「興亜」カテゴリーアーカイブ

東和洋行─吉島徳三夫妻が創業

 「興亜の歴史を上海に見つける」②─『上海歴史ガイドマップ』で紹介した東和洋行について、陳祖恩著・大里浩秋訳『上海に生きた日本人―幕末から敗戦まで 近代上海的日本居留民(1868‐1945)』に説明がある。同書によると、東和洋行は、一八八六(明治一九)年に、鉄馬路(今の河南北路)と北蘇州路が交わる辺りに開業した。創業したのは、吉島徳三夫妻である。
 初期の上海の日本旅館は、日本人商人や旅行者に宿泊の便を提供するとともに、上海で売春をしていた日本人娼婦に、売春のための場所を提供していた。こうした中で、東和洋行は『上海新報』一八九〇(明治二三)年十月に告示を出し、「醜業婦」の宿泊を拒絶すると宣言し、さらに、「御婦人にては、御夫婦達の外は、相当の御添書にても有之の外、あいまいなる婦人は一切御断申す事と致候」と声名した。
 これを機に、上海日本人社会における東和洋行の知名度は急速に高まっていった。

西本省三「論語と労資問題」より(『支那思想と現代』)

東洋諸国の「君臣の義」
〈元来欧米政治の弊は其尚ぶ所権利に在り、其奨する所又武力的及経済的帝国主義に在る、而して之に物質文明の偏重を以てせる弊を加へて居る、故に君、臣を使ふるに礼を以てし、臣、君に事ふるに忠を以てし、上下の間に礼儀を以てする様な東洋諸国の国柄とは自ら其趣きを異にして居、即ち上下権利を以て相売るの弊ある欧米と、上下礼儀を以て主とする東洋とは自ら其趣きを異にして居る、欧米が過去に於ける貴族の強権より平民階級を解放し得たにも拘らす、今日貴族の強権と変らない資本主義が代りて生れた以上、礼儀なき彼の国上下に、人理を立てしむるの容易ならざる怪しむに足ない、即ち資本主義に対する労働者が衆力を恃むで貧を疾み、労資問題を醸し、更らに過激派の跋扈を来す様になつたのは、勢ひあり得べき儀で、各国が何れも此両者に困るのは又決して怪しむに足りない〉

美風善俗の逸却
 〈更らに重要なるは民国以来十三経二十四史を熟読もせず、上下礼儀を以てせる其美風善俗を逸却し、礼儀を窮窟に感ずる様になつた結果に由るのであらう、随つて真の過激派とも云へない、要するに支那には礼儀が形式に流れ、其実を失し、其弊に絶へない点があるのは、固より否むのではないが此弊があるからとて、天理の節文、人事の儀則たる礼は人類社会を維持すべき自然力で、トテも人為的に之を無にすることは出来ない、此礼儀ある国柄に向つて労資関係を悪化せしめんとする政客青年は、或は自滅の期を早める結果になりはすまい歟。〉
(大正9年2月2日)

西本省三「道と器」より(『支那思想と現代』)

政治の自然に帰れ!
〈支那の文明が退歩し、或は停滞しつゝあるは、政治の自然に基づかずして三代以後、唯統治者の私意に支配されたが為めに文明の進歩と発達を人為的に阻害し杜塞し、世界の大勢に時代後れとならしめたのであつて、文明其者は希臘羅馬以上、即ち欧米文明の淵源たる文明以上の文明的大本が四億万民族の心理中に潜勢カとなつて居る〉
(大正9年1月26日)

西本省三『支那思想と現代』(春申社、大正10年)目次

 以下は、西本省三が大正10年に刊行した『支那思想と現代』の目次。
 道と器
 論語と労資問題
 礼教の国
 徳の力
 大春秋と小春秋
 之を如何、之を如何
 支那の所謂新思想
 支那の領土問題
 人気取り政治
 黄梨洲と王船山の学生論
 支那の知識労働階級
 鄙夫患夫の語と現代
 学ばざるの黄老家
 愿民と傲民
 民心即ち天心
 支那の民本思想
続きを読む 西本省三『支那思想と現代』(春申社、大正10年)目次

