■水戸学の真髄
 明治維新の原動力となった国体思想は、早くも明治四(一八七一)年頃には新政府によって蔑ろにされるようになった。崎門学派、水戸学派、国学派などは重用されなくなったのである。こうした時代に、『大日本史』完成の志をまっとうし、ついにそれを実現したのが栗田寛である。
 天保六(一八三五)年九月十四日に水戸下町本六丁目で生まれた栗田は、わずか十三歳で会沢正志斎の『迪彝篇(てきいへん)』を愛読し、皇統のよって立つ神器の尊厳性と国体の尊さを感得していた。
 『迪彝篇』は正志斎が天保四(一八三三)年に著した実践道徳論を展開した著作で、他の著作より比較的わかりやすく「国体の尊厳性」を説くとともに、国体の尊厳性を支える「皇位は無窮」の内実を説いている。
 筆者は水戸学の達成の一つは「国体の尊厳」「皇位の無窮」の内実を明確にしたことにあると考えている。それは、東湖の『弘道館記述義』の次の一節に凝縮されているのではなかろうか。
 「蓋(けだ)し蒼生安寧、ここを以て宝祚無窮(ほうそむきゅう)なり。宝祚無窮、ここを以て国体尊厳なり。国体尊厳、ここを以て蛮夷戎狄(ばんいじゅうてき)卒服す。四者、循環して一のごとく、おのおの相須(ま)ちて美を済(な)す」(思うに人民が安らかに生を送るがために皇位は無窮であり、皇位が無窮であるがために国体は尊厳、国体が尊厳であるがために四方の異民族は服従する。この四者は循環して一つとなり、それぞれ相互に関連してみごとな一体をなしている、橋川文三訳)と書かれている。

 正志斎は『迪彝篇』「君道篇」で、「歴代の聖帝天に代りて民を覆育したまひ、君道師道を一つにして、これを治め、且教へ給ふ。万民の為に災害を除き、生を厚くし、用を利し、百官を設け、紀網を立て、賞罰を明らかにするは君道也」と述べている。
 こうした正志斎の考え方を継承し、栗田は明治二十九(一八九六)年に著した『天朝正学』で、「吾が高天原に所御す斎庭の穂を以て、亦吾が児に御せまつるべし」という「斎庭稲穂の神勅」を引き、次のように述べている。
 〈唯稲穀の事のみと思はれど、国土も人民も、人民の奉る諸のみつぎ物をも、受納れて所知すを、天日嗣所知と云ふことにて、其種々の物の中には、稲を主とする故、かく云り。大神、民を愛養するの深き、最稲穀を重んじ玉ふを以て、国を瑞穂と云ひ、瑞穂にかけて千万秋と云ひ、諸祭を重ずる中に、最も大嘗を大事とするは、瑞穂にも皇統にも関するを以て也〉
 栗田は十六歳の時に正志斎の講義を聴く機会に恵まれ、その後藤田東湖、豊田天功からも直接薫陶を受けている。栗田が父雅文の手ほどきにより、文字通り水戸学の英才教育を受けたことは、雅文の次の言葉にも明確に示されている。

 「吾常陸の国は、昔西山の君大日本史を修め給ひしより後、多くの識者、世に出来て、学の道も甚盛りにはなりにし也。其が中に安積覚、三宅緝明、栗山愿などは、殊に秀傑たる学者にて、其日本史の賛藪、中興鑑言、保建大記は、各見る所ありて、其論へる説ども皆いはれたり。故此三人は、皇国学の原を開ける人と云つべし。其後百数十年の間、種々の博士たちは有つれども、近くは藤田一正、其子彪、会沢安、豊田亮などは、皆西山君の御心を心として、日本史の事にいたつきたる人々にして、会沢、藤田彪、豊田の三人は、現に今世にあなれば、汝よく此三書どもを心とめ置て、此人々に従て議論を聞かば、学びの道を弁へなむものぞ」(『神祇志料』凡例)

