令和4年1月から『通信文化新報』で連載をさせていただくことになり、10年以上前からの宿題であった「石原莞爾の理想を体現した男・木村武雄」をスタートした(令和4年1月31日付)。木村武雄の取材では、彼の次男で山形県議会議員を務めた木村莞爾氏と、その長男で同県議会議員の木村忠三先生に大変お世話になっている。
石原莞爾の理想を体現した男・木村武雄①
「今、日本の東亜連盟の同志はどうしていますか」
昭和47(1972)年に日中国交正常化が実現する数年前、周恩来首相は自らを訪ねてきたある日本人にこう語ったという。周恩来を訪ねた男の名は木村武雄。「元帥」と呼ばれた男である。
彼は戦前、石原莞爾の思想に基づいて自ら東亜連盟協会を結成した人物であった。知日派であった周恩来は、そのことを良く調べ上げていたのだろう。木村は、石原が残した民族協和の理念、そして都市文明解体後の文明の在り方の理想を保持し続けていた。そんな木村が戦後情熱を燃やし続けたのが、「日中国交の回復」であった。木村は、石原の理想、東亜連盟の理想を戦後政治で生かすためには、日中国交回復が必要だと確信していたのだ。
木村は、明治35(1902)年に山形県米沢市で生まれた。明治大学を卒業後、米沢市議、山形県議を経て昭和11(1936)年の衆議院議員総選挙で初当選した。戦後、マッカーサー指令により公職追放となったが、昭和27(1952)年4月に解除となり、同年10月の総選挙で衆議院議員に返り咲いた。
戦後の日本外交は東西冷戦によってその自主性を縛られていたが、木村は対米追随外交を批判し、日本がどの国とも対等に話し合える関係を築くことを目指していた。木村は早い時期から、インドネシアなどの東南アジア諸国との関係強化を主導しつつ、日中の橋渡し役を演じていたのである。
石原は「我らは東方道義をもって東亜大同の根抵とせねばならぬ。幾多のいまわしい歴史的事実があるにせよ、王道は東亜諸民族数千年来の共同の憧憬であった。我らは、大御心を奉じ、大御心を信仰して東亜の大同を完成し、西洋覇道主義に対抗してこれを屈伏、八紘一宇を実現せねばならない」と訴えていた(『戦争史大観』)。木村の世界観は、まさにこの石原の世界観を引き継いだものであった。
「石原の理想を戦後政治に体現する」。これが木村の確固たる信念だったのである。木村は昭和39(1964)年9月に訪中し、陳毅外交部長と会談した。やがて、木村は「日中国交正常化をが実現できするのは佐藤栄作政権しかない」と考えるようになった。木村は、佐藤を領袖とする周山会の事務局長を務めていた。昭和45年に佐藤の自民党総裁四選を木村が支持した際、佐藤は木村に「お前は俺に四選して何をやれと言うのか」と語った。すると木村は、「内政は保利(茂)くんにまかせて、あんたは外交をやれ。中国とソ連を相手にして男らしい外交をおやんなさい」(『週刊文春』昭和47年7月31日号)と語り、佐藤を励ましている。この頃、木村は中国を再度訪問し、周恩来首相と会談している。これが冒頭の場面である。木村と対面した周恩来首相は、開口一番「今、日本の東亜連盟の同志はどうしていますか」と尋ねたという(平澤光人『永久平和への道』)。
この訪中に同行していたのは、木村武雄の次男である木村莞爾氏である。筆者のインタビューに木村莞爾氏はこう語った。
〈周恩来首相は東亜連盟の話をしていました。周恩来は、木村武雄がいかなる人物かを全て調べ上げていたはずです〉
しかし、肝心の佐藤栄作は日中国交正常化に動こうとはしなかった。そこで木村は、派閥の領主たる佐藤の意向に逆らってまで、田中角栄擁立に動くのである。田中なら日中国交正常化に踏み切る胆力があるはずだというのが、彼の見立てだったのだろう。木村莞爾氏は語る。
〈なぜ父が田中角栄さんを総理に擁立したかと言うと、日中国交回復をさせるためですよ。父は佐藤栄作さんにそれをやらせたかった。しかし、佐藤は「笛吹けど踊らず」でした。そこで、父は田中さんを呼んで「君が総理になってくれ」と言って田中さんを擁立しようとしたのです。父と田中さんには約束があったのだと思います。「木村は田中総理誕生のために全力を尽くす。田中総理が誕生した暁には日中国交回復を実現する」という約束です〉
昭和47年7月5日、田中は福田赳夫を破り自民党総裁に当選、翌6日、第一次田中内閣が成立した。それからわずか2カ月余り後の9月25日、田中は北京を訪問し日中国交正常化を果たした。木村がいたからこそ、日中国交正常化は実現したのである。木村の宿願が叶った瞬間であった。
実は田中内閣で、木村武雄は国家公安委員長を拝命している。それはなぜか。木村莞爾氏は語る。
〈父は日中国交回復を進めようとすれば、台湾との関係を重視する右翼が反対することも想定していました。だからこそ木村は、右翼を自ら抑えるために国家公安委員会委員長のポストを望んだのです〉
木村は何としても日中国交正常化が必要だとの確信を持っていたのである。
ところで木村武雄と田中角栄の関係は、これだけではない。新潟出身の角栄と、山形出身の武雄とは、ともに「裏日本」とも呼ばれ続けた日本海側の出身であり、地方の苦しみを身をもって知る人間同士だったのである。そうした共感が二人を結び付けた。それは角栄の「日本列島改造論」に木村が共鳴していたことにも表れている。莞爾氏は語る。
〈田中角栄さんが唱えた日本列島改造論と石原莞爾先生の思想には、深いつながりがあります。日本列島改造論は、石原先生の都市解体論です〉
木村は、田中の日本列島改造論に、石原莞爾の理想を投影させたのである。日本列島改造論の中には、田園都市構想があるが、その源流の一つには、石原莞爾が独自の文明観に基づいて提唱していた「都市解体」「農工一体」「簡素生活」がある。木村は、この石原の理念を堅持し続けていた。例えば木村は、昭和39年10月には、『国づくりと「農工一体論」』を刊行している。木村は、この石原の理念を日本列島改造論に注入したのだ。昭和47年7月の自民党総裁選直前に田中が刊行した『日本列島改造論』には、「農工一体でよみがえる近代農村」の一節が設けられていた。木村莞爾氏は振り返る。
〈当初田中さんは父を建設大臣に任命しようとしていました。ところが、父はそれを固辞したのです。そこで田中さんはこう説得したのです。『木村さん、話が違うじゃないか。もともと列島改造によって東北の開発に力を入れようと言ったのはあなたじゃないか』と。この田中さんの言葉からは、日本列島改造論に父の考え方が盛り込まれていたことが窺えます。結局、父は国家公安委員会委員長と建設大臣を兼務することになったのです〉
こうして田中角栄と木村武雄は一心同体になって政治を進めることとなったのである。
では、木村武雄はいかにして石原莞爾の理想の体現を決意するに至ったのか。次回以降、元帥と呼ばれた木村の人生を振り返っていきたい。