はぐらめい「木村武雄という稀有な政治家を、政治の泥沼からすくいあげた書」(令和5年2月1日、『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』のアマゾン・レビュー)

『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』のレビューを、はぐらめい氏が書いてくださいました。

 〈木村武雄は私が住む地域選出の代議士だった。しかし、木村の思想的バックボーンへの関心は「金権的」イメージによってすっかり曇らされてしまっていた。木村武雄が私にとって身近であったはずの高校時代までは、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)がしっかり浸透した教育環境だった。それゆえ、石原莞爾に連なる木村武雄像は闇の中でしかない。木村武雄vs 黒金泰美という、この地の保守を二分した激しい選挙のみが印象に残る。黒金泰美は1962年第二次池田内閣で官房長官を務めるが、1964年「黒い霧」として騒がれた吹原産業事件の中心人物として『金環食』(石川達三1966)という小説にまでなり、その後仲代達矢主演で映画化もされる。そうしたあおりで大成を期待されていたはずの黒金は政界から消えてゆく。梶山季之の『一匹狼の唄』(実業之日本社 1967)も黒金泰美は悪役だ。木村との暗闘がうかがえる。一方の木村は、1967年に第2次佐藤内閣の行政管理庁長官兼北海道開発庁長官、その後1972年第一次田中角栄内閣で建設大臣兼国家公安委員長を務めることになる。私の中での木村武雄の実像はそうした記憶の中で曇らされていた。坪内氏はその曇りを吹き飛ばして、本来の木村武雄像をくっきりと浮かび上がらせてくれている。
 この書の「はじめに」はこう始まる。《令和4年9月29日、日中国交正常化50周年を迎えた。しかし今、対中強硬派の間では日中国交正常化の評判は決して良くない。国交正常化は、日本が政府開発援助などを通じて中国の経済発展を後押しし、中国を大国化させた元凶だと捉えられているからだ。/しかし、本書の主人公、木村武雄に光を当てるとき、日中国交正常化の評価は一変するかもしれない。木村は、石原莞爾の王道アジア主義体現の一歩として、日中国交正常化を位置づけていたのだ。/王道アジア主義とは、覇道の原理でアジアに迫る欧米の勢力を排除し、王道の原理に基づいたアジアを建設することにある。王道とは道徳、仁徳による統治であり、覇道とは武力、権力による統治だ。王道アジア主義の基本原則は、「互恵対等の国家間関係を結ぶ」、「アジア人同士戦わず」である。》(10p)戦後木村は石原の遺志を頑なに引き継ぐ。《木村は、「自分の後継には福田赳夫を」という佐藤(栄作)の意向に反して、田中派結成を主導、田中政権を見事に誕生させたのである。その過程で、木村と田中の間には、田中政権誕生の暁には日中国交正常化に動くという固い約束が交わされていたのである。》(11p)この書の意義はその経緯をつぶさに辿ったことにある。
 なぜこれまでこのことが見えなかったのか。ひとつは木村武雄自身が「政界の影武者」に徹するという意志を持っていたことにあるが、そこにはアメリカの影がある。《田中政権の日中国交正常化はアメリカの警戒感を掻き立てた。しかもアメリカは、田中の背後で動く木村武雄に石原莞爾の影を見ていたのではないか。占領期の言論統制によって壊滅したかに見えた石原の王道アジア主義は、生き残っていたのである。》(11p)田中を葬る画策としてロッキード事件が起こされる。《キッシンジャーの謀略だったとの説もある。》(12p)木村は木村で交通事故が因となって、復帰を果たすものの命を縮めることになる。《親父の事故は田中総理の動きを止めるための謀略だったと言う人もいます》(木村莞爾談 195p)。
 この書は、金にまみれ、行き着くところ殺し合いにも至る凄惨な政治の泥沼から、木村武雄という稀有な政治家をすくいあげた。あらためて、木村武雄に学ぶべきことは多いと思わされている。〉

『維新と興亜』令和5年3月号(2月28日発売)

『維新と興亜』令和5年3月号(2月28日発売)