■『大日本史』志表編纂と栗田寛
 『大日本史』は、本紀、列伝、志、表からなる。本紀は天皇の事績、列伝は皇后以下臣下の事績、志は神祇・氏族・職官などの分野別制度史、表は人名表・年表などの資料類だ。このうち、志と表の編纂が遅れていたが、「神祇志」の編纂こそが最難関であった。
 「神祇志」の名目は、すでに天和三(一六八三)年の義公の「御意覚書」に見られ、本志の編纂は何度も試みられた。しかし、その完成を見ることはなかった。栗田が「神祇志」編纂に関係する以前には、名越克敏、青山延彝、その子延于、豊田亮などによってその編纂が試みられたが、完成に漕ぎつけることはできなかった。
 こうした中で、安政六(一八五九)年に栗田は「神祇志」編纂を志し、様々な機会をとらえて神祇史の研究を進め、ついにそれを完成させたのである。神祇志を十志の冒頭においた理由は、次の一節に示されている。
 「夫れ祭祀は政教の本づく所、神を敬し祖を尊び、孝敬の義天下に達し、凡百の制度も亦是に由りて立つ。天皇は天祖の遺體を以て世々、天業を伝へ、羣臣は神明の冑裔を以て世々天功を亮(たす)く。君の民を視たまふこと赤子の如く、民の君を視まつること父母の如し。億兆心を一にして万世渝(かは)らず、各々其の力を献じて以て忠誠を致さざるなし。是れ海外諸蕃の絶えて無き所のもの、故に神祇を以て首と為す」(『訳註大日本史 六』建国記念事業協会・彰考舎、昭和十七年)
 明治二年九月四日、栗田は『大日本史』志類(志と表)編纂事業の達成を請願して、藩庁に書を呈している。栗田は、修史事業の達成のためにも、影考館の館員をすべて水戸家の家扶家従として、この事業は継続すべきであると具体案を提出した(照沼好文『栗田寛の研究』)。この提案がほぼ受け入れられ、志類編纂事業が続行されることになる。その後栗田は明治六(一八七三)年に上京し、同年十二月に教部省に出仕し「特選神名名牃」の編纂などに従事したが、明治十年一月に教部省は廃絶となり、栗田も同省を辞任して帰郷した。そして、明治十二年、栗田の意見が容れられて彰考館が再開され、志類編纂事業を再開する。そして、栗田歿後八年間をかけ、明治三十九(一九〇六)年十月、ついに『大日本史』志表は完成した。明暦三(一六五七)年に義公が史局を開設し、修史事業を開始してから二百五十年にして『大日本史』は完結したのである。

