竹内式部・山県大弐の精神を引き継いだ高山彦九郎
平成30年4月15日、崎門学研究会代表の折本龍則氏、大アジア研究会代表の小野耕資氏とともに、久留米勤皇志士史跡巡りを敢行。崎門学を中心とする朝権回復の志の継承をたどるのが、主たる目的だった。
朝権回復を目指した崎門派の行動は、徳川幕府全盛時代に開始されていた。宝暦六(一七五六)年、崎門派の竹内式部は、桃園天皇の近習である徳大寺公城らに講義を開始した。式部らは、桃園天皇が皇政復古の大業を成就することに期待感を抱いていた。ところが、それを警戒した徳川幕府によって、式部は宝暦八(一七五八)年に京都から追放されてしまう。これが宝暦事件である。
続く明和四(一七六七)年には、明和事件が起きている。これは、『柳子新論』を書いた山県大弐が処刑された事件である。朝権回復の思想は、幕府にとって極めて危険な思想として警戒され、苛酷な弾圧を受けたのだ。特に、崎門の考え方が公家の間に浸透することを恐れ、一気にそうした公家に連なる人物を弾圧するという形で、安永二(一七七三)年には安永事件が起きている。
この三事件挫折に強い衝撃を受けたのが、若き高山彦九郎だった。彼は三事件の挫折を乗り越え、自ら朝権回復運動を引き継いだ。当時、朝権回復を目指していた光格天皇は実父典仁親王への尊号宣下を希望されていた。彦九郎は全国を渡り歩いて支持者を募り、なんとか尊号宣下を実現しようとした。結局、幕府の追及を受け、寛政五(一七九三)年に彦九郎は自決に追い込まれた。
なぜ、久留米が彦九郎終焉の地となったのか
その終焉の地となったのが、合原窓南以来、崎門学が根付いていた久留米だった。崎門正統派の内田周平先生は「崎門尊王論の発展」において、筑後上妻郡は合原が長く子弟を教授した土地であり、その流風余韻が残っていたと書いている。さらに内田先生は、宝暦十二(一七六二)年の山崎闇斎先生墓所修繕を支えた寄付者として、筑後の人が十八人記録されていると指摘した上で、「維新前に於ても筑後は勤王志士の潜匿所のやうである。是れには何にか因縁があらふと思ひます」と書いている。
合原は、寛文三(一六六三)年、三潴郡住吉村(現久留米市安武町)で生まれた。遠祖は草野氏山本郡(三井郡)発心城主・草野鎮永、父道秋は医師だった。合原は幼少から学を好み、十歳で出家して僧となったが、その後京都、江戸へ出て儒学を修めた。壮年となって還俗し、崎門正統派の浅見絅斎に入門している。そして、合原は岸正知、稲次正思、杉山正義、宮原南陸、不破守直、広津藍渓など錚々たる門人を生み出した。
岸正知は、国老有馬内記重長の二男で、合原に儒学を学ぶとともに、神道を跡部良顕、岡田正利(盤斎)、正親町公通に学んだ。歌学書『百人一首薄紅葉』三冊を著している。正知の同族の岸静知は、崎門の正統を継いだ西依成斎や谷川士清に師事している。
稲次正思は、合原に師事し、野史や小説などを広く読み、さらに武事・故実を研究して『甲胄考略』等の著作を遺している。
杉山正義は易の研究を進め、『易経本義和解』を著した。
宮原南陸は、家老岸氏の家臣宮原金太夫の子で、合原に師事した後、多くの門人を育てた。南陸の子宮原国綸(桑州)に師事したのが、彦九郎精神を継いだ真木和泉である。真木の姉駒子は、国綸の長男宮原半左衛門に嫁している。
不破守直は合原に師事するのみならず、西依成斎にも学んだ。さらに谷川士清にも教えを受けている。彼の門人として活躍したのが有馬主膳(守居)である。有馬は、唐崎常陸介、高山彦九郎をその別荘「即似庵」に迎えた人物である。
