北海道大学教授の松浦正孝氏による千頁を超える大著『「大東亜戦争」はなぜ起きたのか』(名古屋大学出版会)は、戦後の日本企業による海外での大規模な開発プロジェクトは、海外進出型のアジア主義の姿を変えた再現であるとし、戦後、東南アジア開発基金構想を唱えた中谷武世らや、土木事業コンサルタント会社日本工営を設立し、アジア各国の水力発電所建設を手掛けた久保田豊らを具体的事例として挙げている。
一方、松浦氏は内需拡大型の公共事業にもアジア主義の継承を見出し、農村への工場誘致を含む田中角栄の大規模な国内公共土木工事は、歴史的に見れば石原莞爾の発想を引き継いだものだと指摘した(同書、八百五十四頁)。
民族協和の理想に基づいた東亜連盟を目指した石原莞爾は、「都市解体、農工一体、簡素生活」の三原則により、人類次代文化に先駆する新建設を断行すべきだと強調していた。
戦後、田中角栄の片腕として通産大臣秘書官・総理大臣秘書官を務め、日本列島改造論にも深く関わった小長啓一氏の志を継いだ濱岡平一氏は、通産省立地指導課長として各地の農村地域を回った。彼が山形県の庄内平野北部の遊佐町を訪れたときのことだ。日輪講堂の前で、濱岡氏は一基の石碑を見つけた。その石碑には、講堂を作った石原莞爾の「都市解体、農工一体、簡素生活」の十二文字が刻まれていたのである。後に濱岡氏は、「国土利用と生活設計のありかたに関する日本民族の心底にある深い願いの発露をみる思いに打たれ、立ち去り難い気がしたものである」と振り返っている。
興亜思想を継承し、戦後国内公共事業で活躍した人物の一人に、元陸軍少将金子定一がいる。彼は、郷里の岩手で雑誌『開発クラブ』を主宰し、岩手県の総合開発政策に関与し、アジア主義を見つめ直した(八百五十四頁)。
金子は明治十八年に岩手県盛岡市加賀野で生まれた。陸士十九期、陸大二十七期で、歩兵第三十一連隊付、第八師団参謀、支那駐屯軍司令部参謀、第三師団参謀などを務めた。彼が大亜細亜協会に参画したのは、参謀本部勤務時代に松井石根の知遇を得たのがきっかけだと推測される。やがて金子は、大亜細亜協会の事業に深く関わり、「日本海湖水化」構想を推進する。「日本海湖水化」とは、大陸側と日本海地域の交通の活発化に伴い、日本海という外洋を湖水、つまり「一つの国の中の湖水のようなものにしていく」という考え方である。北海道大学の白木沢旭児教授によると、「日本海湖水化」を昭和七年十二月に初めて提唱したのが、京城日報の社長松岡正男だったらしい。この構想の背景には、日本海側の諸地域で、日露戦争の前後から「裏日本」脱却の方策として対岸との貿易拡大を求める活動が続けられてきたことがある。
金子ほど「日本海湖水化」に取り組むに相応しい人物はいなかった。昭和九年に朝鮮軍・関東軍間の連絡将校として活躍していた彼は、大亜細亜協会の朝鮮支部設立に尽力、さらに昭和十一年には、大亜細亜協会金沢支部の立ち上げに関わった。松浦氏は、金子を「日本海湖水化」を前提として、地方基盤レベルで大亜細亜協会を構築しようとした第一人者ととらえている(四百七十一頁)。
金子の興亜思想を支えていたのが、独自の日本民族論である。彼は『大亜細亜主義』昭和十三年三月号に「日本民族の大陸還元」を寄せ、古代以来、日本民族が朝鮮民族、満蒙民族その他ツラン民族、支那民族など、アジア諸民族が地縁のみならず血縁によって同胞としてつながっているとし、「日本民族が東亜復興の指導者として同胞、友胞のために起ち、祖先の志を成さんとするに当たり日本民族の大陸還元を唱へることは、別に不思議があるまい」と説いた。金子にとって「復興アジア」とは、日本海・東シナ海を「内海」とすることで、古代・中世の大陸と連結された日本列島から日本民族が「故郷」である大陸へと帰還し、「アジア人のアジア」を回復することであった(四百七十四頁)。
彼は、植民地における日本人による差別、横暴を批判し、「内鮮一体も、五族協和も、支那の人心獲得も、結局はその本質は同じものと信じ、又、日本国内の国民総親和さへもこれと同工のものと考へ、『相互の敬愛』『その謙譲化』『日本人の自粛自浄』『特に地位あり学識ありするものの失態に対する容赦なき制裁』」こそが東亜新秩序の基調をなす、と苦言を呈していた(四百七十六頁)。
ここで、注目されるのが、興亜思想における日本海側出身者の役割である。
「日本海湖水化」構想が進められていた当時、「北鮮三港」(清津・羅津・雄基)の一つとして港湾都市として整備されていた清津港の貴賓室のサロンには、拓務大臣を務めた永井柳太郎の書「日本海湖水化」が掲げられていた。この永井のほか、ツラン主義に基づく興亜思想を抱いていた林銑十郎、満州移民教育を推進した加藤完治、石原莞爾のもとで東亜連盟構想を具体化した宮崎正義らは、皆石川出身である。
松浦氏は、「彼ら石川県人にとって、日本海は湖水であるという考えは、江戸時代から北前船の帆影と共になじみのあるものであっただろう。また、日本海を真ん中に据え、朝鮮・満州の兵姑基地と日本列島とを一つの連環として、露国、そして米国と対峙していくという、石原莞爾のアイディアは、日本海側の鶴岡出身の石原にとって、自然な発想であっただろう」と指摘する(四百六十一頁)。日鮮同祖論やツラン主義なども視野に置いて、興亜思想における日本海側出身者の役割について再認識する必要がありそうだ。
(二〇一〇年四月一九日)
「日本海側からの興亜思想 明日のアジア望見 第82回」『月刊マレーシア』509号、2010年5月16日
Please follow and like us:
貴重な発掘を残して下さり、有難く存じます。日本海が一つの湖であるとの感慨は、かつてツランの草原を疾駆したDNAをもつ日本人にとっては、ごく自然な感情だったのでしょう。地道な作業を続けておられることの成果と感服しました。天童竺丸
天童様、ありがとうございます。坪内隆彦