「若林強斎」カテゴリーアーカイブ

栗山潜鋒『保建大記』と華夷の弁

 華夷の弁(内外の別)は、山崎闇斎─浅見絅斎─若林強斎と続く崎門学正統派が強調してきたことだが、これは栗山潜鋒の『保建大記』に明確にしめされている。
 同書後半で、潜鋒は次のように書いている。
 〈臣愿曰く、華夷何の常(つね)か之れ有らん。華にして夷の礼を用ゐれば、則ち夷なり。夷にして華に進めば、則ち之を華にするは、古の制なり。〉
『保建大記』を解説した『保建大記打聞』で、谷秦山のこの箇所について次のように書いている。
 〈華夷と云に、何の定りが有んや。孔子春秋の法、中国と云国も、夷狄の作法を用れは、すぐに夷狄とあしらひ、夷狄とあしらふ国も、中華の道にすゝめば、中華とあしらふ。是が古の法也。何釘づけの華夷あらんや。○韓文、原道に曰く、孔子之春秋を作れるを云也。諸侯夷礼を用いれば、則之を夷にす。夷にして中国に進めば、即ち之を中国にす〉(漢文は書き下し、カタカナはひらがなに改めた)

近藤啓吾先生に見る崎門の学風①

 山崎闇斎─浅見絅斎─若林強斎と伝わる崎門学正統派の直系である近藤啓吾先生は、松本丘氏の『尚仁親王と栗山潜鋒』を評して次のように書いている。
 〈余は今日の学風、みな考証考古の精密を求め、歴史を作り上げた「人」の心への沈潜をせず、その上、新しき資料の発見や新しき解釈の樹立のみを競ひ、古人の人間たりしことを忘却してゐる風潮を慨してゐたが、松本氏はこの世風を追はず、そのどの論考を見ても、その対象としてゐる先人の心に沈潜し、それによつて得たところを率直に筆せんとしてゐる〉(『紹宇文稿』165頁)
 ここには崎門の学風を明確に表されている。

坪内隆彦「『靖献遺言』連載第7回 崎門学派の志と出処進退」(『月刊日本』平成25年6月号)

御用学者・林羅山
 慶長十(一六〇五)年四月、若き林羅山は徳川家康と初めて対面しました。二度目の会見の際、家康は羅山に「後漢の光武帝は漢の高祖の何代目であるか」、「前漢の武帝の返魂香(伝説上の香)はどの書に出ているか」、「屈原の愛した蘭の品種は何か」と尋ねました。羅山はいずれの質問にも正しく回答しましたが、これらの質問は儒学の本質と関わりのない愚問です。
 『林羅山』を著した堀勇雄氏は、「この難問・愚問はこの後の家康と羅山との関係─聖賢の道を求める師と弟子との関係ではなく、学問知識の切売りをする雇傭関係を表徴するといえる」と書いています。
 さらに、堀氏は、家康は天下の覇権を握り政治を行うために、羅山の該博な知識を利用しようとしただけであり、いわば百科事典代わりに羅山を側近に置こうとしたのであると書いています。
 当時、幕府の官職に儒者を登用した先例はありませんでした。そこで、家康は羅山を僧侶の資格で登用することにしたのです。慶長十二年、羅山は家康の命によって剃髪し、名を道春(僧号)と改めました。堀氏は「廃仏を唱える羅山が剃髪したのは、聖人の道を行おうとする実践的精神を放棄して、単に博学と文才を売物とする職業的学者の立場を選んだことを意味する」と批判しています。家康に取り入った羅山は、家康の権力によって収集された貴重本の充満した書庫を管理するようになり、慶長十五年には幕府の外交文書を起草するようになりました。 続きを読む 坪内隆彦「『靖献遺言』連載第7回 崎門学派の志と出処進退」(『月刊日本』平成25年6月号)

坪内隆彦「『靖献遺言』連載第3回 死生利害を超えて皇統守護の任に当たる」(『月刊日本』平成25年2月号)

