三、エコロジーに適合した消費の思想
 「万物は天御中主神に発する」という皇道経済論の考え方は、物の運用、管理、消費の仕方について独特の考え方をもたらす。一切のものを大切にし、無駄なく完全に活かしきるのである。
 例えば、岡本廣作は、日本国民は「大君のおんもの」である財産を、上御一人の御仁慈に応えるように活用しなければならないと説いた[i]
 無駄なく完全に活かしきるとは、それぞれの「勿体」(もったい)を活かすことにほかならない。「勿体」とは、もともと仏教用語で、その物の本体、価値などを表している。万物に価値、存在意義があり、それを活かし切ることを重視することを意味している。つまり、「もったいない」とは、そのものの価値を完全に活かしきれていないことをいう[ii]
 皇道経済論では、本来の消費には、物質的充足にとどまらない、より高次元の目的があると考える。佐藤信淵は、万物は人間が人間としての道徳を修成するための養料であり、私欲のために浪費されるべきではないと主張した。また、古神道家の友清歓真から強い影響を受けた高橋輝正もまた、消費とは、人間の側からすると根源的生命との一体化であり、物の側からすると、低次の生命が高次の生命へ生成する過程であるとし、人間は消費によって根源的生命と合体し、絶対者の意志を遂行し得るという[iii]
 皇道経済論の消費は、万物を活かしきることに徹している。『農本維新論』を書いた佐藤慶治郎は、人馬牛の大小便はもとより、塵芥、雑草、枯葉のはてまで、一切万物皆天地の賜であり、捨てるべきものは何もないと書いている[iv]
 大国隆正は、「亀卜」の区象(マチガタ)に古神道の祓詞「トホカミエミタメ(吐普加身依身多女)」を対応させ、霊学的に稲と人間の循環を把握し、万物が万物の役に立っていると説いた。
 大国によれば、「卜」は処で、人の立つところで、稲を植える所である。「ヱミ」は稲のゑみわれて、芽を出すところ。「ホ」は秋になって穂となるところ。「カミ」は身の上(カミ)の頭に口があって、稲を噛む。噛み砕いて腹に入り、その精液は腎に収まって、その血液は心(シン)に入り、心を出て骨肉皮毛の闕耗を補う。その糟は大小腸に入って下る。稲の実は人に噛まれて人の身を肥やし、その大小便は、稲の根にかけて稲の肥やしとなる。こうした天地自然の循環を大国は説いているのである[v]
 そして、穂は人の「ため」になり、その糟は稲の「ため」になるとし、「『タメ』といふことばのその中にあるは、このことわりとしるべきなり」という。つまり、万物が万物の「ため」に存在していると説いたのである。
 こうした主張は、エコロジーに合致した考え方であり、いま環境省などが強調する「循環型社会」といった考え方を先取りしているとも言える。
 「天の恵みをありがたく頂戴する」という発想は、自然との共生の色彩が強い。
 前出の田崎仁義は、農業をして穀物や野菜を主として食べて生活している日本などは、「順の生活」をしているという。ここでいう「順の生活」とは、順序に誤りがない、自然の摂理に則った生活のことを意味している。これに対して、獣を殺して食べて、獣の乳を奪い取って飲み、獣の皮を剥いで靴や着物にしたりするような民族というものは、「逆の心」を持っていると、田崎は主張した。
 出口王仁三郎の発想もまた、「順の生活」に徹していた。彼は、獣を殺すことに象徴される人間による動物支配、自然支配の発想に基づいた消費を嫌悪していた。彼が、洋風の生活を批判したのは、まさにその本質が人間中心主義だと考えたからであろう。「大正維新に就て」では、「現在世界的文明の服装として、国民が競つて使用せる洋帽に、洋服に、洋傘に、洋靴の如きは実に実に非文明的野蛮を標榜したる獣的蛮装である」と述べ、それらの洋装の材料が残忍無道を敢行して調達された産物だからだと指摘している。彼は、濫りに動物を屠殺して食糧とすることを批判したばかりか、土地に生える野菜や穀物の生育を妨害するという理由から、宏大雄大を極めた邸宅を厳しく批判していた。



[i]岡本廣作『日本主義経済新論』増進堂、昭和十九年、一三九頁。
[ii]「仏教経済学への道」四一頁。
[iii]高橋輝正『皇道経済論』奉天大坂屋號書店、昭和十七年、四四、四五頁。
[iv] 佐藤慶治郎『農本維新論』平凡社、昭和十三年、二〇〇頁。
[v] 『本学挙要』(『日本思想大系 五〇』岩波書店、昭和四十八年)四一四頁。
坪内隆彦