■元田永孚と水戸学
 これより先、明治二十三(一八九〇)年十月三十日に発布された教育勅語には、水戸学の国体思想の影響が窺われる。勅語の「億兆心を一にして」との表現は、正志斎の『新論』と同じ表現である。また、「弘道館記」の四綱目「忠孝一致」、「文武一致」、「学問事業一致」、「神儒一致」が、勅語本文にも散見できる。栗田は、教育勅語の起草においても重要な役割を果たしていたのである。
 明治十九(一八八六)年十月二十九日、明治天皇は東京帝国大学を視察され、理科、医科、法科、文科各分科大学教室、実験室、寄宿舎、医院、図書館を御巡覧になられ、さらに理化学の実験及び各科授業も見学された。この視察の御所見をまとめて「聖喩記(せいゆき)」を謹記したのが元田永孚(もとだながざね)(東野(とうや))である。
 東野は、「理科化科植物科医科法科等ハ益々其進歩ヲ見ル可シト雖モ主本トスル所ノ修身ノ学科ニ於テハ曾テ見ル所ナシ」、「君臣ノ道モ国体ノ重キモ脳髄ニ之無キ人物日本国中ニ充満シテモ之ヲ以テ日本帝国大学ノ教育トハ云へカラサルナリ」と述べ、時の総理大臣伊藤博文や東大総長渡辺洪基らに反省と対応を求めている。
 そして、明治二十三年、ついに東野の長年にわたる努力が報いられるときが来た。同年二月、地方長官(全国知事)会議で、当時の学校教育を「知育を主として専ら芸術知識のみ進むることを勉め、徳育の一点に於ては全く欠く……軽躁浮薄の風、道義頽壌の勢」にある、と厳しく批判した「徳育涵養の議に付いての建議」が採択され、文部大臣榎本武揚あてに提出されるに至った。
 同年五月、内閣改造により芳川顯正が文部大臣に起用されている。親任式の席上、明治天皇は、芳川に対して「徳教のことに十分力を致せ」「教育上の基礎となるべき〝箴言〟を編め」との御沙汰を下された。山県首相と芳川文相は恐懼し、直ちに協議し、単なる「箴言」の寄せ集めではなく、進んで「教育に関する勅語」を起草することが決まったのである。
 東野の思想にも、崎門学、水戸学が流れていた。文政元(一八一八)年十月、熊本藩士の子として生まれた東野は、二十歳になると藩校時習館居寮生となり、塾長・横井小楠(しょうなん)の教えを受けるようになった。
 東野は、天保六(一八三五)年頃、久留米に真木和泉(まきいずみ)を訪ね、正志斎の『新論』を借り受けている。やがて、天保十四(一八四三)年頃(異説あり)、小楠、長岡監物(けんもつ)、下津休也(しもつきゅうや)、荻昌国(おぎまさくに)、そして東野の五人で講学を開始する。実学党の誕生である。東野の『還暦之記』には次のように書かれている。
 「長岡太夫史学ニ志シ、横井子、荻子及余ヲ招キ通鑑綱目(つがんこうもく)ヲ会読ス、大夫曾テ山崎(闇斎(あんさい)=引用者)浅見(絅斎(けいさい))二先生ヲ信ジテ経学ニ得ル所アリ、道徳忠誠之ヲ天資ニ得テ学ブ所最モ義理ニ在リ、但歴史ニ渉(わた)ラザルヲ以テ横井子ヲ延テ史学ヲ講ズルナリ」
 長岡が崎門学を信奉していたことが注目される。長岡は崎門学派の梅田雲浜とも交流があった。鎺に「赤心報国」と書かれた絅斎の長刀の所在を探していた長岡は、京都市左京区の葉山観音堂守小屋に住んでいた雲浜に使いを送っている。このことは、旧跡碑の碑文にも刻まれている。
 長岡に同調していた東野は、安政三(一八五六)年に『朱文公奏議選上下二巻』をまとめ、長岡と正志斎に贈っています。さらに、安政四年六月二十日付荻昌国宛書翰においては、評判の高い東湖の「回天詩史」を早く読んでみたいと書いている。
 もともと実学党は肥後藩の先儒大塚退野(たいや)・平野深渕の流れをくんだ朱子学を継承しようとしていたが、大塚は崎門正統派の西依成斎(にしよりせいさい)が師事した人物でもある。時習館には、成斎に私淑して崎門学を学んだ宮田壺隠(こいん)のような人物もいた。

