「西洋近代への抵抗」カテゴリーアーカイブ

望月重信中尉『国柱』序─フィリピンの東洋回帰のために

 「タガイタイ教育隊」を設立した望月重信中尉は、フィリピンを東洋に回帰させるために、東洋的訓練を実践躬行した。そのためのテキスト『国柱』の序で、次のように書いている。
 〈東洋精神に復帰する為には東洋的生活訓練が必要である
 この書は新比島建設の指導者となるべく選抜されたる六十三名の青年学徒が「タガイタイ」の高原に於て燃えるやうな愛国の情熱を以て新比島建設の柱となるべく練成精進した生活の指標である 朝には太陽に先んじて闇を蹴破り斎戒沐浴して神意を仰ぎ 日出でては勉学精励して新時代の学を究め 日傾けば労働三昧仰ぎて天の高きを知り 伏して地の大を知る 日没すれば深夜法燈のもとに沈思黙坐し 久遠の時の流を凝視し 揺がざるこの国の礎を打ち建てんとして精魂を傾けたのである 斯して掘り抜きたる民族精神の泉は比島の地下数百尺より噴出し この国の万のものみな今や新生命に息吹を吹き返しつゝあるのである
 東洋精神への復帰は比島の大地を深く掘り下げる事によつてのみ可能である
 東洋精神への復帰 これ新比島建設の大前提である この心こゝに確立せらるゝならば新生比島の興隆は火の乾きたるにつき水の低きにつくが如く極めて容易である
 その将来は希望と幸福と栄光に満ち満たされてゐる
 希くば新生比島の百年学徒よ新時代の流に竿さす為には新しき時代精神と新しき科学とが必要である
 『新しき酒は新しい革袋に盛らるゝべし』とは今日のことである〉

国柱会を旗揚げしたピオ・デュラン博士─望月重信中尉の精神の継承

望月重信中尉 ピオ・デュラン博士の思想に強い影響を与えたのが、「星条旗の下の祖国を拒否した男─アルテミオ・リカルテ」で紹介した望月重信中尉である。望月はフィリピンを独立させるために、指導者の養成が必要だと確信した。そこで、昭和一七(一九四二)年末、マニラ南方のタール湖周辺の保養地タガイタイ高原に「タガイタイ教育隊」を設立したのである。そして、約四百年にわたる欧米の個人主義、物質主義、享楽主義から脱皮し、東洋本来のフィリピンに復帰させるために、東洋的訓練と実践躬行した。そのテキストこそ『国柱』であった。
 望月信雄編『比島の國柱』(昭和五十五年)に寄せた序文で信濃教育会長の太田美明氏は次のように書いている。
 〈一九四四年十一月、比島第一の劇場マニラのメトロポリタンにおいて、比島青年一千有余名が敢然蹶起、その名も国柱会という結社を組織し、比島独立運動の強力な幕が切って落された。この中心人物は東洋主義者のピオ・デュラン博士で、この計画も実行もことごととく比島人のみによって行われたという。しかし、この蔭に─この蹶起行動には全くかかわりのないことは事実であるが─バックボーン的に大きな思想的影響を与えていた一人の日本人がいた。すなわち比島独立の指導者と呼ばれる望月重信陸軍中尉その人である〉(同書15頁)

フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士『中立の笑劇』⑦

 フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士の『中立の笑劇:フィリッピンと東亜』(堀真琴訳編、白揚社、昭和17年)「第五章 比律賓独立と亜細亜モンロー主義」を紹介。
 ピオ・デュラン博士は、日本が日清戦争、日露戦争を戦わねばならなかった理由を明快に説明する。さらに博士は、東洋で日本勢力が失われていたら、アフリカにおける西洋人の植民地的搾取をアジアで繰り返させることになったと喝破する。