【特集】國體と政治 守るべき日本の価値
日本の価値基準を国際標準に(城内 実)
哲人政治が日本を救う!(神谷宗幣)
既成政党に國體は守れない(福島伸享)
日本人の「助け合いのDNA」(立花孝志)
旧宮家養子を実現せよ(百地 章)
國體弱体化政策の恐怖(金子宗德)
知られざる社会主義者の國體観(梅澤昇平)
【巻頭言】岸田総理よ、日米地位協定抜本改定を求めよ(坪内隆彦)
【時論】地方議会における政党政治を打破せよ!(折本龍則)
【時論】政治に道義を、新自由主義に葬儀を(小野耕資)
【新連載】石原莞爾とその時代 ① オリジナルな思想家であり哲学者(山崎行太郎)
【新連載】高嶋辰彦─皇道兵学による文明転換① 天日奉拝によって感得した神武不殺(坪内隆彦)
【新連載】日本文明解明の鍵〈特攻〉① 日本異質論と奇跡の国日本論をこえて(屋 繁男)
神詠と述志からなる日本の歴史⑤ 古事記が今に伝えるもの(倉橋 昇)
誠の人 前原一誠 ③ 仁政、そして王道(小野耕資)
世界を牛耳る国際金融資本④ 自給自足は巨大防衛力だ(木原功仁哉)
「維新」としての世界最終戦  現代に甦る石原莞爾 ⑧ 統制主義(金子宗德)
台湾を全面支援します。その④(川瀬善業)
高風無窮⑦ 道心と無道心と(森田忠明)
いにしへのうたびと⑨ 山部赤人と笠金村 上(玉川可奈子)
在宅医療から見えてくるもの⑩ 軽んじられてしまう、ケア(福山耕治)
崎門学に学ぶ 『白鹿洞書院掲示』浅見絅斎講義 ③(三浦夏南)
竹下登論④ 政治改革と選挙制度改革の混同が起こした悲劇(田口 仁)
【一冊にかけた思い】鈴木貫太郎著『ルポ 日本の土葬』
【書評】荒谷卓・伊藤祐靖『日本の特殊部隊をつくったふたりの異端自衛官』/村尾次郎著・小村和年編『小咄 燗徳利 昭和晩期世相戯評』
昭和維新顕彰財団 大夢舘日誌(令和4年12月~令和5年1月)
活動報告
読者の声
編集後記

教学の中心的指導精神を神道に置いた北条氏長─河野省三『近世の国体論』より

 教学の中心的指導精神を神道に置いた北条氏長の兵学について、河野省三は『近世の国体論』(日本文化協会出版部、昭和十二年)で次のように書いている。
河野省三
 〈氏長の兵学が神道精神を中心として展開し来り、素行の兵学が國體観念に結合して所謂武士道としての学的体系を取つて進展し行くことは、日本精神発展史の上からも深く注意すべきことである。……有馬成甫氏の『北条氏長とその兵学』には、彼の行動を支配した精神の中心は天照大神の信仰であつて、深く神道に帰依して居つたことを明かにし、又吉田家の唯一神道に於いて重んじた三社託宣に対する尊信が其の日常行為に著はれ、後学松宮観山等の思想にも深い感化を与へたことを一言し、更に進んで、氏長の兵学に於ける特徴として、師伝を体系化したこと、其の本質が教学であること、其の教学の中心的指導精神を神道に置いたこと、その兵学が、実学であることの四点を挙げてをる。此の中で、特に注意すべき点は、氏長の教学としての兵学が、その中心的指導精神を神道に置いた点であつて、其の神道思想の中心が天照大神であることである。北条流の兵法三ケ条の大事として、人事の乙中甲伝、地理の分度伝、天理の大星伝といふことがあるが、大星伝といふのは、当時、兵家の問に尊重された心魂鍛錬の秘法である。氏長には『大星伝口訣』といふものがあるが、「兵家相承天理ノ大事大星ニ止レリ」といふ重要性を有するものであつて、「当流日本流」の立場から、大星を以て.日輪として天照大神に配し奉り、大神の分身たる自家の心魂に大光明を見出し、此に道徳の本体.武道の本源を定めようとする法である〉

「木村武雄の日中国交正常化への執念」(『米沢日報』令和5年1月1日付)