■教育勅語と栗田寛の『神聖宝訓広義』
 教育勅語の起草に話を戻す。もともと水戸学の思想に傾倒していた東野は勅語起草においても水戸学の国体思想を意識していたと推測される。
 文部科学省「学制百年史」は「教育勅語は元田永孚の起草になる明治十二年の教学聖旨の思想の流れをくむものであるが、同時に伊藤博文や井上毅などの開明的近代国家観にもささえられ、両者の結合の上に成立したものといえよう」と位置づけている。
 ただ、文芸評論家の前田愛は、二十数次にわたる井上草案改稿の過程は、井上案を原案とすることをいったん承諾した東野が徐々に巻き返し、井上草案のいたるところに、天皇の帥傅としての意志と権威を、クサビのように打ち込んで行く過程であったと評している。こうして勅語は、東野の思想をかなり体現したものとして成り、そこには水戸学の思想が流れ込んだ。
 その過程で重要な役割を果たしたのが、栗田寛である。それを裏付けるのが、常盤神社禰宜を務めていた渡辺正順の手記である。
 「明治二十三年の頃と覚ゆ。官幣社の神職にて筥崎神社宮司葦津礒夫(葦津耕次郎の父=引用者)、阿波神社宮司穂積耕雲の両人が神祇官再興の遊説なりと称して、我が水戸に来遊された。此の時、別格官幣社常盤神社宮司は岡本正靖にして余は禰宜の職に在りき。葦津、穂積の両人は常盤神社を来訪し、談話の結果、当地の碩学栗田寛博士に是非面会して密談し度き事ありと。宮司禰宜は相談の上、之を栗田博士に紹介したりき。これ教育勅語渙発の下準備にして、内実は元田永孚の密旨を含み、之を栗田博士に伝へしなり。栗田博士は此の需に応じて、金鑑録なる一書を著して元田侍講に送付せり。これを数育勅語発布の関係となす。明治二十三年十月三十日、教育勅語換発せらる。栗田博士感奮措く事能はず、竊に余を招き、教育勅語奉読会を開かん事を勧む。余友人亀井善述と謀り、之を開会す」(北条重直『水戸学と維新の風雲』(東京修文館、昭和七年)
 では、ここにある「金鑑録」とはいかなるものであったのか。それを明らかにしているのが、『晦屋栗田翁夜話』だ。
 「官幣大社安房神社の宮司穂積耕雲と官幣大社香椎廟宮司葦津礒夫の両氏が、常盤神社宮司岡本正靖氏の紹介で、家厳(文学博士 栗田寛先生)を訪問された事があつた。……右両氏等のわざ〱水戸に来られたわけは、当時明治天皇の侍講であつた元田永孚氏の使者として、特に家を尋ねられたものであつた事を、あとで分つたのであります。 さて、その元田待講から、家厳に対して問はれた相談と申すは、先づ首として、我建国の大本碩の淵源につき、大日本史の精神其他、すべて学問上の方針等に関する事がらであつたのです」
 元田の求めに応じて栗田が著したのが「金鑑録」(『神聖宝訓広義』)であったことがわかる。残念ながら『神聖宝訓広義』は現存しないが、『晦屋栗田翁夜話』からはその輪郭がわかる。
 「本書は、皇祖皇宗の御遺訓たる斯道の大体を、古今の正史及び群籍に徴証し、我義烈二公を初め、水戸の先哲は勿論、天下諸大家の学説をも、苟くも事の名数に関するものは、洩れなく参訂捃撰して、学問の綱領ともあるべき事実を、詳細に叙述せられたもの」
 元田に栗田が示した『神聖宝訓広義』こそ、教育勅語起草で重要な役割を果たしたと考えれば、畏れ多くも教育勅語が発布された明治二十三年十月三十日の前日、明治天皇が常陸での近衛機動演習を臠(みそなわ)すため、水戸へ行幸されたこともまた偶然とは考えにくい。

■雨谷毅の『尊王民本主義』
 栗田寛は『神聖宝訓広義』を示して教育勅語起草に影響を与えるとともに、師弟教育によって水戸学の真髄を伝えようとした。明治七(一八七四)年頃には、水戸鷹匠町に私塾自彊舎を開設し、本格的に子弟教育に乗り出している。藩校弘道館の廃止後、欧米流の新教育に対抗し、水戸学の道統を伝えるためである。
 さらに、明治十三(一八八〇)年一月には水戸大坂町に家塾「輔仁学舎」を開設している。この家塾で学んだ人物こそ、水戸学の思想を復興させることで昭和維新運動の気運を醸成した雨谷毅である。
 雨谷は「尊王民本主義」こそが水戸学の神髄だと強調した。大正十(一九二一)年に著した『尊王民本主義 水戸学の神髄』(二鶴堂小倉出版部)では次のように述べている。
 「尊王は民本を俟つて始めて生命があり、民本は尊王を俟つて始めて精神がある。二者志津に不可分的関係の者である。……皇室も国民も元同一本(本支の分は儼なれど)のもので、君民一体と云ふ事実に根柢して居る事がそれである」
 昭和三年には、水戸学派にとって特別な年となった。水戸学の源流義公の生誕三百年を迎えたからだ。雨谷は同年三月に『水戸学の新研究』(水戸学研究会)を著した。「二編 水戸学と社会政策」において「経済組織の考察」の一章を割いて、資本主義の弊害について詳しく説き、国家資本主義はどの国においても正しく、効果のあるものではないと説いた上で、次のように主張した。
 「日本の如く真正の国家を本質とし、又個人主義的資本主義の悪弊甚だ深いものである場合に初めて、実行可能性と必要性とを生ずるものである。然らば日本に於ける国家資本主義の内容とは何か。その真の国家については岡井氏の論にも明らかなる如く王道的国家或は日本国体にもとづく国家である。換言かれば尊皇民本主義の本質に立つ国家である」