西本省三と忠臣・鄭孝胥

 戦前の興亜論を再考する上で、孫文支持派と一線を画した清朝復辟論者の存在に注目する必要がある。その中心人物の一人が西本省三である。
 明治10(1877)年に熊本県菊池郡瀬田村で生まれた西本は、中学済々黌(現在の熊本県立済々黌高等学校)卒業後、東亜同文書院で教鞭をとった。
 西本は、清朝遺臣の鄭孝胥と交流するとともに、同じく清朝遺臣の沈子培に師事し、清朝復辟論を唱えていた。辛亥革命後の大正2(1913)年には、鄭孝胥、宗方小太郎、島田数雄、佐原篤助らと上海に春申社を設立し、『上海』を創刊する。西本は同紙上で、清朝復辟を唱え、孫文の思想を「欧米直訳思想」と批判していた。昭和2(1927)年夏に西本は病のために郷里熊本に帰国、再び上海の地を踏むことなく翌28年5月に死去した。
 一方、鄭孝胥は溥儀の忠臣として人生を全うした。1912年に溥儀は退位宣言をし、1924年には紫禁城を退去したが、鄭孝胥は忠臣として付き従った。鄭孝胥は1932年、満州国建国に伴い、初代国務院総理に就任した。
*写真は鄭孝胥

「興亜の歴史を上海に見つける」②─『上海歴史ガイドマップ』

 『上海歴史ガイドマップ 増補改訂版』地図編13「虹口」には、松崎洋行、東和洋行をはじめとして、日本人ゆかりの場所が記されている。
 地図の左下、蘇州河に架かる河南路橋付近の「河浜緑賓館」の一角に「東和洋行」と赤字で記されている。ここは、日本人経営のホテルで、金玉均が暗殺された場所。
 また、飄鷹大酒店の北側に松崎洋行と記されている。ここは辛亥革命の最中に、北一輝が拠点としていた日本旅館である。

「日支提携の先鋒たらしめん」馬場鍬太郎(東亜同文書院第18期旅行記念誌序文、大正10年5月)

 東亜同文書院生の卒業旅行とはいかなるものであったのか。彼らに期待されていたものは何だったのか。藤田佳久『東亜同文書院 中国大調査旅行の研究』(大明堂、2000年4月)には、書院教授・馬場鍬太郎が第18期旅行記念誌(大正10年5月)に寄せた序文が引かれている。
 〈凡そ生を人生に享くる者其時と所を問はず人類文化発展の大業に参し、身に応じ、分に従ひて努力するの覚悟あるを要す。吾人が支那大陸の開発経営に資するに当たりても亦文明の潮流時勢の要求に順ひ、物質的及精神的両文化の円満なる発達を期待せざるべからず。然るに我が邦人の真に支那を解するもの極めて少なく、支那と言へば直ちに荒寥たる僻陬を連想し、或は一獲遺利を拾ふに適すと思意する者比々皆然り、之れ固より、不究者自身の罪たりと雖も一は亦我邦に於ける調査研究基幹の寂寞たりしに帰せずんばあらず。
 惟ふに支那に関する邦人の研究は日支両国の関係上頗る古くより行はれ、殊に近時に至りて著しき高潮を呈し学者、政治家、実業家等職業階級を通じ相競ひて之が研究に遅れざらん事を勉むるに至れり、然れども其範囲未だ漢籍の外に出です、或は西人著書の抄訳により、その糟糠を甜むるに止まる。
 千言満語口に日支親善を唱へ、唇歯輔車、日支共存を論ずるも其実の挙がらざる寧ろ当然なるべく、今や更に具体的日支親善案の論議を見るに至れり。
 然るに支那研究の道程如何、固より一言にして尽し得ずと雖も親しく風俗、習慣、物情、民意の機微を究め人心の趨帰を察し支那は謎題なりとして不究の罪を糊塗せんとする従来の弊習を打破するにありて其第一着手としては須らく先ず地理の研究に起り、親しく其地の視察調査に志を要す。
 松陰先生の所謂「地を離れて人なく、人を離れて事なし、人事を論ぜんと欲せば先ず地理を審かにせざるべからず」所以爰に存す、我が東亜同文書院夙に見る所あり、毎夏上級学生を十数班に分ちて禹城の南北を周游せしめ、親しく地理、人情、習俗の機微を究めて日支提携の先鋒たらしめんとし、よく支那事情研究の資料を蒐集して剰す所なし。
 昨夏第十八期生を分つこと二十、三伏の溽熱を冒し、足跡本部十八省に遍ねく更に内蒙、東三省に及ぶ、昿漠険阻の地を過ぎ、艱苦欠乏の厄に耐へ、長途或は魂を驢騾の孤鞍に驚かし夜半夢を木舟の中に破り、旅宿孤燈の下に視察を随記し帰来編して紀行成る。
 予書院に職を奉じ旅行計画の任にあること年あり毎夏各地を巡游するに当り親しく各班辛苦の実況を目撃し私かに感激の意に不堪、聊か感想を舒べて序に代ふ〉