 令和4年は、日中国交正常化50年の節目の年だった。南シナ海や尖閣諸島周辺での覇権的な動きを強め、台湾の武力統一を掲げ経済力と軍事力を強大化させる中国に対して、トランプ前大統領は、米国の対中戦略は大きく変化し、封じ込めに動き出した。現在の日本人の中国観も日中国交正常化当時から見ると隔世の感がある。50年という節目の年としては盛り上がりに欠けた。
 米沢市出身の政治家で、建設大臣を務めた木村武雄は、自分の息子に、石原莞爾の名をとって「莞爾」と名付けるくらいに、戦前から石原の思想に共鳴し、石原の王道アジア主義の体現として、日中国交正常化を位置づけた。
 王道アジア主義とは何かだが、アジアに対して覇道の原理で進出する欧米を排除し、王道の原理に基づきアジアを建設することで、王道とは、道徳、仁徳による統治を指し、覇道とは武力、権力による統治をいう。
 その王道アジア主義の基本原則は、「互恵対等の国家間関係を結ぶ」、「アジア人同士戦わず」である。
 木村は、支那事変拡大に反対し、昭和14年に東亜連盟協会を設立、東条政権の覇道に反対した。戦後、木村は石原の魂を守り抜き、日中国交正常化に執念を燃やすが、時の佐藤栄作総理大臣は動かなかった。そこで目をつけたのが田中角栄で、田中派結成を主導し、昭和47年田中政権が生まれた。それは同年9月の田中首相訪中によって、「日中国交正常化」へと歴史を動かしていった。
 本書では、政治家木村武雄の誕生、石原莞爾と東亜連盟、王道アジア主義の源流、執念の日中正常化、田中角栄失脚の真相─王道アジア主義を取り戻せ、という5章から構成されている。木村武雄の子息である木村莞爾、孫の忠三の両氏への取材をした。
 著者は王道アジア主義の源流として、西郷隆盛、米沢の宮島誠一郎、宮島大八などを挙げている。これまで日中国交正常化における木村武雄の役割が知られてこなかったのは、木村が「政界の影武者として生きる」と決めていたからと著者は述べている。

「木村武雄の日中国交正常化への執念」『米沢日報』令和5年1月1日付

ハイブリッド戦時代の「総力戦的虚々実々の戦法」─「世界に冠絶する皇道兵学兵制の完成」②

 高嶋辰彦は、天地人の広漠複雑性に注目して西欧兵学の科学技術万能の限界を次のように説いた。
 「西欧の世界は天地人共に東洋に比して矮小である。其處に発達せし尖鋭なる科学と技術とが、武力戦に於いて特に絶大の決戦力を有つことも亦当然である。ドヴエーの空軍万能論の如き其の最も極端に趨りて稍々迷妄に堕したる一例である。
 東洋の武力戦に於ても、尖鋭なる科学、卓越せる技術に基く所謂近代的兵器の威力の重要なるは言を俟たない。併し此処に於ける天地人の広漠複雑性は、幾多の制約を西欧的科学、技術兵器の上に課するのである。自動火器の故障、火薬の燃焼躱避、戦車、自動車、飛行機の速かなる衰損の如き其の一例である。
 東洋兵学兵制に於ける科学技術は独特の大自然に即し、西欧流のそれに対し厳密なる検討を遂げ、独自の境地を開拓して自ら完成すべきであろう」
 続けて高嶋は、後方業務の重要性を次のように指摘する。
 「西欧兵学に於てすら或は集中を以て戦略の主位とした。東洋戦場に於ける武力戦の困難は後方に在る。作戦兵力の輸送、集中、転用、軍備の補給、守備、治安等に関する複雑困難さは西欧と同日の比ではない。従つて之を克服することに寧ろ戦勝の決定的要素を見る。蒙古軍即ち元軍が常に其の補給点を前方に求めたるが如きは多大の示唆を含むものである。後方業務を重視し、東洋独自の新原則の確立と共に、有事に際して必ず之が圓滑を期することは東洋兵学に於ける重要課題である」
 さらに高嶋は、武力偏重の西欧兵学に対して、総力戦的虚々実々の戦法の優位性を説く。
 「西欧は地域矮小、民族単一、国家の総力的団結比較的鞏固である。此処に発達したる兵学が武力偏重の強制的色彩を帯ぶるは止むを得ない所である。然るに東洋の実情は大いに之と異り、前諸項と関連して総力的見地に於て到る処に虚隙を呈し、普く之を塡むることは殆んど不可能に近い。
 此の処に乗じて敵の意表に出で、総力戦的優勢の発揮を、在来兵学の原則に準じて行ふの余地は東洋に於て最も大である。斯かる総力戦運用の原理は、又武力戦内部に於ける思想手段、経済手段等を以てする総力戦的虚々実々の戦法に於て多大なる開拓の前途を有して居る。正に東方兵学の高次性を発揮すべき好適の一面である」
 ハイブリッド戦の時代が到来したいま、「総力戦的虚々実々の戦法」こそ、東方兵学の高次性を発揮すべき分野なのではなかろうか。