 〈勿論、この考に反対する人々は、日本は攻撃的にして野心的な軍事国にして、太平洋及び亜細亜大陸の他地域を獲得する為に、かかる教義を利用するかも知れないとする。かかる人々は、日本が領土的野心を有する雄弁なる例証として台湾及び朝鮮の場合を挙げる。
 事実の皮相的なる知識しか有しない人々には、明らかに正当だとされてゐるが、事実に基礎を置かないやうな飛躍した結論を得る前に、日本が朝鮮、台湾を獲得するに至つた根本原因を研究しなければならない。十九世紀の終りに、露西亜の爪牙は満州を超えて朝鮮まで伸びてゐた。朝鮮は、支那の宗主権の下に在つた独立王国ではあつたが、露西亜の謀略と行政的侵害の波を防止するには無力だつた。支那としても、露西亜の前進を阻むべき手段を有しなかつた。ベーシル・マットシウは「東亜に於ける世界の波」と題する近著に於て、
 「しかし、地図を一瞥すれば明らかなやうに、太平洋に港を求めんとする野心的な西洋の一強国の手に朝鮮が入れば、それは日本の心臓に擬せられたる短刀のやうなものである。そこで日本は、一八九四─一八九五年に支那を憎むが為といはんよりも、露西亜が朝鮮を支配するのを防がんが為に支那と戦つた」 続きを読む フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士『中立の笑劇』⑦

フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士『中立の笑劇』⑥

 フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士の『中立の笑劇:フィリッピンと東亜』(堀真琴訳編、白揚社、昭和17年)「第五章 比律賓独立と亜細亜モンロー主義」を紹介。
 ピオ・デュラン博士は、「白人の重荷」という作り事を終焉させる為に、フィリピン人が日本の指導の受け入れれば、「東洋は自分たちのものだ」ということに目覚めるだろうと期待する。

 〈若し、全東洋諸国がモンロー主義の保護保証の下に連合するならば、右連合による勢力は、西洋諸国が日本に従つて又東洋諸国に対して、自治的に軍備を為さんとするを否定する共謀の手役に対して反対することが出来る。
 これ等の問題は、その影響する所は国境を越えるものであるから、比律賓人は狭い国民主義的見地からでなく、東洋民族の権威の観点より考慮さるべきものである。
 種族的の無礼の態度によつて與へられた傷は、心を傷ましめるもので、決して癒すことの出来ないものである。国民の精神は信実だからだ。しかして、東洋人が信実心を有する限りは、東洋の傷ける精神は生きてゐる。
 故に、「白人の重荷」といふ不正にして、尊大な作り事を終焉せしめんが為に、比律賓人が種族的誇りとして日本の東洋に於ける指導を受容れるならば、しかして又、米洲独立諸国が米国を保護の天使として認めたやうに亜細亜諸国が日本を東亜の平和を維持し得る国として、その卓絶し優先的なる地位を認めるならば、白人の剣が忍耐強い亜細亜人の前で抜かれる際は必ずや報復を件ひ、現在西洋諸国の支配下に在る幾百万の亜細亜人は、狡猾にして、貪欲な白人の為に幾世紀もの間誤認せしめられた劣等感をかなぐり捨てて、西洋人に属すると同じやうに、東洋は自分達のものであるといふ事実に目覚めるであらう〉(同書156頁2頁~157頁5行目)

フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士『中立の笑劇』⑤

 フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士の『中立の笑劇:フィリッピンと東亜』(堀真琴訳編、白揚社、昭和17年)「第五章 比律賓独立と亜細亜モンロー主義」を紹介。
 ピオ・デュラン博士は、白人の有色人種に対する差別を糾弾し、大東亜戦争に至る日本の歩みを擁護する。

 〈又、更に東亜に於けるモンロー主義を十分に検討する場合、忘れてはならないのは、種族的矜持の問題である。東洋のあらゆる国民は、白人が東洋の有色人種に対して、自己が優つてゐるといふ横柄な態度をとる為に、侮辱・屈辱を免れなかつた。西洋諸国の採用した移住及び婚姻法に於ける差別条項を見れぼ、彼等が東洋人を如何に待遇し、如何に考ヘてゐるかが最もよく解る。
 国際連盟規約の諸条款を討議する為に開催されたヴェルサイユ会議に於て、日本代表が全国家間に於ける種族的平等を保証する規定を挿入せんことを主張したが、右提案は一斉に反対され、出席の全欧諸国から拒否された。このことは世界の有色人種が、西洋人のいふ残酷な軍国主義に対して闘つた暗黒時代に、西洋諸国民と相携へて戦つたその直後に起こつたことを考へると、戦争を永久に法律の保護から奪はんとして組織された国際連盟の規約なる文書に於て、種族的平等を規定せんとする提案を拒否したことは、有色人種が仏蘭西戦線及び東亜水域に於て、白人との間に幾年か結んだ友情と兄弟の交りによつて作られた相互協力の方法に致命的打撃を輿ふるものである。この態度は西洋人が世界問題を解決せんとする場合に有色人種と同位に於て、協調するを拒むことをはつきり示したものである。今日に於ても、なほ彼等と手をとつて共に働かうとすることは、彼等が過去に示した無礼な態度を認め、これを永久化することとなる。
 アングロ・サクソン国が、日本の海軍比率に対する要求に反対し、一九二一年英米の威嚇手段によつて、日本に強制された華府条約の規定を背負はしめんと主張するのは、日本が、自治的に軍備を為すのを拒むのみならず、全東洋諸国に対する侮辱である。無力にして屈辱的状態にある吾々比律賓人は、日本帝国が全東洋諸国に対し国際会議に於ける相応の地位を與へんとする努力に対して、無組織無統一ながら、道徳的支持を與ふるものである〉(同書154頁3行~156頁1行)。

