平成30年4月、久留米水天宮内の真木和泉守記念館を見学、真木自筆の原稿や遺品などから、改めて楠公精神を体現した真木の生涯を思い起こした。
湊川神社社報『あゝ楠公さん』第10号巻頭に掲載していただいた拙稿「楠公精神を体現した真木和泉」の一部を引く。
〈真木は、文化十(一八一三)年に久留米水天宮祠官、真木旋臣の子として生まれ、若き日に宮原南陸の子桑州に師事した。南陸は絅斎門人の合原窓南に学んだ人である。
郵政大学校副校長を務めた小川常人は、真木の学問には絅斎、強斎の思想が流れていたと推測されると書いている。真木が、絵本楠公記を読み、強く楠公に心服していったのも、若き日に崎門の学にふれていたからであろう。
むろん、真木の学問の中心をなしたものは水戸学である。弘化元(一八四四)年に水戸遊学を許され、真木は四度にわたり会沢正志斎を訪ねている。真木は弘化四(一八四七)年五月二十五日から毎年楠公祭を営み、喀血した時も止めようとはしなかった。
その十三年前の天保五(一八三四)年、正志斎は国民が祀るべき祭日を挙げ、その意義を解説した『草偃和言』を著していた。そこで楠公湊川戦死の日である「五月二十五日」を挙げ、次のように書いていたのである。
「楠氏の子孫、宗族、正行、正家、正朝、正高等を始として、相踵て義に死し、命を塵芥よりも軽くして、忠烈の気、天地に塞る……されば貴賤となく、此日に遇うては、殊に同志の友をも求めて、相共に義を励し、其身の時所位に隨て、国家に忠を尽さん事を、談論思慮して、風教の万一を助け奉るべき也」
真木が楠公祭を開始した直接的な理由は、この正志斎の言葉にあったのかもしれない。
彼は、嘉永五(一八五二)年に久留米藩の藩政改革を企てて失敗、謫居を命じられた。その場所が久留米郊外の水田天満宮の神官である実弟大鳥居啓太方の住居山梔窩だった。ここで真木は自らの思想を練り、やがて平野国臣らの志士と討幕の方策を検討するようになる。安政五(一八五八)年には、討幕の戦略書として『大夢記』を著し、文久元(一八六一)年十二月には、討幕の具体策として『義挙三策』を書き上げている。
その三カ月前、真木が遺書として書いたのが、「何傷録」である。冒頭に「楠子論」を掲げ、さらに「楠子の一族、三世数十人、一人の余りなく大義に殉死せられしこと、大楠公の只一片の誠つき通りて、人世の栄辱などは、塵ほども胸中に雑らず」と、楠公精神を称えた。そして、十年の謫居を余儀なくされ行動できなかった自らの心情を吐露し、今や身を挺する覚悟を綴り、次のように一族に訴えかけたのである。
ゆめ吾子孫たるもの楠氏の三世義に死して、心かはらぬあとな忘れそ
常に「櫻井の決別」を期していた真木は、楠公祭に一家一族を出席させ「たらちねの父を恨むることあらば 楠の木蔭の草つみて見よ」と、口誦さんでいた。楠公一族を慕う真木の魂は、その家族の心に浸みわたっていたのである。
文久二(一八六二)年二月十二日、ついに山梔窩脱出を決意した真木は、十年ぶりに再会した妻睦子、娘小棹と永別の面会をした。このとき、小棹がはなむけに詠みあげたのが、次の一首である。
あづさ弓 春はきにけり ますらをの
花のさかりと 世はなりにけり
二月十六日、水田を脱出した真木は、薩摩を経て四月二十一日に大阪に入った。そこで彼は、有馬新七、田中河内介らとともに佐幕派の関白九条尚忠、所司代酒井忠義殺害の計画を立てる。
有馬も真木と同じように楠公精神に殉じようとしていた。有馬はわずか十四歳にして崎門学を学び始め、天保十四(一八四三)年には江戸に下って崎門派の山口菅山の門で学んでいる。この時代に彼は、室鳩巣の楠公論を激烈に批判した『楠公論廼弁』を著している。