佐藤堅司が注目した武学資料─大関増業『止戈枢要』

 下野国黒羽藩主・大関増業(ますなり)(1781~1845年)が編述した兵学書が『止戈枢要(しかすうよう)』である。増業は、水戸の烈公(水戸斉昭)とも交流があった。
 「止戈」は「武」の字の解体。増業は、文化11(1814)年から文政5(1822)年の8年間を費やして、編述に当たった。
大関増業像(小泉斐筆、東京国立博物館蔵)
 その内容は、武芸・兵法などにとどまらず、測量・医学・機織・組紐・染色・衣服・書法・茶事などあらゆる分野に及ぶ。特に甲冑などの武具類については、素材となる皮革・繊維・染料などから製作技法の工程までが詳述されている。
 大田原市(旧黒羽町)芭蕉の館(大関文庫)には、増業の著書が保管されている。
止戈枢要

日本兵法の永久的大指針─佐藤堅司『日本武学史』より

 佐藤堅司は『日本武学史』において、日本兵法の永久的大指針について次のように記している。
 〈私は日本兵法の特質考察の重点を『日本書紀』神武天皇巻(『神武紀』)」に置きたいと思ふ。『日本書紀』は皇国万代の綱紀を闡明した最初の正史であるが、同時に日本兵書(『武書』と呼ぶのが適切である)の最古のものである。少なくともそれは最も古い武学資料を包蔵する史書である。私は山鹿素行の『中朝事実』武徳章と玉木正英の『橘家神軍伝』と跡部良顕の『神道軍伝』とが『日本書紀』の抜粋並びにこれに対する武学的解説であつたのを知り、夙くそれらに対して大なる関心をもつてゐたのである。然るに私はさらに大関子爵家秘蔵の『止戈枢要』といふ厖大なる編纂兵書を拝見した時、そのなかの圧巻と思はれる『六史兵髄』が『日本書紀』を根本とした六国史の兵髄であり、貴重な武学資料であることを知り、抜粋大関増業に対して深甚な敬意を表する気持になつた。従つて私が『神武紀』を選んだ理由は、同記における 神武天皇の兵法の特質を最もよく確認することが出来ると信じたからである。
 私は『神武紀』を武学史研究者としての新たな観点において熟読した結果、神武天皇の陸海平等戦略と神策と神仁の戦法と攻撃戦法とが日本兵法の永久的大指針であつた事実を発見して、日本必勝の理法と日本が世界無双の兵法国である事実とを確認することができた〉

「肇国の大精神を世界に顕現実践することが皇戦の目的だ」

高嶋辰彦は、昭和十三年十二月に著した『皇戦 皇道総力戦世界維新理念』(戦争文化研究所)で、次のように皇戦の目的を説いている。
「(支那)事変を体験するに伴ひ逐次認識を明にせる事項の一つは、我が国の戦争即ち皇戦の目的は、我が國體の保護宣揚、即ち我が国ごころを内外に宣べ行ふこと、更に換言すれば我が肇国の大精神を世界に顕現実践して、建国以来の真生命を達成するに在るといふことである。国防に関する一般通年たる人民、国土、資源等を外敵に対して護るとか、その危険を未然に防ぐため、予め脅威を取り除くとか、乃至は自ら力を養ふために国防力要素の不足を獲得するとかいふが如き在来の考へ方では、不知不識の間に皇戦の本義を没却するが如き重大過誤に陥る処が多いのである。……こゝで特に大切なことは、此の国ごころは決して外に対して宣揚するだけではなく、国内に対して同様の作用を必要とするといふことである。国内即ち日本全国民が先づ世界に実践の模範を示し得るだけの国ごころの体得者、実践者とならなければ、対外宣揚の資格と力とがない……」

