「高山彦九郎」カテゴリーアーカイブ

小河真文⑤─篠原正一氏『久留米人物誌』より

 以下、寺崎三矢吉手記「小河真文」の抜粋である。

●「孝明天皇の御遺書を奉戴して為せしこと」

 〈小河家は久留米藩の馬廻格知行三百石を有し、小河は十六歳の時父の後を襲ぎ文武両道を研究し、十八歳の頃より勤王の志益々固く、有馬孝三郎、島田荘太郎、板垣太郎等を同志とし常に王室の式微を慨歎し、幕府の横暴を憤怒し、高山彦九郎・真木和泉守等の横死を悲歎し、何とかして王政の復興を計らんことを期せり。
 小河は佐々金平と刎頚の友たり。互に実名を真武とせんと、真武真文の争ひ決する所なし。遂に抽籤を以て決定することゝなり、籖を作り、之を抽きたるに自分が真文と引当てたれば、佐々が真武となり、自分が真文となれりと云ふ。先生十八歳の時自分の胆力を試練せんが為め、一週間丑の刻に高良山奥の院へ参詣せしも、何等異状なかりしと云ふ。
(中略)
 小河は実に久留米藩の方向を一瞬間に転回し、藩主の危機を救ひ、夙昔勤王の志を遂げしものと云ふべし。其藩論一定するや、上京して公用人となり、水野正名と共に外交の事を掌りしが、水野の公議人となれるや、小河は副公議人となり尽力せり。又水野を助けて各藩と禁裏護衛の任に当れり。其際小河は水野と謀り、浪士四百人を募集し、進撃隊を組織し、奥羽追討に向はしめしに、其活動抜群なりしを以て、藩は小河の功績なりとし賞詞を与へらる。而して前途有望の志士として重視せられしが、不幸にも突然不治の悪疾を発し、辞職の止むなきに至れり。
 小河は久留米に帰り実弟助三郎に家督を譲りて退隠静養し居りしが、強ひられて藩の参政兼軍務参謀となり、政兵の枢機に参じて功績少なからず、藩主之を賞し別家百石を与へられしが、後之を奉還して一切の公務を辞せり。小河は一切の公務を辞して閑地に就きたりと雖も、勤王の志は一時たりとも念頭を去る能はず、常に国事を談じ居たり。因て遠近の志士来り訪ふもの織るが如し。小河は常に孝明天皇の御遺詔を謹写し懐中せり、故に日田より東京に檻送せらるゝとき、先生は余に対し断獄吏が不軌を企て恐入つたかと云ふに対し、自分は孝明天皇の御遺書を奉戴してなせしことなれば、毫も恐入る所なしと答へたりと云はれたり。之れが小河と幽明隔つる最終の面会なりしなり。
(中略)
 先生死刑の宣告を受け、伝馬町牢屋にての辞世歌
  たらちねに、かくとつげなん、言つても、たれだにとひとふ、人しなければ
 先生の遺骸は有馬孝三郎等之を受取り、東京芝区三田小山町当光寺に葬る。大正二年三月、板垣太郎が主となり、久留米市京町梅林寺境内に移葬し、板垣自ら墓守となり菩提を営めり。

[続く]

篠原正一『久留米人物誌』掲載の権藤家略系図

 拙著『GHQが恐れた崎門学』第二章『柳子新論』(山県大弐)において、昭和維新運動のイデオローグ権藤成卿の家系に言及した。例えば、権藤の曾祖父・権藤壽達(凉月子)は高山彦九郎とも交流があった。さらに、壽達の祖父宕山は、大中臣氏の制度律令に関する家説を受けて、「漢唐三韓」歴代の礼制、刑律に関する書を集めて研究し、独自の学問を確立した人物であり、竹内式部と交流のあった田中宣卿の師でもあった。
 竹内式部以来の権藤家と崎門学の関わりを究明するために、同家のさらなる分析が必要とされる。今回、筆者が新たに入手した篠原正一『久留米人物誌』(菊竹金文堂、昭和56年)には、権藤家の人物誌とともに同家略系図が掲載されており、今後の研究の参考となる。

