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村岡清蔵

青島地湧塾で日中提携を目指す

村岡清蔵は、明治42年に佐賀県で生まれた。大正13年、大連の旧制高等小学校を卒業し、翌14年に大連の日本山妙法寺において、得度仏門に入る。
彼が、前田虎雄と出会うのは、大正15年11月、栃木県那須の日本山妙法寺においてであった。以来、前田と行動をともにし、昭和8年の神兵隊事件に参加、投獄される。昭和10年秋に出獄した後、葦津耕次郎の教えを受けて、神道、国学思想に開眼、嗣子珍彦とも親交を持つようになる。
昭和15年1月、立正興亜塾を東京に開設、青年同志の養成に努めた。この年7月の七・五事件に参加し、再び投獄されている。翌昭和16年に出獄、昭和17年に中国に渡った。昭和18年青島地湧塾の塾長となり、熟生とともに日中間の真の提携を目指した。昭和19年には地湧塾の生徒たちとともに、済南に移転し、山東立志工業学校を創設し、中国人のみ500余名の育成に当たった。
昭和20年8月15日、終戦の大詔を拝聴して自決を決意し、久子夫人とともに自宅において自決した。