真木らは酒井忠義殺害を企てたものの、計画が事前に発覚、寺田屋の変で有馬は斃れ、真木は久留米に護送され、再び幽囚されてしまった。このとき真木の赦免を働きかけたのが、尊攘派公卿の中山忠光、長州藩毛利公、久留米藩から津和野藩を襲いだ亀井茲監らであった。
身をもって完成した楠子論
文久三年二月、真木は赦免された。この頃から長州藩を中心とする尊皇攘夷派の勢いが強まっていく。各地の尊攘派志士が京都に集結、朝廷内においても三条実美らの力が強まった。六月になると、真木は学習院に出仕するようになり、朝廷に影響力を持つようになった。
こうして、尊攘派は天皇による攘夷親征の実行(大和行幸)を企て、八月十三日に大和行幸の詔が発せられた。これに危機感を抱いた薩摩藩・会津藩を中心とする公武合体派は、中川宮朝彦親王を擁して朝議を覆し、長州藩と尊攘派公卿を朝廷から追放したのである。これが、「八月十八日の政変」である。真木は、七卿(三条実美、三条西季知、東久世通禧、壬生基修、四条隆謌、沢宣嘉、錦小路頼徳と共に長州へ逃れた。八月十九日に京都を脱出、二十一日に湊川に立ち寄り、楠公の墓前に額ずき勤皇の誠意を訴えている。そして、二十七日に周防三田尻のお茶屋の一角「招賢閣」に入った。
招賢閣を拠点とした真木は、文久三年十月、『出師三策』を著して、武力による朝廷奪回を主張した。翌元治元(一八六四)年一月三日、真木は尊攘派志士に対して「三田尻招賢閣掲示」で日課を示し、栗山潜鋒『保建大記』、浅見絅斎『靖献遺言』、会沢正志斎『新論』の講習を命じている。同年五月二十五日の楠公の命日には、三条と東久世の申し合わせによって、山口市郊外湯田の高田館で楠公祭が執行され、真木、久坂玄瑞らも参会している。
同年七月、真木は、久坂玄瑞、来島又兵衛らとともに浪士隊清側義軍の総管として長州軍に参加した。弟の外記は忠勇隊隊長となり、四男菊四郎もまた従軍した。
ただ、勅命によって入京を禁じられている真木が挙兵上京を策することは、謀反となる危険性があった。しかし、真木は、弘化三(一八四六)年に初めて海防厳戒の勅が幕府に下されて以来、大和行幸の発令に到るまで、孝明天皇のご意志は常に攘夷にあったはずだと信じていた。そして、八月十八日以後の勅令は、中川宮を中心に会津・長州両藩が天皇の真の意志を遮り、矯めた結果なのであり、一刻も早く君側の奸を払わなければならないと考えた。
小川常人は、真木が謀反と呼ばれるのを免れないと考えたからこそ、自らの信ずる尊皇の行為に対する正邪の弁別を後世の歴史に待つべく、上京前すでに死を覚悟し、「躊躇なき見事な死を以て己の志操を立証」しようとしたと書いている。
七月十九日、ついに真木らは堺町御門を目指して進軍した。しかし、福井藩兵などに阻まれて敗北(禁門の変)、久坂と来島は自決した。
真木は、天王山へ退却したものの、長州へ敗走することを拒否し、七月二十一日、同志十六名とともに自刃、天王山の露と消えたのである。弟の啓太、加賀、外記、子の主馬、菊四郎、そして甥の大鳥居次郎ら、真木一族の男子は、楠氏一族のように挙って維新の大業に殉じようとした。天朝に命を捧げることが、真木一族全体の志だったのである。
小川は、「かくの如く一家一門子弟に至るまで偉大な一つの志に結集し、揃つて難に向つて進んだ有様は他に殆んど類例のない見事なもので確かに楠氏一族の活躍を幕末に復活したものと申すべきであらう」と評している。
真木の天王山自刃の連絡に接した娘小棹は、けなげにも「とゝ様の打死悲しくは候へども、皇国の御為と思へばお互ひにめでたく……」と口にした。
平泉門下の鳥巣通明は、「和泉守が、楠公に仰ぎ見たのは、その赫々たる勲功よりは、むしろその至純の忠誠であり、事の成敗を超越し、一族をあげて皇統護持の業に殉じて、毫もかへりみなかつた点であつた」ととらえ、この小棹の言葉によって、真木が身をもって書こうと願った楠子論は、見事に完成したのだと称えている。〉