 さらに雨谷は次のように説いている。
 「我々は一方、真の国家を顕現せしむるに満腔の努力を払ふと同時に、他方その経済組織の欠陥を正すに全力を尽さねばならぬ、……深く世界の実勢を直視し、正義にもとづく国家資本主義を高揚し、内はその積弊を芟除すると同時に、国民生活の基礎を安定し、外は白人万能の利己的資本主義を制御する為に、諸アジア国家をもととする輩固なる自主的アジア経済聯盟を確立すべき時運の到来が左程遠は将来でない事を確信するのである」
 このように雨谷は、水戸学の思想に基づいて、経済や外交のあるべき姿を示していたのである。

■中央の愛国主義団体と連携した雨谷毅
 雨谷毅と息子の菊雄の水戸学再興運動が、青年将校、橘孝三郎率いる愛郷塾、井上日召率いる血盟団が結集する上で重要な役割を果たしていたことは、津田光造が著した『五・一五事件の真相』に示されている。
 〈血盟団と農民決死隊とを動員させたるも一つの大なる力は、実に水戸学研究会の創立とその強化拡大運動である。義公の精神たる尊王と農本主義の二大綱領を高く掲げて昭和二年から五年の八月頃まで大いに活動した。それがまた重大な刺激をあたへたものである。
 昭和三年の春『水戸学を再検討、再建せよ』との叫びが、心ある青年たちによつてあげられた。水戸には義公がゐる、義公は水戸の大なるほこり、名誉である、水戸学は尊王農本の大精神に立つて資本主義経済機構のもとにあとかたもなくふみにじられた日本を真に救ふものでなくて何か。水戸学を再検討し義公精神を再建せよといふ叫びは、つひに水戸学研究の権威として当時水戸彰考館長たる雨谷毅を中心として一ケ月数回の会合を持つに至り、会の名も新水戸学研究会とつけたのである。
 雨谷毅の息にして当時帝大文科に在学中の菊雄は父にもまさる水戸学研究家で、すでに早く一方の権威でもあつた。で、会の方はこの菊雄が牛耳り、父毅が後見役といふ形であつた。会員はそのころ十四、五名から二十名であつたであらう。
 その頃、北京革命に参加した杉浦省吾が郷里の水戸にかへり雨谷方に寄寓してゐたが、彼はこの新水戸学研究会を一躍街頭に進出せしめんことを同志にすすめ、印度の革命家ラス・ビハリ・ボースの紹介でもつて満川亀太郎を雨谷菊雄に紹介し、これをもつて中央の愛国主義団体との関係連絡を成立せしめることになつたのである。
(中略)
 昭和三年の春新水戸学研究会は街頭進出の第一声を県公会堂であげることとなり、峰田信吉が『義公について』、横山健堂が『義公の真価』、石川登が『立憲政治と義公』、高木清壽が『義公と社会的考察』、満川亀太郎が『義公の精神と社会維新』について講演するといふやうなプログラムであつた〉

