 大麥(たいばく)長ず。
君見ずや君臣相圖り 骨肉相呑むを。
九葉(きゅうよう)十三世 何の存する所ぞ。
何ぞ如かん 忠臣孝子一門に萃(あつま)り、
萬世の下(もと)一片の石、無敵英雄の涙痕(るいこん)の留むるに。

 以下に、文部省思想局編『日本精神叢書 第九』(日本文化協会、昭和十一年)に載った鹽谷温の通釈を引く。

    楠河内守正成公の墓を弔ひ感じて作つた詩。
 かの「上宮太子讖記」に「人皇九十五代に当つて、東魚来つて西海を呑む」と記されたといふ不吉な予言は果して的中し、妖しい大魚は尾鰭を振ひ黒波を蹴立てて玉座に迫り之を汚し奉りしのみならず、剰へ 後醍醐天皇を、嘗ては 後鳥羽上皇を遷し奉つた波風荒き隠岐島に遷し奉り、天子の照覧し給ふべき六十余州は、鬼虺の如き荒武者の跳梁に任さしめるに至つた。
    黼扆は玉座の後に立てる斧の形を黒白の模様に刺繍した衝立(ついたて)。転じて玉座の義。
 此時に当り、誰か独力を以てこの妖氛(あしきき)を排ひ除くとて、猛り叫べる百万の賊兵に向つた戦酣(たけなは)なる時に日の没せんとするや、戈を揮つて之を麾(さしまね)ける魯陽公(ろやうこう)にも比す可く、楠公が兵士と苦楽を共にせる事は、即墨を孤守して、兵卒と共に城壁を修繕せる田単の如くであつた。楠公の勇気はまた、「關西自ら男子あり」と絶叫して敵に降らなかつた魏の高歓とも同じであつた。斯くも最後まで勤王の為に尽せる勇士こそ、楠公ではなかつたか。
斯くて楠公の忠節は天地をも再転せしめて、再び天皇御親政の世となし、以て嘗て給ひし 後醍醐天皇の御信任の高恩に報ひ奉つた。そして京都に御還幸の際には、輦道を掃ひ奉つて、
御車を皇居に迎へ奉つて、建武中興の大業をも成し遂げた。唐の安禄山の乱に第一の功労者であつた張睢陽(張巡)にも比すべき楠公こそ戦功の第一に推さるべしと誰も思つたに、結果は意外にも、当時の李光弼(りこうひつ)や郭子儀にも比すベき新田義貞や足利尊氏が、其力で国運安泰を致せるかの如くに称賛を蒙るに至つた。
楠公は出でては大将、入つては宰相たるべき器なるにも拘らず、遂に其位を得ず、兎角する中に前狐後虎にも比すべき足利の叛乱によつて、国事は再び多難に陥り、折角の楠公の献策も用ひられず、事の成らざるは知りながらも、一度勤王の軍務に服したる以上はと雄々しくも湊川に出陣して戦死を遂げた。
然れども忠義は己が一代に止まらず、その上に又其子孫までを誡めて遺志を継がしめ、為に一門の人々は皇室への忠義の為に全滅するにさへ至つた。そして若しも楠公の志を継承して王事に尽瘁尽せる楠氏の一門無かりせば、天皇を畏くも何処に安じ奉つたことであつたのであらうか。
摂津の山々は峯を連ねて長く横はり、山を巡る海水は碧である。此地に吾来つて馬を下ると其処は兵庫駅である。往時を懐ふに、楠公が櫻井駅にて子正行に訣れ、弟正季と相携へて此地に来るや、恰も雲霞の如き足利の大軍は襲ひ来り、奮戦半日、衆寡敵せず、遂に死を目前にして、遥かに北方なる京都の御所に向つてお訣れの再拝をする時には、天日も雲に蔽はれ、七生滅賊を誓ひながら楠公兄弟は自尽し了つた。其後五百年、当時のの碧血は痕をも留めず、折しも春の大麥は目前に生ひ茂つてゐる。
見よ、かの主従互に陰謀を蔵して相凌ぎ、親子兄弟力を争うて鎬を削りし北条と足利とを。北条九代・足利十三代、今何が伝はるか。之に反して楠氏には忠臣も孝子も一門に萃まりながら、北条・足利の栄華を他所に一片の墓石の下には眠つてゐるものの、しかもその忠烈に対しては万古無数の英雄の弔慰と称賛とを集めてゐるではないか。