東亜同文書院卒業生と主体的外交思潮

 GHQによる占領、東西冷戦勃発を経て、わが国が対米追従外交を強めていく中で、主体的な外交や貿易を模索する思潮は辛うじて継続していた。
 それを支えた一因が、戦前派の指導者の存在だったが、東亜同文書院卒業生の活躍も無関係とは思えない。代表的な東亜同文書院卒業生を分野別に挙げる。

マスコミ
 田中香苗(毎日新聞社長)
 山西由之(東京放送社長)
 長岡村大(テレビ高知社長)
 伊藤喜久蔵(東京新聞論説委員)
 大西斎(東京朝日新聞論説委員室主幹)
続きを読む 東亜同文書院卒業生と主体的外交思潮

「興亜の歴史を上海に見つける」①─『上海歴史ガイドマップ』

 
 「興亜の歴史を上海に見つける」。そんな願望に応えてくれる本を、ようやく発見した。首都大学東京教授の木之内誠氏が著した『上海歴史ガイドマップ 増補改訂版』(大修館書店、2011年12月)だ。
 「BOOKデータベース」には、〈上海の主要街区の過去と現在を地図に表した「地図編」と、歴史的建築や観光スポットなどの名所旧跡等、823項目を解説した「解説編」で構成される〉と書かれている。
 まずは、東亜同文書院の場所を確認した。
 地図編26「新華路」の交通大学駅南に「東亜同文書院 1937-1945」と表記されている。
 現名は黒、歴史的名称(1949年以前)は赤、歴史的名称(1949年以降)は緑で書かれているのだ。

「志士のみが志士を作り得る」(望月重信大尉)─フィリピン解放の瞬間

 大東亜戦争はアジア解放の聖戦だったのか。開戦後、米軍を駆逐したフィリピンの現状を直視した望月重信大尉が放った言葉は、大東亜共栄圏建設の理想と現実を抉り出す。
 皇道を体現した望月大尉のことを筆者が初めて書いたのは、『月刊日本』2006年12月号でアルテミオ・リカルテを取り上げたときのことである。
 2013年5月22日には、靖国神社正殿で「望月重信師永代神楽祭」が執り行われた。ここには、望月大尉の故郷長野の太平観音堂の藤本光世住職をはじめ、大尉とご縁の深い方々が参集した。その関係者から貴重な資料をお預かりした。望月大尉祖述(太平塾生・法子いせ謹記)の「死士道 国生み」である。そこには、アジア解放の持つ途轍もなく重い意味が示されていた。
 大東亜戦争開戦後、日本軍は米軍を放逐しマニラ市に上陸した。アメリカ陸軍司令官のダグラス・マッカーサーはオーストラリアに逃亡、1942年の上半期中に日本軍はフィリピン全土を占領した。陸軍宣伝班に所属していた望月大尉は、1942年末に、フィリピンを支える国士を作りたいと決意し、マニラ南方のタール湖周辺の保養地タガイタイ高原に、皇道主義教育の拠点「タガイタイ教育隊」を設立した。そして、1943年10月14日、フィリピンでは日本軍の軍政が撤廃された。この瞬間について、望月大尉は次のように述べている。
 「新比島の国旗がするすると掲げられた。如何に多くの志士がこの荘厳なる刹那の為に血を以て戦ひ続けた事であるか。又この為にこそ如何に甚大なる皇軍将校の尊い犠牲が支払はれた事であるか。
 吾等の眼は間隙の涙にむせんで最早国旗をまともに仰ぐ事が出来なかつた」 続きを読む 「志士のみが志士を作り得る」(望月重信大尉)─フィリピン解放の瞬間