■橘孝三郎との連携
 こうした水戸学再興運動こそ、橘孝三郎が求めていたものだった。実際、橘は『いはらき』新聞に昭和三年三月十三日~十七日に全四回にわたって「永遠なる義公」を掲載している。この連載は、山本直人氏、小野耕資氏によって発見され、『日本を救う農本主義』(望楠書房)にも収録されている。
 『五・一五事件の真相』には、橘と水戸学研究会同志との合流についても次のように書かれている。
 〈(昭和三年)八月の二十五日、義公に縁深き常盤公園内好文亭で小集会を催して中心同志の会合を行つたが、このときに水戸市外常盤村に兄弟村を建設し、農村の青年を熱心に指導してゐたのちに愛郷塾、農民決死隊を生んだその愛郷塾長の橘孝三郎が新たに出席し、水戸学研究会同志と橘とは完全に精神的提携合流をなし、意気大いにあがるものがあつた〉
 さらに水戸学復興運動は、井上日召が求めていたものでもあった。
 〈熱心な同志も集まるには集まつたが、といふてこの新水戸学研究会が一般社会の青年たちを動かすといふ程の力はまだ持つてゐないから、そこで何等かの方法によつてこれをより急速に一大発展強化せしめるの必要があつた。それがつひに会の創立一周年を経て四年の四月三日、県当局を動かして『日本偉人義公三百年祭講演会』となつた。このとき大洗の護国堂に同志と心をねりつゝ、何かしら時の到るのを待ちうけてゐた井上日召はこれをきくや双手をあげて大賛成、進んで研究会の運動に参加を申込んだばかりでなく、かつて秘書として世話を受けた陸軍中将貴族院議員坂西利八郎を説いて当日の講演に出場せしめた〉
 しかも、この義公三百年祭講演会は、昭和維新運動に火をつけるものでもあった。
 〈講演会がすむと水戸学復興会発会式が挙行され、従来の研究会は解消の形となつた。
 この会合は意味ある会合であつた。情熱の井上日召、理智の橘孝三郎、悲憤の藤井大尉この三人の心が固く進み寄つた。口田康信、満川亀太郎、雨谷菊雄、みんなみんな固い握手を交した。感激の会合であつた。そして『昭和維新』! この合言葉が集まつた四十余名の心から自然に、しかも熱烈な口調でもつてほとばしり出でたのである〉
 蹶起に至るまでには、さらに紆余曲折があり、その後水戸学復興会も分裂していくことになるのだが、水戸学の国体思想が、五・一五事件に参加する者たちを固く結びつける役割を果たしたことは間違いない。

■徳川斉昭(烈公)の侍医・本間玄調
 昭和維新運動と水戸学の関係を考える上で欠かせない存在が、頭山満翁の高弟・本間憲一郎である。本間は明治二十二(一八八九)年二月二十四日、古河藩士の父秋田重柔、母本間まさの二男として生まれた。まさの祖父は、徳川斉昭(烈公)の侍医を務めた本間玄調である。
 玄調は、江戸時代末期に全身麻酔による外科手術に成功した華岡青洲の高弟で、青洲の外科学を大成した。『瘍科秘録』などを著している。多くの人の命を救った玄調は、烈公から「救(すくう)」という称号を贈られている。
 憲一郎の甥の本間昭雄氏は家業を継いで医師を目指していたが、二十歳の時に医療事故で失明、視覚障害者の福祉を志し、昭和三十年に聖明福祉協会を設立、昭和四十四年には国内では唯一の盲大学生奨学金制度を設立している(本間昭雄「明治神宮と私」『代々木』平成二十八年夏号)。
 幼年期から憲一郎を兄のように敬愛していた昭雄氏は自ら編んだ『水藩本間家の人びと』に「本間憲一郎略伝」を収めている。そこには、「元来憲一郎は『水戸学』による思想体系を作りあげていたので、その至純な魂と行動は一貫性があり……」と書かれており、憲一郎が水戸学に基づいて昭和維新運動に挺身したことが窺われる。

 本間は茨城県水戸中学校を経て、明治四十四(一九一一)年に東洋協会専門学校(現在の拓殖大学)支那語科へ入学した。在学中に、陸軍通訳官(支那語)試験に合格し、第一次世界大戦勃発にあたり、同校を三学年で中退、陸軍通訳官として青島守備軍司合部に勤務することになった。
 大正五(一九一六)年五月、袁世凱の帝政宣言に反対する第三革命が勃発すると、本間は軍の特務任務に就いた。井上日召、前田虎雄を知ることになったのは、これがきっかけである。しかし、日本政府の方針変更に伴い、本間は特別住務を解任され、急遽大連に起いた。そして、興亜の先覚金子雪斎の振東学舎に入り、塾長としてその事業を助けている。
 大正八(一九一九)年には頭山満翁の秘書となり、頭山の提唱する日中提携論の実現に奔走した。大正十五(一九二六)年には、桜田義挙・高橋多一郎烈士の子孫の要請で、土浦市の八坂神社で「桜田烈士慰霊祭」が執り行うようになった。昭和三十四(一九五九)年九月に本間が亡くなると、本間の子息で、八坂神社宮司を務める本間隆雄氏がそれを引き継いだ。