ピオ・デュラン博士と渡辺はま子─「あゝモンテンルパの夜は更けて」誕生秘話

 昭和26(1951)年12月24日、フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士が来日したことをきっかけに、108人の日本人兵士の命を救う奇跡の曲「あゝモンテンルパの夜は更けて」は誕生した。
 当時、フィリピン・モンテンルパ市のニュービリビット刑務所には、マニラ軍事裁判で有罪判決を受けた多数の元日本兵が収監されていた。博士は、収監されている日本兵の手紙を持って、日本を訪れた。
 戦前、博士は筋金入りの大亜細亜主義者、親日派として活躍したが、戦後、「対日協力者」として断罪され、ホセ・ラウレルらとともに1947年まで獄中生活を余儀なくされた。ロハス初代大統領によって釈放されると下院議員を志し、ついに1949年に下院議員選挙で当選を果たした。
 新井恵美子氏の『死刑囚の命を救った歌』には、博士が、収監されている日本兵たちの留守家族と対面する様子が描かれている。
 〈(一九五二年)一月十日、デュランは留守家族と懇談し、モンテンルパの様子を語った。その時、死刑囚の鳩貝吉昌の次女・礼子ちゃん(十二歳)がデュランに語りかけた。
 「おじさん、私が生まれてからまだ一度も会ったことのないお父さんが……」と話し始めて、声にならない。デュランは「お父さんに会えるよう努力しましょう」と礼子ちゃんに約束した。「皆さんの気持ちはきっとフィリピンに伝えます」と重ねて約束したのだった〉 続きを読む ピオ・デュラン博士と渡辺はま子─「あゝモンテンルパの夜は更けて」誕生秘話

フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士『中立の笑劇』④

 フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士の『中立の笑劇:フィリッピンと東亜』(堀真琴訳編、白揚社、昭和17年)「第五章 比律賓独立と亜細亜モンロー主義」を紹介。
 ピオ・デュラン博士は、東亜モンロー主義を国家安全保障の観点から論じた上で、地理的、文化的な観点から論じる。スペイン来訪以前には、フィリピンは東洋大帝国の一部を構成していたと喝破する。

 〈国家安全の要求は別としても、なほ他に比律賓がこの地に於けるモンロー主義に讃意を表すべき他の隠れた理由が存在する。
 それは、地理的、文化的に見ても東亜の諸国民が一体となつたがいいのである。比律賓に於ける文明は、日本に於ける文明と同様に孔子や老子のやうな聖人の教及び仏教の原理に基いてゐた。西班牙人来訪以前に於ては、比律賓は仏教徒並に支邦人の連合勢力によつて、建設されたる大帝国の一部を構成してゐた。ジャバのカドー地方に於けるボロ・ブヅール及びアンコール・バットに於て十二世紀初葉スルヤバルマン二世によつて建てられた、素晴らしい霊廟は、今日に於ても幾百万の馬来人が、西洋諸国に対する闘争の最も暗黒な時代に於ても、自らを励ますために仰ぎ見る希望の信号火として立つてゐる。その均整のとれた美、素晴らしい壮大さは、西洋の最も活発にして肥沃な芸術的創造によつてもまだその概念に於て、又実際に於て匹敵するものがなかつた。人間文明の最も動揺したる三千年に互つて、壮大さと素晴らしさとが維持されたことは、馬来人の事業と文化の持続的性質を現すものである。かかる背景を考へれば、比律賓文明の基礎が三百五十年間の西洋支配の影響によつて、完全に蝕まれたとは思はれない。
 地理的には比律賓は、周囲の数々の異なつた東洋勢力を巻込むべき渦を為してゐる。支那及び印度の世界総人口の約半分を容れる亜細亜本土を別とすれば、比律賓は北は北海道から濠洲の北岸スマトラまで拡がる亜細亜大陸の海岸を囲む一連の島嶼の一部を為してゐる。比律賓人が好むと、好まざるとに拘らず、その国の生命は、東亜の諸国と固く結びつくことを自然は命じた。
 この自然の避くべからざる命令に背くことは種族的自殺を招き、東亜全体の平和と安寧むを危殆ならしめるものである〉(同書152頁5頁~154頁2行目)