頼山陽の尊皇心と母静子

 頼山陽は幼い頃から母静子の教育により尊皇心を培っていた。松浦魁造は次のように書いている。
 「定められた日課の勉強がすむと山陽は母のお針仕事の燭の下で、江戸の父から送つて来た絵本義経記や楠公記、保元平治物語をこよなく喜こんで読み耽つた。母は又忠臣楠公父子や新田の歴史物語を聞かせ、冥々の裡に尊王の大義を此の子供心に培ふてゐたのである。……後年日本外史の大作はすでに源をこゝに発して居ると云つてよい」(『頼山陽先生小伝』)。

中国人の魂の奥深く流れる精神

 大川周明は「新東洋精神」において、中国人の魂の奥深く流れる精神を明らかにすべきと説いていた。
 「支那民族は不可解の民族と言はれてをります。支那に滞在して長い年月を経れば経るほど、支那人の正体は益々分らなくなるといふ嘆声は、吾々の屡々耳にするところであります。さうかと思へば或人は簡単不遠慮に、支那人は孔孟の教へるところと全く反対に行動するものと思へば間違ひないと断言して居ります。成ほど、支那人の色と慾とのほかに何ものもないやうな一面を見れば、天下に彼等よりも俗なるものはないやうにも思はれます。さうかと思へば超然として世問を忘れ、自分だけの天地に悠々と逍遥している有様は、日本の仙人などよりも遥かに仙骨を帯びて居ります。日本人の物差で支那人の言ふこと為すことを見れば、これほど不都合な民族は少からうと存じます。併しながら一つ一つの言葉や行動を経験的に観察するならば、分らないのは決して支那人ばかりでなく、吾々の同胞もまた甚だ不可解であります。吾々の同胞と言はず、実は吾々自身さへも不可解で、昔から我れと我身が分らないと申して居る位であります。自分のことを仔細に反省して見ましても、或時は君子の如く、或時は小人の如くであります。それ故に支那人に対して、彼等は仁義忠孝を口にするが、その行ふところは全くその反対だなどと申して、ただ彼等の短所欠点だけを挙げて、したり顔することは、慎まねばならぬと存じます。例へば支那人を動かすのには、金か拳固か、この二つのほかに途がないとよく言はれて居りますが、これは遺憾ながら直ちに吾々の同胞にも加へらるべき非難で、黄金にも誘惑されず権力にも屈服しない毅然たる大丈夫は、日本人の間にも沢山は居らぬやうに思はれます。かやうな次第で吾々は個々の言行に現はれたところだけを見て、支那人の本質を掴まうとしてはなりませぬ。独り支那民族と言はず、一切の国民または個人の本質は、その魂の奥深く流れる精神、その最も尊ぶところのもの、その最高の価値を置くところのもの、一言で申せばその志すところ、即ちその理想とするところを明かにして、然る後に初めて正しく把握し得ると信じます。
 さて支那民族の理想、随つてその本質を知るためには、経史の研究が何よりも必要となつて来るのであります。経書即ち儒教の教典に説かれて居る教は、支那の国民哲学として、長く支那人の公私一切の生活の規範となつて来たものであり、これを研究することによつて、吾々は宗教・道徳・政治に関する支那の正統思想、その至深の要求、その最高の理想を知ることが出来ます」

