〈本居宣長は、強いて神の道を行おうとすると、かえって「神の御所為」に背くことになると主張していました。『玉勝間』においては、中国の古書はひたすら教誡だけをうるさく言うが、人は教えによって善くなるものではないと書いています。これに対して、水戸学の会沢正志斎は次のように批判しました。
「仁政の要を知らざれば、人の上たること能はず、臣として君徳を輔佐すること能はず、義を知らざれば、元弘、延元の世の如きにも、去就を誤る類のものあり。礼を知らざれば君に事へ、人に交るに敬簡の宜を得ず、譲を教へざれば争心消せず、孝悌、忠信を教へざれば、父母に事へ、人と交て不情の事多し。多人の中には自然の善人もあれども、衆人は一様ならず、教は衆人を善に導く為に施す也」
水野雄司氏は、「皇統の正しくましますことも、其実は天祖伝位の御時よりして、君臣父子の大倫明なりし故なることを論ぜざるは、遺憾と云べし」という正志斎の宣長批判は、記紀から読み取れる「皇統の正しくましますこと」という史実(「事」)から、「君臣父子の大倫」という「教」を論じない、読み取らないことへの批判だと書いています。
この国学と水戸学の対立は、日本精神発揚において両者が果たした役割の違いとも絡みます。高須芳次郎は、皇道精紳に基本を置いて、純日本文化を築きあげる事に主力を置いた国学運動は、(一)古代理想主義の宣揚、(二)古代文学・特に万葉鼓吹、(三)復古神道の提唱、(四)古代文献の開拓、(五)史学上の展開、(六)国文学の新研究、(七)神社制度の研究、(八)排儒・排仏・排俗神逍となって、その特色を発揮したのに対して、皇道発揚に主力を注いだ水戸学は、(一)『大日本史』による大義名分論の力説、(二)尊皇攘夷主義の高調、(三)神儒調和、(四)宗教界の廓清、(五)政治・経済上の改革、(六)儒教の闡明、(七)弘道館創設による国民道徳の樹立、(八)排仏・排耶・排俗神道などとなって、その本領を発揮したと整理しています。その上で、次のように両者の補完関係を捉えました。 「水戸学は、国学と提携すべきもので、衝突すべきものではない。何れも、日本精神運動で、その全面的な拡大・強化を為すには、文学・宗教のみならす、史学・教育・政治経済方面にも、日本精神を滲透しなければならない。この意味からすれば、国学の手の伸びないところは、水戸学において補ひ、水戸学の手の及ばぬところは、国学において補つてゐる」〉