明治11(1878)年5月14日に、「紀尾井坂の変」(大久保利通暗殺事件)に際して、実行犯の石川県士族・島田一郎らが持参した斬奸状を紹介する。起草したのは陸九皐(くが・きゅうこう)。
〈石川県士族島田一郎等、叩頭昧死(こうとうまいし、頭を地面につけてお辞儀をし、死を覚悟して)仰で 天皇陛下に上奏し、俯して三千有余万の人衆に普告す。一郎等、方今我が皇国の時状を熟察するに、凡政令法度上 天皇陛下の聖旨に出ずるに非ず。下衆庶人民の公議に由るに非ず。独り要路官吏数人の臆断専決する所に在り。夫れ要路の職に居り上下の望に任する者、宜しく国家の興廃を憂る。其家を懐ふの情に易へ、人民の安危を慮る。共身を顧る心に易へ、志忠誠を専らにし行ひ、節義を重じ事公正を主とし以て上下報対すべし。然り而して、今日要路官吏の行事を親視するに、一家の経営之れ務て出職を尽す所以を計らす。一身の安富之れ求て其任に適ふ所以を思はず。狡詐貪焚上を蔑し、下を虚し過に以て無前の国恥千載の民害を致す者あり。今其罪状を条挙する左の如し。
曰く、公議を杜絶し民権を抑圧し以て政事を私する。其罪一なり。
曰く、法令漫施請託公行恣に威福を張る。其罪二なり。
曰く、不急の土木を興し無用の修飾を事とし以て国財を徒費する。其罪三なり。
曰く、慷慨忠節の士を疎斥し憂国敵愾の徒を嫌疑し以て内乱を醸成する。其罪四なり。
曰く、外国交際の道を誤り以て国権を失墜する。其罪五なり。 続きを読む 大久保利通暗殺事件斬奸状 →
『明治聖徳記念学会紀要』復刊第54号(平成29年11月)に、拙著『GHQが恐れた崎門学』の書評を掲載していただきました。
〈著者は日本経済新聞社に入社し記者として活動するが、平成元年に退社してフリーランスとなり、現在は『月刊日本』編集長などを務めている。坪内氏は『月刊日本』で平成二十四年から「明日のサムライたちへ」と題する記事を連載し、明治維新へ影響を与えた国体思想の重要書を十冊紹介した。本書はそこから特に五冊を取り上げ再編集したものである。GHQは日本占領の際、政策上都合の悪い「国体」に関する書籍を集め焚書した。崎門学の系統の書籍がその中に入っており、本書の題名の由
来となっている。
近年は明治維新の意義や正統性に疑義を呈する研究が盛んである。それに対して、本書は明治維新を実現させた志士たちの精神的な原動力として山崎闇斎の崎門学をあげ、その「日本」の正統をとり戻した意義を一般に啓蒙せんとしている。崎門学は天皇親政を理想とし、そこでは朱子学は易姓革命論を否定する形で受容された。後に、闇斎は他の複数の神道説の奥義を学んだうえで自ら垂加神道を確立する。
本書で取り上げた崎門学の系譜を継ぐ五つの書とは『靖献遺言』、『保建大記』、『柳子新論』、『山陵志』、『日本外史』であるが、書籍ごとに章を立て(『保建大記』と『山陵志』は同章)広く関連人物にも解説は及んでいる。特に、闇斎の弟子・浅見絅斎著『靖献遺言』は幕末の下級武士のバイブル的存在であったし、『日本外史』は一般にも読まれ影響力大であった。五つの書の中で、著者は『柳子新論』に対してだけは、湯武放伐論を肯定している箇所について部分的ではあるが否定的評価をしている。補論では、著者が大宅壮一の影響下にあるとみなす原田伊織の明治維新否定論への異議申し立てを展開している。「魂のリレーの歴史」として、「日本」の正統を究明せんとする崎門学の道統についての入門書として、有志各位にお勧めする。〉
嘉永六(一八五三)年六月、ペリー艦隊が浦賀沖に来航し、日本の開国と条約締結を求めてきた。幕府は一旦ペリーを退去させたが、翌嘉永七(一八五四)年三月三日、幕府はアメリカとの間で日米和親条約を締結した。