スヴェン・マッティセン(Sven Matthiessen)氏とフィリピンの大亜細亜主義

 「日本の大東亜共栄圏とフィリピン」をテーマとした研究を行ってきたドイツ人研究者のスヴェン・マッティセン(Sven Matthiessen)氏の著作に、『Japanese Pan-Asianism and the Philippines from the Late 19th Century to the End of World War II. : Going to the Philippines Is Like Coming Home? (Brill’s Japanese Studies Library) 』(2015年11月)がある。
 フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン(Pio Duran)博士に関する、同書の記述をいずれ紹介する。

フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士『中立の笑劇』③

 フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士の『中立の笑劇:フィリッピンと東亜』(堀真琴訳編、白揚社、昭和17年)「第五章 比律賓独立と亜細亜モンロー主義」を紹介。
 伝統文化の保持の重要性を指摘し、「東洋に還れ」の運動を発足することがすべてのフィリピン人の義務だと説いている。

 〈しかしこれは如何なる犠牲に於て為されたか、比律賓人は現在彼等特有のものと誇らかに宣言し得るものを所有してゐるか。吾が近隣の東洋諸国は、吾々のことを何と思つてゐるか。西洋諸国の支配は我が国を東洋に合はないものとしたといふ考へで狼狽するやうなことはないのか。支那は現在純粋なる自己の文化及び文明を誇ることが出来る。我が国人の多くが、白人と同じやうに侮蔑感を以て眺める支那人は西洋の標準に従へば無智であるやうに見えるが、その祖先の高貴なる伝統を墨守したのは、称賛さるべきである。日本は西洋の軍国主義を学びこれを一度ならす西洋に対してうまく利用したが、その宗教、言語並に東洋及び自国自身の他の制度を捨てるやうなことはしなかつた。長年英国の支配下に呻吟した夥しく多数の印度人は、英国人がその支配を永久化せんとした為に分割されてはゐたけれども、彼等が大いに誇りとした彼等自身の文化を所有した。長年の極貧と外国の圧政下に在つて、ヒンヅー人は、その先祖から受継いだ制度に対する忠誠に動揺を来さなかつた。南方の泰人は、西洋のものよりも自分自身の習性特風及び生活方法を保持した。ボルネオ、スマトラ及びその他東印度諸島の六千万の馬来種の同胞は幾世紀かの間、西洋の支配下に在つたにも拘らず、シュリ・ビサヤス及びマダパヒットの帝王時代から譲受けた文明の特相を保持し続けた。
 東洋を訪れる旅行者は、雪に覆はれた日本の山の斜面にせよ、ゴビ砂漠の焦がすやうな砂にせよ、印度ヒマラヤ山の眩むるやうに高い所に於ても、又東印度度の颶風に暴された海岸等、あらゆる所に於て東洋文化の形跡を見る。しかしながら、一度旅行者が比律賓に達するや、東洋に於ては不似合な、さればとて西洋の背景をなすにも適当でない混ぜものの東洋的なものを見る。この嘆ずべき状態は本質的にくた著しく東洋的なるものの上に西洋文明を強制的に重ねたことに基くが、その非難は住民大衆に対して、為さるべきではなく、寧ろ東洋民族の一部を無気力にせんとして統治し、西洋諸国と自己を同列に置かんとした東洋主義の背教者に対して為さるべきである。
 今や比律賓は、幾世紀かの絶えざる闘争の後、喪はれたる自由を再び獲得せんとし居れるを以て「東洋に還れ」の運動を発足するは、すべての比律賓人の義務である。幾世紀かの如何とも為し難い服従の間に強制的に押附けられた、厚く塗られた西洋文明の上塗りは、これを引剥いで、現在及び将来永遠に東洋諸国住民の生命の中に根本的影響を残す古き東洋文化の栄光を明るみに出さればならぬ。〉(同書136頁9行目~138頁12行目)