東洋哲学と西洋哲学

 大川周明は東洋哲学と西洋哲学の違いを次のように指摘している。
 「……宇宙を生命ある統一体として把握する東洋精神は、神と人とを峻別し自然を生命なきものとして存在論に哲学の主力を注ぐ西洋の主張と、著しい対照を示して居ります。東洋は、神的なるものと人間的なるもの、個人の生命と宇宙の生命、本体と現象、過去と現在、此岸と彼岸との間に、本質的なる対立または差異を認めないのであります。色即是空・空即是色・色不異空・空不異色であります。このことは欧羅巴人からは非論理的・非合理的と思はれて居りますが、それは東洋の一元論的・汎神論的世界観から流れ出る生命感情の自然の発露であります。それは西洋の分別的・特殊化的なる精神と明かなる対照をなすものであります。典型的なる欧羅巴精神は、抽象し、分析し、その注意を個々のもの及び異れるものに向け、然る後に個別的研究の結果を分類し、これを論理的体系に組織するのであります。東洋に於ける対立と差異とを認めながらも、一切の存在は其の至深の奥底に於て相結んで居り、且つ宇宙を以て一切を支配する力によつて生命を与へられて居る統一体として観察し、これを合理的方法によらず、経験によつて内面的に把握せんとするのであります。西洋は宇宙に於ける諸々の力の対立や矛盾に力点を置き、個々別々の具体的なる姿を深く掘り下げようとするのに対し、東洋は諸々の力の均衡と調和とを尊重するのであります」(『新東洋精神』)

主人たる態度を捨てよ(大川周明─王道アジア主義への回帰)

 大川周明は、日本がアジア諸国に対して主人のような態度で臨むことも戒めていた。
 「アジアは二重の意味において覚醒せねばならぬ。アジアの覚醒は、同時に精神的でありかつ物質的であらねばならぬ。組織と統一とを与えることによって、日本はアジアを覚醒せしめねばならぬ。
 政治的・経済的組織を与えるための第一の条件は、日本がアジア諸国に対して主人たる如き態度は捨てて同盟者たる態度を取ることである。日本は同胞として彼らと相交わり之を奴隷視してはならぬ。而して現に奴隷の境遇に置かれつつある者には、吾らの同胞たらしめるために、先ず之に自由を与えねばならぬ。アジアのうちに奴隷の国ある間は、他のアジア諸国も決して真に自由の国ではない。アジアのうちに軽蔑を受ける国ある間は、他のアジア諸国も決して尊敬を博し得ない」(『新亜細亜』昭和十六年二月)

帝国主義的南方進出への警告(大川周明─王道アジア主義への回帰)

 大川周明は、昭和十五年十一月には、南方進出においても覇道に陥ってはならないと警告するようになっていた。例えば、彼は次のように述べている。
 「日本の南方への進出は、単に母国の戦敗によって微力となれる従来の支配階級に対し、吾国に有利なる協商や条約を強要することを目的としたり、またはこの地域における新支配者として日本を登場せしめんとする如き意図の下に行われてはならぬ。もし日本が、単に自己の経済機構を英米依存の体系より脱却せしむる必要からのみ南方への進出を画策するならば、恐らく土着の民衆はここに危険なる新侵略者を見出だし、旧来の統治者との共同戦線を以て対抗し来る危険性がある」(『新亜細亜』)

はじめに(大川周明─王道アジア主義への回帰)

 戦後の歴史観では、大川周明は一貫して日本政府の大東亜共栄圏を擁護し、日本の侵略に加担した人物という烙印を押されたが、大川は日米開戦を前に対アジア認識を変え、同時に日本政府に対しても鋭い批判をするようになっていた。
 例えば、昭和十六(一九四一)年四月の「厳粛なる反省」においては、次のように書いている。
 「支那事変は、亜細亜復興を理想とし、東亜新秩序建設のための戦なるに拘らず、最も悲しむべき事実は、独り支那多数の民衆のみならず、概して亜細亜諸国が吾国に対して反感を抱きつつある一事である。(中略)彼等の或者は、日本を以て彼等の現在の白色主人と択ぶ所なき者と考へ、甚しきは一層好ましからぬものとさへ恐れて居る。この誤解は何処から来るか。(中略)日本白身に、斯かる根強き誤解を招く行動は無いか、また無かったか。日本の重大なる使命を誠実に自覚する者はこの非常の時期に於て厳粛深刻に反省せねばならぬ」(『新亜細亜』)