安政三(一八五六)年七月には、アメリカ総領事ハリスが、日米和親条約に基づいて下田に駐在を開始した。幕府はアメリカの要求に応じて、日米修好通商条約締結を進め、安政五年三月十二日には、関白・九条尚忠が朝廷に条約の議案を提出する。大老井伊直弼は安政五年六月十九日、勅許を得ないまま、修好通商条約に調印したのである。
これに反発した尊攘派に井伊は厳しい処断で応じた。安政の大獄である。幕府の最初のターゲットとなった梅田雲浜は獄死している。
ところが、尊攘派の怒りは安政七(一八六〇)年三月三日に爆発する。江戸城桜田門外で彦根藩の行列が襲撃され、井伊が暗殺されたのだ。桜田門外の変である。これを契機に尊攘派たちが復権を果たしていく。
この激動の時代を青年副島は、どのように生きたのか。
日米和親条約が締結された翌安政二(一八五五)年、彼は皇学研究のために三年問京都留学を命ぜられた。まさに、弱腰の幕府に対して尊攘論が高まる時代だ。副島は、京都で諸藩の志士と交流し、一君万民論を鼓吹し、幕府の専横を攻撃した。
安政五年五月、副島は一旦帰国して、楠公義祭に列したが、六月再び上洛、大原重徳卿に面謁して、将軍宣下廃止論を説き、青蓮院宮に伺候し、伊丹重賢(蔵人)と面会している。伊丹家は代々青蓮院宮に仕えた家であり、伊丹は尊攘派の志士として東奔西走していた。
副島は、伊丹の相談を引き受けて、兵を募るために帰藩した。この時、藩主・鍋島直正は副島の身の上を気遣い、禁足を命じて神陽に監督を頼んだという。
小泉菊枝は『東亜聯盟と昭和の民』(東亜聯盟協会、昭和15年)で、以下のように書いている。
〈漸く封建社会の諸制度を清算し、資本主義経済への発展により活発な国富増進へ歩み出した世界の後進国日本は、商品を売りさばく海外市場として残されてゐる所を支那大陸に求めるより仕方がありませんでした。日本は列強に追随しながら友邦支那の中に利権を確立して行きました。かうして一人殖民地と化し去らうとする東亜に於ける唯一の独立国家日本はぐんぐん国力を充実させ、列強の間に伍して進みました。かゝる日本の発展を、列強はたゞ侵略的・野心的進出としてだけ解釈し、東亜のユートピアとして「愛すべき日本」と呼んでゐた人々も「恐るべき日本」からやがて「恐るべき日本」と称してひたすらその成長を抑圧しようとするやうになりました。列強は競つて亜細亜の宝庫を分割しようとし、又この間に割り込む日本を牽制しようとしました。門戸開放・機会均等が屡々支那に要求されましたが、これは取りも直さす、搾取と侵略の自由平等を大亜細亜殖民地の上に確立しようといふ意志表示だつたのです。列強の利権が増大すればする程、利権擁護に名を借りた東亜諸問題への彼等の発言権は強硬になるばかりでした。日本は必死となつてこの間に立ちました。若し日本が支那大陸に利権を確守出来す、発言権を持たなかつたならば、亜細亜大陸は列強の欲するまゝに動かされるより他はなかつたのです。 続きを読む 日中の不幸なすれ違い─小泉菊枝『東亜聯盟と昭和の民』 →
大石凝真素美の弟子水野満年は、大正15年に『大正維新に当りて』(国華教育社)を刊行した。以下、目次を掲げる。
緒言
一 先づ他山の石で玉を磨け
二 大日本帝国の使命
三 和光同塵の皇謨
四 国是と歴代の皇謨
五 国体の根本義
六 根本覚醒の要
其二
其三
七 皇国興隆の大道
八 神聖なる祖宗御遺訓
九 神聖遺訓の内容
十 神聖遺訓古事記に対する学者の誤解
十一 日本の大正維新は即世界の大正維新なり
十二 敬神崇祖と国民皆兵の本義
十三 神聖遺訓による内治外交の範畴
十四 大正維新の経綸
十五 土地人民奉還の上表文
附「遂次発表の書目」
(一財)和歌山社会経済研究所研究部長の高田朋男氏は、以下のように述べている。