広津藍渓は合原に師事するとともに、江戸の服部南郭に学んだ。天明五(一七八五)年、藩校「講席」(のちに修道館と改称)を設立して講師を務めた。『論語問』『読書論』などの著書がある。
この広津に師事したのが、森嘉膳である。彦九郎は久留米を訪れる度に、森の家を訪れていた。そして、森の家からわずか百メートルほど北に行った場所にあったのが、「即似庵」である。
寛政四年、彦九郎は即似庵において会合を開いていた。この会合は、当時彦九郎が全精力を傾けて取り組んでいた尊号宣下実現のための作戦会議だったのだろうか。その場には、主膳のほか、唐崎、不破、森も同席していた。五・一五事件で蹶起した三上卓先生は、『高山彦九郎』において、「主膳此地に雅客を延いて会談の場所とし……筑後闇斎学派の頭梁たるの観あり、一大老楠の下大義名分の講明に務め」と書いている。その前年にも、彦九郎が西依成斎を訪れていたことが注目される。西依の意向を受けて、彦九郎と各地の崎門派が連携していた動いていた可能性も否定できない。
しかし、彦九郎は幕府に追い詰められた。もはや、逃げ延びる場所もない。寛政五年六月十九日、彦九郎は森嘉膳宅を訪問、憑かれたように、旅行記や諸家から贈られた詩歌を手洗い鉢の水に浸して破り始めた。森は彼の家に来ていた同志の永野十内を呼び、「なぜ、こんなことをするのか」と問い詰めた。すると、彦九郎は「予、狂気せり」と答えたという。
永野が、そのように旅行記を破棄すれば、かえって「謀反」を計画していたと疑われるではないかと言うと、彦九郎は黙って破ることを止めた。
その後、食事をし、気分が落ち着いたかに見えたので、永野は帰宅、森も席を外した。その一瞬の間に、彦九郎は切腹したのである。戻ってきた森に、彦九郎は「主人、主人」と呼び掛けた。森が、傍に寄って「なぜ、こんなことになったのか」と言うと、彦九郎は、「永野氏とあなたに言い遺しておくべきことがある」と言った。
森が急いで永野を連れて来た上で、「遺言状はあるのか」と問うと、彦九郎は次のように語った。
「余が日頃忠と思い義と思いし事、皆、不忠不義の事になれり。今にして吾が知の足らざる事を知る。故に天、吾をせめて、かくのごとく狂せしむ。天下の人に宜ろしく告ぐべし」
その夜、午後十時ごろになって、彦九郎の気力は衰え、倒れ伏してしまった。しかし、役人が来て、改めて「なぜ、自殺しようとしたのか」と問うと、「狂気」と答えた。
その後、外科医が来て治療をほどこしたが、もはや手遅れだった。翌朝に彦九郎はついに絶命した。この時流された彦九郎の血によって、彦九郎の精神は朝権回復を目指す志士たちに継がれた。特に、彦九郎の運動に協力していたと推測される、合原窓南門下の久留米崎門派の口から、彦九郎の志は語り継がれていったのであろう。
今回、久留米市寺町五十六の遍照院にある彦九郎の墓を参った。墓には「松陰以白居士」と刻まれている。また胸像や石碑も建立されている。
また、左右には歌碑が建てられている。右は、
高山先生辞世 松崎の駅のおさに問うてしれ心筑紫の旅のあらまし (松崎の駅とは小郡の宿場町)
昭憲皇太后御歌 ながらへて今世にあらば高山の高きいさほをたてましものを
高山先生辞世 朽ちはてて身は土となりはかなくも心は国を守らむものを
左は、
高山先生辞世 さつま人如何にや如何にかろかやの関もとささぬ御代としらずや
明治天皇御製 国のため心つくして高山のいさほもなしに果てしあわれさ