本書は『月刊日本』誌上の連載がもととなつた、明治を中心に活躍した志士たちの列伝である。簡にして要を得た人物紹介として極めて貴重なものであり、多様なソースからの情報が集約されてゐて教へられるところが非常に多い。個人的には副島種臣の本田親徳との交渉や、渥美勝に執筆の場を提供した松村介石の事績の紹介などに、意表を突かれて感服した。志士たちの系譜学として、これは間違ひなく必読の一書である。
他方において、本書は系譜学を検証する基準とすべき原理の問題について、様々に考へさせる本でもある。開巻劈頭で坪内氏はつぎのやうに述べてをられる。
未曾有の国難に直面した現在、義を貫き、己を捨てて公に尽くす西郷南洲や副島種臣のやうな大人物がわが国を指導してゐたならば、と思はず考へてしまふ。わが国を指導する政治家、官僚、教育者、思想家、言論人として、本書で取り上げたやうな人物たちが活躍してゐれば、事態は大きく変はるのではなからうか。本書は、現在の指導者に対する批判の書であり、真の指導者待望の書である。
[仮名遣ひを訂正した]
真の指導者を待望するといふときに、今日において問題とすべきなのは、むしろ情報通信技術革新によつて、大人物のもたらす理想的機能の価値そのものが、大いに削減されてしまつたことのはうではないだらうか。情報通信技術革新は、すべてを孤立した個人の単位に還元することによつて、あらゆる権威関係を解体する。あらゆる大人物の肖像が、コメントの弾幕に埋もれてゆくのである。じつに今進行してゐるのは、万人が万人に対する壁新聞とスローガンを競ふ、無血の文化大革命にほかならない。
今日汎アジア主義をいふことの利敵行為となることは坪内氏自身も自覚してをられるところである(八十九頁)が、明治の御代における大陸進出の可能性を今日に思ふことは、現下の情勢がいかに後退戦であるかを痛烈に感じさせる。自前の帝国を維持するだけの民族的生命力を断たれて、日本は台湾や沖縄のやうに、大国間に翻弄されつつある。もとより世界維新といふ大理想から譲つてはならないが、アジア維新からも日本維新からもはるかに遠く、今日における喫緊の課題とは、他ならぬ皇室の維新ではないだらうか。本書にも触れられてゐるやうに、明治維新の前提には、長い江戸の世をかけての御進講をとほした皇室内部における国体観念の確立があつた。いまはどうであらう。われわれはいまこそ、今日の文化的道義的退廃の淵源が、外来の迷信である自由民主主義にほかならない旨、声を大にして諌言しなければならない。民族的生命力の再建は、そこからやり直されなければならないのである。
汎アジア主義の問題については、坪内氏が普遍といふことを称揚されるに際して、その内実がいかなるものであるかを考へる必要がある。
彼[杉浦重剛]の国粋主義は三宅雪嶺らと同様に、極めて普遍的なものであつて、決して頑迷なものではなかった。(百二頁)
南洲の思想と同様、頭山の思想は国家主義、国権主義という発想を超える、宇宙の真理に基づく普遍的な思想であつた。(百十四頁)
内村[鑑三]と岩崎[行親]は日本精神の普遍性への信奉といふ本質的な部分で一致し、固く結ばれてゐた。(百二十六頁)
「仮名遣ひを訂正した」
影山先生のターミノロジーで申せば、神人一致の道統と神人分離の道統はあくまでも別のものであり、さらに道統は血統と一致しなければならず、アジア維新もまたこの両面における神・君・民の一致を前提としたものでなければならない。日本の血統が日本の道統で満たされないときに、外国の道統と日本の道統を擦りあはせることは、慎重を要することと思ふ。
他方でこの点、本書の帯を書いてをられる佐藤優氏は、普遍は複数であり併存しうるとされてゐるが、さうであらうか。まつろはないものは、まつろはしめなければならない。このまつろひといふ概念は、普遍が単一であるか複数であるかといつたキリスト教に端を発する問題設定を、さらには普遍といふ概念そのものを、無効にするものではないだらうか。
ピンチといふほかはない現下の情勢ではあるが、しかしなほ、ピンチからでなければチャンスは生まれないと信じたい。本書は系譜学の提示をとほして原理論についての思考を誘発するとともに、まさにさうしたチャンスをきりひらかうと苦闘した多くの事例を紹介するものとして、大いに参考になるであらう。
(評者:松橋直方氏、『不二』(不二歌道會発行)平成二十三年十二月号、十七、十八頁)→PDF