〈東洋の思想哲学の根底には、有機的構成関係が存在しているように思う。有機的構成関係とは、「全体」が「部分」を規定する構成関係の事をいう。従って東洋の思想哲学は、有機的構成関係で世界の様態を捉えるため、部分真理ではなく、まず全体真理を追い求める。このことは、西洋哲学の欠陥を補う役割を担える可能性を秘めていると言える。そして陽明学者の安岡正篤氏は言う、西洋の哲学者はその思想と行動を分けて思惟しており、その結果、行動と思想の一致が求められていないところがある。それに対し東洋の思想家は、自身の行動から生み出された思想ゆえ、行動と思想が一致していると指摘している。思うに、いわば実証(含む「状況証拠」)を必要としているか、していないかの違いである。実証の伴った思想の方が、思惟だけの哲学より遥かに信頼性が高いと言わなければならない。合気道の開祖、植芝盛平翁の哲理は、実証が伴っている。実証に次ぐ実証の中から築き上げたものである〉(「植芝盛平翁の深遠な哲理について~「知」の巨人と「武」の巨人~」『21世紀Wakayama』75、2013年12月)
明治2年12月20日、太政官より「高山彦九郎ヲ追賞ス」との沙汰があった。
「草莽一介ノ身ヲ以テ勤王ノ大義ヲ唱ヘ、天下ヲ跋渉シ、有志ノ徒ヲ鼓舞ス、世ノ罔極ニ遭ヒ、終ニ自刃シテ死ス。其風ヲ聞テ興起スルモノ、少ナカラズ。其ノ気節、深ク御追賞在ラセラル。之ニ依リ、里門ニ旌表シ、子孫ヘ三人扶持、下シ賜リ候フ事」
昭和21年4月8日に文部大臣に提出された教派設立届に基づき、すめら教の教義などを紹介する。
まず、「教義・儀式・行事」は以下のように定められている。
〈第三条 宇宙創造、万有展化、生成発展ノ根源にして其ノ本体タル絶対的絶対神格者『天之御中主神』が宇宙創化ノ為メノ自己内展ニヨリテ神生リマセル皇神集ヲ信仰ノ対象として『すめらぎノ御霊』トシテ奉斎シ其ノ御議ヲ以チテ神界ニ事始事依サシ給ヘル宇宙創化ノ神業『天津宮事』ヲ観ジテ天地ノ大道ナリト諦観シ其ノ原理原則コソ実ニ神々ニヨリテ示サレタル吾人々類ノの則ルベキ人生ノ至道ナリトシ其ノ『天津御手振』を吾人々類ノ原則生活トシ乏シキ神習ヒ本教管長ノ著作物ヲ以て教義トス
第四条 教憲ト原諦
(一)顕界(現実界)ニアリテハ我ガ『神ながら』ノ明徴広闡ニ精進シツヽ各人至心修養其ノ本然本有ノ真姿態ニ帰正シ原則生活ノ実践ニヨル表現トシテノ吾人ノ文化生活体系ヲ展開シ幽界(霊界)ニアリテハ宇宙創化ノ皇神等ニまつろひツヽ其ノ真実想ヲ諦観シ其ノ神業ニ息吹キ其ノ御手振ニ雄叫ビ霊界体一如、顕幽一体以テ地上ニ於ケル万民協和ノ真ノ文化境タル全世界ノ全平和ヲ理想トスル神ノ御国ヲ展開セシメムトス〉
小野清秀は『神道教典』(大聖社、大正四年)で、以下のように書いている。
「神祇官の頭領神祇伯王たる白川家にては、一方には時代の趨勢に促され、一方には其の下僚たる卜部家の跋扈するより、自衛の必要上、伯家神道なるものを組織した、其の神道通国弁義に、左の如き説がある。
神道は天地の中気循環して、万物生々化々するの名にして、和漢竺は勿論、四夷八蛮、万国一般の大道なり、天地広しと雖も、万物多しと雖も、一つも其化に洩ことなく、天地も其循によらざる所なし、知る者も神道裏の人、知らぬ者も神道裏の人、鳥獣蟲魚、草木砂石の非情、皆其化に出入し、人々其神の分賦を受けて、これを心の蔵に容て魂と為ながら神の所為たることを知らざる、実に神道の大なる所なり」
丸山幹治は『副島種臣伯』において、副島の『精神教育』から抜き書きしている。前回に続き、第九編以降を見ていく。
第九編「無有」である。無々不生有、有々安得無といふ自作詩に就て先生一流の世界観と倫理観を説いた。
第十編は「観道」である。「道は天地開闢以来何時も一貫して存して居るものである、開闢の時の忠孝も、今日の忠孝と変りはない、今日の忠孝は後世の忠孝である、無きものが新に発見されるのではない」とある。
『維新と興亜』編集長・坪内隆彦の「維新と興亜」実践へのノート