尊号宣下運動の密議の舞台となった有馬主膳の「即似庵」

 寛政の時代、尊号宣言運動に挺身していた高山彦九郎や唐崎赤斎は、久留米の同志と連携していた。久留米には赤斎らと同門の崎門学派が存在したからである。その一人が不破守直の門人有馬主膳守居だ。有馬の別荘の茶室「即似庵」こそ、尊号宣下運動に関する密議の舞台の一つとなった場所である。三上卓先生は『高山彦九郎』で次のように書いている。
 「主膳此地に雅客を延いて会談の場所とし……筑後闇斎学派の頭梁たるの観あり、一大老楠の下大義名分の講明に務め、後半世紀に及んで其孫主膳(守善)遂に真木和泉等を庇護し、此別墅を中心として尊攘の大義を首唱せしめるに至つたのである。此庵も亦、九州の望楠軒と称するに足り、主人守居も亦これ筑後初期勤王党の首領と称すべきであらう」
 即似庵の存在は、久留米市史編さん委員会編『目で見る久留米の歴史 : 市制九〇周年記念』(久留米市、昭和五十四年)でも裏付けられる。
 同書には即似庵の写真が掲載され、「高山が親しく出入した家老有馬主膳の東櫛原別荘内の茶室。設計は江戸の川上不白」と説明されている。なお。同書によると、即似庵は篠山町稲次家に移された。
即似庵

戦後史観が歪めた頼山陽の真実

大宅壮一の歪曲
 頼山陽は文化四(一八〇七)年に『日本外史』を一応脱稿したが、なおも心血をそそいで改訂を重ねた。そして、執筆開始から二十五年を経た文政十(一八二七)年についに完成した『日本外史』は、幕末の志士を鼓舞し明治維新の原動力となった。
 ところが戦後、山陽や『日本外史』を貶める言説が幅を利かせてきた。その発端の一つが、大宅壮一の『実録・天皇記』である。大宅は「…山陽という男は公私文書偽造、詐欺、姦通などの前科を何犯かさねているかわからない。それも決して若気のいたりといったような性質のものではなく、この傾向は生涯改まっていない」「かれの勤皇思想も明らかに眉唾もので、当時の風潮に便乗したにすぎない」と断じたのだ。悪意による歪曲である。
 筆者が、寸暇を惜しんで竹原の崎門学の研究を続けているのは、大宅らの言説を正面から批判し、山陽の志を後世に正しく伝えなければならないと考えているからだ。
 しかも、明治維新の原動力となった國體思想を貶める言説は、いまなお増殖されており、近年では大宅の言説に依拠した原田伊織氏の『明治維新という過ち―日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』などの著書が多くの人に読まれているらしい。

「忠孝のお守り」に示された真実
 山陽の勤皇思想は、「当時の風潮に便乗した」ものなどではなく、竹原に根付いた崎門学、垂加神道の思想に基づくものであった。山陽が祖父・惟清(亨翁)から授かった「忠孝のお守り」が山陽五十三年の生涯を貫く勤皇精神の根源となったことは、いまや語られない。
山陽が祖父・惟清(亨翁)から授かった「忠孝のお守り」
 また、山陽の叔父杏坪による思想的影響は極めて重要なものだったが、戦後杏坪の尊皇思想も封印されてきた。中村真一郎の『頼山陽とその時代』は、山陽に対する杏坪の影響を語りつつも、尊皇思想には言及しない。戦前、広島県竹原町立図書館司書などを務めた松浦魁造が指摘していた通り、杏坪の尊皇思想抜きに山陽の思想は語れない。松浦は次のように書いている。
 「杏坪は朱学を奉じたが一方最も神道を重んじ尊王の念厚く、幾多の詩歌を通じて抑覇の情を表したものが尠くない。かの郷賢祠を郷土竹原に建て風教に資せるは人のよく知る所である。山陽の幼少時代には父春水は殆んど江戸詰であつたため山陽の薫化は母の梅颸と杏坪によつて殆んど成されたものである」(『頼山陽先生小伝』昭和八年)

