贈位報告祭における乃木希典将軍(明治40年12月29日)
『中朝事実』の評価①
昭和八年に文部省社会教育局が「日本思想叢書第八編」として刊行した『中朝事実』の解題には、次のように書かれている。 「…儒学の主張する名分や祭祀の義は我が国に於て完全に実現されてゐる。国典と儒学とを並び究むれば此の事が分明して、我が国を以て世界無比の国体となし、天皇の尊厳なるを覚るのである。先生(素行=引用者)は徳川初期に生れ、国学尚ほ未だ勃興せす、水戸学尚ほ未だ興起せざる以前、我が国体の美を称揚し、我が国を中華中国といつた識見の高邁には驚くではないか。是れ先生が大に我が国民道徳に貢献した所以である」(同書二十二頁) 続きを読む 『中朝事実』の評価①
『維新と興亜に駆けた日本人』の書評(2012年1月8日)─『産経新聞』
『維新と興亜に駆けた日本人』の書評(2011年12月25日)─評者・松橋直方氏/『不二』
本書は『月刊日本』誌上の連載がもととなつた、明治を中心に活躍した志士たちの列伝である。簡にして要を得た人物紹介として極めて貴重なものであり、多様なソースからの情報が集約されてゐて教へられるところが非常に多い。個人的には副島種臣の本田親徳との交渉や、渥美勝に執筆の場を提供した松村介石の事績の紹介などに、意表を突かれて感服した。志士たちの系譜学として、これは間違ひなく必読の一書である。
他方において、本書は系譜学を検証する基準とすべき原理の問題について、様々に考へさせる本でもある。開巻劈頭で坪内氏はつぎのやうに述べてをられる。 続きを読む 『維新と興亜に駆けた日本人』の書評(2011年12月25日)─評者・松橋直方氏/『不二』
佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』コンテンツ
佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』コンテンツ
緖論 1
第一篇 西洋政治の論評 8
第一章 西洋政治学に対する批判 8
第一節 総説 8
第二節 国家観に対する批判 10
第三節 法律説に対する批判 12
第四節 君主政治説に対する批判 17
第五節 民主政治説に対する批判 22
第六節 共産政治説に対する批判 25
第七節 批判の綜合 30
第二章 西洋政治学の欠点 31
第一節 総説 31
第二節 政治反抗の思想 33
第三節 権力統制の思想 36
第四節 為政者人格無視の思想 40
第五節 法律統治の思想 43
第六節 道德感情無視の思想 46
第七節 理智偏重の害 49
第三章 西洋政治の実際 50
第一節 総説 50
第二節 西洋政治史の梗概 52
第三節 英国憲法の成立過程 61
第四節 議会政治の実際 71
第五節 議会政治の本質 75 続きを読む 佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』コンテンツ
佐藤清勝『世界に比類なき天皇政治』
立憲勤王党20111220①
政党政治の廃絶を唱えた立憲勤王党。
『立憲勤王党之趣意』立憲勤王党本部、昭和5年。
大井一哲『建国由来と皇道政治』⑦
大井一哲は『建国由来と皇道政治』結論において、教育勅語、戊申詔書、大正天皇の御即位式における勅語、昭和天皇の御即位式における勅語など、明治から昭和初期の詔書・勅語を引いた上で、次のように政府の姿勢を糺した。
「是等の勅語を奉戴したるその当時の総理大臣以下国務大臣は、恐懼して相戒しめ、謹んで聖旨の全国に普及徹底するやう鞠躬尽瘁(きっきゅうじんすい)すべきであつた。しかも彼等は放縦に流れ傲慢に傾き居れる一部国民の歓心を買うことにのみ急であつて、自ら率先して模範となり、忠孝の道、信義勤倹の実、忠実奉公の誠、敬忠奉上の義を国民に訓ゆることを忘れて了つた」
大井は、結論として、全国民が一心同体となり、日本精神を発揮して、政党政治を全滅しつくすべぎだと主張するのである(159―165頁)。
大井一哲『建国由来と皇道政治』⑥
皇道政治の理想を追求大井一哲は、明治維新後のわが国の政治形態をどのように見ていたのであろうか。
彼は、慶応4年 (明治元年) 3月14日(1868年4月6日)に明治天皇がお下しになった五箇条の御誓文を高く評価した。
一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ルマデ各其ノ志ヲ遂ゲ、人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破り、天地ノ公道二基クヘシ
一、知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
大井は御誓文について「実に国是の大本を確定せられた大文字であつて、憲法の制定も、議会の開設も、みなこの中に含蓄されてゐることは云ふ迄もない。斯の如くにして君民一如、一君万民の政治は茲に恢復せられたのである」ととらえた(120―121頁)。
ところが、その後の展開は大井の期待を大きく裏切るものだった。彼は概要以下のように述べている。
藩閥内閣、官僚内閣は、いずれも官権万能を守持して、天皇政治の目標とする下層多数国民に圧迫を加えたことにおいて同じだった。富豪と結託し、政商の請託を容れ、彼らに特別の保護を与えることも同じだった。このような事態に直面し、自由民権論者は藩閥政府、官僚政府の打倒に向かい、官権と民権とは随所で衝突し、藩閥と政党は互いに反目するに至った。やがて、大正七年に純然たる政党内閣として原敬内閣が成立したが、事態はさらに悪化していった(118―123頁)。
そして大井は、次のように激しく政党政治の実態を批判した。
「その富豪と結託し、政商を保護する点において、藩閥よりも、官僚よりも、その弊一層甚だしきを加へ、権勢を利用して限りなく利権を漁り、私曲を逞うして縦ままに自個を肥やすといふ醜状が暴露された。選挙の際にこそ『選挙第一主義』から、如何にも尤らしく一生懸命に、政見や政策をならべ立てて、あつぱれ国士の体面を装ふが、運よく当選して議会に入るや、忽ち仮面をかなぐり棄て、野獣のやうな本性を現はして、啀み合ひ、噛み合ひ、擲り合ひを演じて、神聖な議場を修羅の街と化して了ふ醜状は毎年議会の常例となつた」(126、127頁)
さらに大井は、政党政治は天皇御親政の反逆であり、皇道政治の賊だと断じ、君国のために一身を捧げる覚悟のある誠忠の人でなければ、天皇政治の下において内閣を組織して、輔弼の責任を全うすることはできないと強調する。