敵将兵を味方とするような東洋兵学

支那事変以降、高嶋辰彦は東洋兵学の重要性を説くようになった。東洋兵学に対する高嶋の思いは戦後も持続した。例えば彼は、昭和三十(一九五五)年七月に「アジア政策における日本の体験と日米相互安全保障の将来」(『月刊自衛』)を著し、東洋では統率即ち人の掌握と統御指導とが兵学の第一義だと説いた。
彼は、ジンギスカンが親兵一万人の姓名を記憶していたという伝説を紹介し、兵の掌握は下士官級、でき得れば兵まで貰かれていなければならないと説いた。その上で高嶋は精神指導、心理掌握のための教育の重要性を指摘した。
さらに高嶋は、戦場や駐留地附近の現地住民の心を味方とすることが必要だと説き、朝鮮戦争に参加した際の中共軍の例を挙げる。高嶋によると、中共軍の「抗美援朝教育」は、現地住民を味方とするために徹底的な教育を行った。
そして高嶋は、東洋においては、敵に向う前に敵地の住民、敵軍の将兵、敵将の側近までみ、できる限り味方にするように工作し、敵将が孤立し、崩壌する寸前に、敵住民に歓迎されながら進軍して行くのが名将の術とさえ言われていると述べ、次のように書いている。
「これらの点でソ連や、中共の戦略、手法はアジア、東洋兵学の真髄をつかんでいる点がある」
本来、日本でもこうした兵学が維持されていたが、明治以降の兵学は多くを西欧に学んだため、現地住民、敵地住民、敵将兵を味方とする様な兵学は後退してしまった
さらに高嶋は、西欧兵学はアジアにおける地上戦や、駐留勤務に困難を来す盲点が存するのではないかと指摘する。この高嶋の指摘は、アジア各地での反米機運の効用、ベトナム戦争でのアメリカの敗北というその後の歴史を予見しているかのようである。

富塚正輝「真の日本近代史の見方 示す」(『山形新聞』令和4年12月14日付朝刊)

エッセイストの富塚正輝氏が『山形新聞』(令和4年12月14日付朝刊)に拙著『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』の書評を書いてくださいました。誠にありがとうございます。

 木村武雄(米沢市出身)といえば「元帥」という愛称で知られ、戦後田中角栄内閣では建設大臣として、また日中国交正常化の黒子として活躍した政治家である。昭和史の裏側が主な活躍の場だったせいか、まだ正常な評価が得られていない。本書は木村武雄の生涯を追ったものである。
 木村は戦前、満州事変の首謀者であった石原莞爾(鶴岡市出身)の薫陶を受け、日本・満州・支那(現中国)の対等な連携を謳う「東亜連盟」立ち上げに尽力した。これで西洋のアジア侵略に対抗しようとしたのだ。これを著者は王道アジア主義とし、西欧列強とともにアジア大陸での眼前の利益や果実をむさぼり食らうことに精いっぱいで、日本をアジアの盟主と思い上がった東条英機や武藤章ら統制派陸軍軍人らと、それらに阿諛追従(あゆついしょう)していた思想家やマスコミ人のことを覇道アジア主義として峻別する。しかし、それらは終戦とともに連合軍によって一緒くたに解体させられた。
 そうした中でも、木村は王道アジア主義思想を受け継ぎ、日中国交正常化を成し遂げた。しかし、日中接近を嫌うアメリカの逆鱗に触れ、田中はロッキード事件で葬り去られた。
 実は明治維新以降、王道アジア主義的な思想こそ日本近代の精神史の象徴であり、主流であった。しかし覇道アジア主義者により換骨奪胎され、大きな誤解を生んだ。現代の戦後教育の現場では、これらの事象はことごとく隠蔽されてしまっているので、日本近代史の本当の姿が見えてこない。本書は木村を通して、真の日本近代史の見方を提示する。
 また面白いことに、王道アジア主義の系譜として「置賜アジア主義」という言葉が存在するという。その源流は、幕末維新期に活躍した宮島誠一郎(米沢藩士)に発し、その息子・宮島詠士(大八)へと連なり、石原莞爾を経て、その末端に木村武雄がいるのだ。
 残念なのは、本書での木村の行動の言及の中で、蓋然性が高いとはいえ、想像や推測が多いこと。最も歴史の裏の裏を語る時にはつきものなのだが。ともあれ、現在の日中関係の現状を木村は天国からどう見ているのだろう。
富塚正輝「真の日本近代史の見方 示す」(『山県新聞』令和4年12月14日付朝刊)

坪内隆彦の「維新と興亜」実践へのノート