高山彦九郎自刃と『日本外史』
 また、『日本外史』をめぐっては、徳川幕府に迎合的だとして、その國體思想の価値を疑う論者が存在する。しかし、なぜ『日本外史』が幕府に迎合的ならざるを得なかったのかを理解しなければならない。
 『日本外史』が幕府に迎合的ならざるを得なかったのは、山陽が幕府の弾圧という危険性を身をもって経験していたからである。
 山陽の父春水は、広島藩儒に抱えられた壮年時代、日本人に広く読まれる国史のないことを憂えて、藩の一大事業として、国史編纂を成し遂げようと志した。稿本の題名を「鑑古録」と名づけ、天明五(一七八五)年から寛政元(一七八九)年まで五年にわたって精力を注ぎ、神武天皇からはじめて開化天皇の時代まで書き進めたが、そこで突然、藩から中止を命ぜられ、断念したのだ。
 しかも、若き日の山陽は、朝権回復を志して奔走した末、幕府に追い詰められた高山彦九郎の「自刃という結末」を目の当たりにしていたのである。松浦魁造は、次のように述べている。
 〈山陽の宿志は修史の志業を完成し、幕府の政治を排撃して「天皇親政」の古に復するにあつた。彼の幕府の権勢最も盛を極めた時代に於ては、その片鱗を示すことさへ実に容易な業ではなかつたのである。山陽の通つた文章報国の道は、一見平坦で危険の無いものゝやうに見えたが、あの時代に尊皇抑覇を唱ふる時は、遠島流罪はおろか頭首ところを異にし系累に危難の及ぶ事さへ珍しくなかつた。而も騎虎の勢を以て又は恩慮を欠いた行動をなす時は徒らに一身の破滅を招くのみならず、事は水泡に帰し何等の効果を齎すことなく終るは明かである。されば山陽は周到なる思慮と、天授の文才と、不抜の決心とを以て巧に幕府の忌諱を避けつつゝ日本外史、日本政記を著し、熱血勤皇の詠詩を世に送つて大義名分を明かにし、尊皇討幕の精神を鼓吹して遂に明治維新招来の原動力を起こしたのである〉(『頼山陽先生』)

竹内好「方法としてのアジア」

 竹内好は昭和三十六年に「方法としてのアジア」で次のように述べている。
竹内好
 〈……自由とか平等とかいう文化価値が、西欧から浸透する過程で、タゴールが言うように武力を伴って──マルキシズムから言うならば帝国主義ですが、そういう植民地侵略によって支えられた。そのため価値自体が弱くなっている、ということに問題があると思う。たとえば平等と言っても、ヨーロッパの中では平等かもしれないが、アジアとかアフリカの植民地搾取を認めた上での平等であるならば、全人類的に貫徹しない。では、それをどう貫徹させるかという時に、ヨーロッパの力ではいかんともし難い限界がある、ということを感じているものがアジアだと思う。東洋の詩人はそれを直観的に考えている。タゴールにしろ魯迅にしろ。それを全人類的に貫徹するものこそ自分たちであると考えている。西洋が東洋に侵略する、それに対する抵抗がおこる、という関係で、世界が均質化すると考えるのが、いま流行のトインビーなんかの考えですが、これにもやっぱり西洋的な限界がある。現代のアジア人が考えていることはそうでなくて、西欧的な優れた文化価値を、より大規模に実現するために、西洋をもう一度東洋によって包み直す、逆に西洋自身をこちらから変革する、この文化的な巻返し、あるいは価値の上の巻返しによって普遍性をつくり出す。東洋の力が西洋の生み出した普遍的な価値をより高めるために西洋を変革する。これが東対西の今の問題点になっている。これは政治上の問題であると同時に文化上の問題である。日本人もそういう構想をもたなければならない。
 その巻き返す時に、自分の中に独自なものがなければならない。それは何かというと、おそらくそういうものが実体としてあるとは思わない。しかし方法としては、つまり主体形成の過程としては、ありうるのではないかと思ったので、「方法としてのアジア」という題をつけたわけですが、それを明確に規定することは私にもできないのです〉(『思想史の方法と対象-日本と西欧』一九六一年十一月、創文社刊)