■本間憲一郎・井上日召・橘孝三郎
 昭和元(一九二六)年頃から本間は、井上日召や橘孝三郎らと水戸に会合し、時局を分析していた。そして、昭和三(一九二八)年十月には郷里新治郡真鍋町に帰り、紫山(しさん)塾を開設する。当時の状況を「本間憲一郎略伝」は次のように記している。
 「その頃の日本の現実の姿は、憲一郎にとつて真に憂慮すべきものがあるとし、これを打破するためには、昭和維新を断行しもつて国論の統一を図り、さらに臣子道により一切を聖上に帰一し、聖旨を奉行せねばならぬという国民の思想涵養を目的に、水戸学講習の場としての紫山塾を開いたものである。開塾当日は頭山満翁、朝日奈知泉などの大先輩をはじめ、その思想に共鳴する多数の同志が参集し、盛況を極めた」
 政界・財界・官界の腐敗が進む一方で、農山漁村の困窮が極まる中で、本間は維新の断行へと邁進していく。
 〈紫山塾頭としての憲一郎は「兵農一体」となつて革新の火を、燃さねばならないとし、旧知の井上日召を盟主とする血盟団に深く同情し、実力行使による現状打破に援助を与えるとともに、他方かねて親交のあつた愛郷塾頭橋孝三郎にも、その行動を支援し、自らもその継続として、昭和七年(一九三二)の五・一五事件に関係したのであつた」

■水戸弘道館で開催された「救国懇談会」
 敗戦、GHQによる占領によって、維新陣営は自由に活動できなくなったが、昭和二十七(一九五二)年の「主権回復」後、愛国陣営団結の動きが高まっていく。その際にも、水戸学は重要な精神的支柱になっていたかに見える。
 昭和二十八年六月十三日には、愛国運動の大同団結を目指して、水戸弘道館で「救国懇談会」を開催され、本間憲一郎、橘孝三郎、大川周明、三上卓、中村武彦、片岡駿、影山正治らが参加した。
 『右翼運動要覧 戦後編』(日刊労働通信社編、昭和五十一年)によると、「救国懇談会」は本間・橘のラインで結集が進められていた関東、東北のグループが、勤皇発祥の地、水戸の弘道館において開催したと記されている。このように、「救国懇談会」は水戸学との関わりが深い本間、橘の主導により、水戸学ゆかりの弘道館で開催された。当日の模様を、笠木良明は次のように記している。
 「本間さんの開会の挨拶あり、司会者は青年にといふことに満場一致、本間さんに指名一任、直ちに中村(武彦)、三上(卓)、影山(正治)、塙(五百枝)、小沼(正)の五氏が司会者団として指名される。三上氏挨拶、団を代表して中村武彦君議事進行に当る事となり直ちに懇談にとりかゝる。……懇談会では敗戦の責任、反省、原因の探求に始り、雑多な問題に就いて自由に甲論乙駁が行はれた」
 笠木によると、講演会では、橘が「国家の前途と水戸学の前進」、大川周明が「憲法破棄論」と題して講演した。橘の講演について笠木は次のように振り返る。
 「橋さんは自立安定経済樹立の急務、農は国本である事、米ソ共に日本の掌握に一生懸命である。今は勢力伯仲でも、日本を支配するや否やに依つて二大強国の重さの天秤が天地の如く狂う、而も狙はれて居る日本自体は無自覚千万にも二大強国の何れかへの一辺倒に忘我逆上の醜体を演じて居る。全くの奴隷根性! 貿易に依存する如きは空想である。食糧大増産の計も立つて居るから早急に茨城県下に全力を注ぎ模範地区を打成すべく全国同志の注視と合力を得、一善一切善で又それを続々全国各地に実践せしむる為互助の大勢力を払う決意である等々、其他有益なる体験談、世界的視野よりする政治、経済上の見通しの数々もあつた」(『笠木良明遺芳録』)
 本間は昭和三十四(一九五九)年九月十九日に亡くなっている。歿後五年目となる昭和三十九年十月十九日、東京虎ノ門の船舶倶楽部で「本間憲一郎先生五年祭」が執り行われ、小冊子「本間憲一郎先生の面影を偲ぶ」が参列者に配布されたという。

坪内隆彦