先帝陛下の御学問─杉浦重剛「倫理御進講草案」大義名分

 先帝陛下(当時皇太子殿下)が学習院初等科をご卒業されたのを機に、大正3(1914)年5月、東宮御学問所が設立された。歴史担当・白鳥庫吉、地理担当・石井国次など、16科目の担当が決まったが、肝心の倫理の御用掛が決まらなかった。帝王学を進講する倫理担当には、和漢洋の知識に通じ、高い識見人格を備えていることが求められた。
 東郷平八郎総裁、波多野敬直副総裁らが慎重な協議を続け、元第一高等学校長として名声の高かった狩野亮吉の名が挙がったが、狩野はその任務の重さを恐れ辞退した。このとき、杉浦重剛の真価を知るものは、御進講の適任者として彼のことを考え始めていたのである。御教育主任の白鳥庫吉から相談を受けた澤柳政太郎は「杉浦さんがよいではないか」と杉浦の名を挙げた(『伝記』二百六頁)。これに白鳥も賛同、東郷総裁の意を受けて小笠原長生子爵が改めて杉浦の人物について調査した結果、「杉浦といふ人は命がけで事に当る人だと思ひます」と報告した。東郷は「それだけ聞けばよろしい」と言って、直ちに決定したという。 続きを読む 先帝陛下の御学問─杉浦重剛「倫理御進講草案」大義名分

平泉澄先生「闇斎先生と日本精神」

 平泉澄先生は、「闇斎先生と日本精神」において、次のように崎門を称揚している。
 「君臣の大義を明かにし、且身を以て之を験せんとする精神は、闇斎先生より始まつて門流に横溢し、後世に流伝した。こゝに絅斎は足関東の地を踏まず、腰に赤心報国の大刀を横たへ、こゝに若林強斎は、楠公を崇奉して書斎を望楠軒と号し、時勢と共にこの精神は一段の光彩を発し来つて、宝暦に竹内式部の処分あれば、明和に山県大弐藤井右門の刑死あり、高山彦九郎恢慨屠腹すれば、唐崎常陸介之につぎ、梅田雲浜天下の義気を鼓舞して獄死すれば、橋本景岳絶代の大才を抱いて斬にあひ、其の他有馬新七、西川耕蔵、乾十郎、中沼了三、中岡惧太郎、相ついで奮起して王事に勤め、遂によく明治維新の大業を翼賛し得たのであつた。國體を明かにし皇室を崇むるは、もとより他に種々の学者の功績を認めなければならないのであるが、君臣の大義を推し究めて時局を批判する事厳正に、しかもひとり之を認識明弁するに止まらず、身を以て之を験せんとし、従つて百難屈せず、先師倒れて後生之をつぎ、二百年に越え、幾百人に上り、前後唯一意、東西自ら一揆、王事につとめてやまざるもの、ひとり崎門に之を見る」

頼春水「贈高山彦九郎」

 『月刊日本』の連載「明日のサムライたちへ」。次回(平成27年1月号)より頼山陽の『日本外史』を取り上げる。その2回目では山陽の父春水と高山彦九郎、崎門学との関係についても書く予定だが、春水の「贈高山彦九郎」が吉村岳城『朗吟詩撰 下巻』(日本芸道聯盟、昭和11年)に収められているのを知った。次のような解釈が載せられている。
 〈私はかねてから高山彦九郎といふ人物はよく知つて居る。上州新田の細谷といふところで寸陰を惜しんで読書したこと、畑で鋤鍬を把る間も経書を放さなかつたのも、折あらば山野を跋渉して英気を養つたことも、孝心深くよく仕へたことも、天下を奔走して傑出した人物には千里を遠しとせず往いて訪ね、尊王の大義を説いたこともまた三條大橋に土下座して草莽の臣高山彦九郎と名乗り、泣いて 皇居を拝したことなどみんな識つて居たのだ。それがかうして相逢ふ仲となつて嬉しい。大に飲まう。そして大に志を論じよう。書を読んで読まないは第二の問題だ、根本第一は志だ。志あつてこそ書を読むんだ。志の無い奴が読書した處で何になる、害はあつても益にはならない。志が無くて読書した奴は腐儒にしかならない。志だ。志だ。〉

高山彦九郎関連文献


書籍

著者 書籍写真 書名 出版社 出版年 備考
太田市教育委員会教育部文化財課編   高山彦九郎と細井平洲 : 平成13年度高山彦九郎記念館講演会記録 太田市教育委員会 2003  
吉村昭   彦九郎山河 文芸春秋 1998 文春文庫
吉村昭 彦九郎山河 文芸春秋 1995   続きを読む 高山彦九郎関連文献

高山彦九郎の思想

垂加神道の系譜

高山彦九郎胸像
 高山彦九郎を取り巻く勤王運動の背景には、「『敬』(つつしみ)による神との合一」という垂加神道の真理の調べが常に響いていたのではなかろうか。高山が引き継いだ勤王運動の先人たちは、垂加神道の系譜ときれいに重なり合っているからである。 続きを読む 高山彦九郎の思想