対外的危機意識が生んだ国民的自覚と伊勢神道
 日本的自覚、国体への目覚めのきっかけは、対外的危機認識の高まりと密接に関わっています。本連載第二回(平成二十四年九月号)でも、永安幸正氏の主張を援用しながら、隋唐国家の膨張期(五八一~九〇七年)に続く、第二の危機の時代として蒙古襲来の時代を挙げました。文永の役(一二七四年)、弘安の役(一二八一年)と二度にわたる蒙古襲来こそ、日本的覚醒の大きな引き金となり、神道思想においても一大転換をもたらしたのです。
 その象徴が伊勢神道の台頭です。それまで、わが国では仏教優位の神道思想が力を持っていました。その有力な思想が、「日本の八百万の神々は、様々な仏が化身として日本の地に現れた権現である」とする「本地垂迹思想」です。仏を主、神を従とした本地垂迹思想に対して、神を本とし仏を従とする教理を体系化したのが、伊勢神道(度会神道)だったのです。
 久保田収氏によれば、伊勢神道には密教や老荘思想も吸収されてはいますが、鎌倉新仏教の台頭や、蒙古襲来という未曽有の国難から、神道の宗教的立場と国民的自覚を明らかにする主張が盛り込まれました。
 伊勢神道の「神道五部書」(『宝基本記』、『倭姫命世記』、『御鎮座次第記』、『御鎮座伝記』、『御鎮座本記』)は心身の清浄を説き、正直の徳を神道の主要な徳目として強調しました。ここでいう「正直」は、現在我々が使っている意味とは異なり、「神から与えられたままの清浄潔白な姿」を意味します。 続きを読む 坪内隆彦「『靖献遺言』連載第3回 死生利害を超えて皇統守護の任に当たる」(『月刊日本』平成25年2月号)

若林強斎『自首』


2013年8月24日(土)、同志の折本龍則氏(『青年運動』編集委員、崎門学研究会代表)と、近藤啓吾先生のお宅にお邪魔しました。その際頂戴したのが、若林強斎『自首』のコピーです。
自 首
不孝第一之子若林自牧進居、
亡父ニ事ヘ奉養不届之至、
慚悔無身所措候。然ル身
ヲ以、先生ノ号ヲ汚スコト、何ンノ面目ゾヤ。
明日 亡父忌日タルニ因テ、自今
日先生ノ偽号ヲ脱シ候。何レモ必
不孝之刑人ト卑シク御
アイシラヒ被成可被下候。已上
享保十七年壬子正月八日丙寅
過廬陵文山
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『皇極経世書』で宇宙論的歴史観を展開した邵雍

 若林強斎先生の『雑話筆記』には、「易ノ先天の図も邵康節・朱子ノ手ヘワタツテコソ明ニラツ……」とある。
「邵康節」とは、北宋時代の儒学者、邵雍のこと。彼は李挺之から『易経』の河図洛書と先天象数の学を伝授された。先天象数とは、易卦の生変に関する学説に基づく次序や方位によって八卦、六十四卦を配した図。
邵雍は『皇極経世書』で壮大な宇宙論的歴史観を展開した。
なお、『皇極経世書』については川嶋孝周氏による『易學案内―皇極経世書の世界』がある。

『強斎先生雑話筆記』研究会①

 折本龍則君とともに継続してきた『靖献遺言』研究会の新たな展開として、若林強斎の発言を高弟山口春水がまとめた『強斎先生雑話筆記』の研究会を、開始します。
テキストは、『神道大系 垂加神道 下』(近藤啓吾先生校注)に収められたものを使用します。

垂加神道①「死生利害を超えて皇統守護の任に当たる」

『月刊日本』平成25年2月号に「死生利害を超えて皇統守護の任に当たる」と題して、『靖献遺言』理解に欠かせない、山崎闇斎にはじまる垂加神道について書きました。参考文献も加えて、崎門学研究会のHPに掲載していただきましたので、是非ご覧ください。

崎門学(尊皇派)研究書の書棚より


近藤啓吾著『山崎闇齋の研究』續神道史学会、昭和61年
近藤啓吾著『續 山崎闇齋の研究』神道史学会、昭和61年
近藤啓吾・金本正孝編『浅見絅斎集』国書刊行会、平成元年
近藤啓吾著『淺見絅齋の研究 増訂版』臨川書店、平成2年
近藤啓吾著『若林強齋の研究』神道史学会、昭和54年
近藤啓吾著『續 若林強齋の研究』臨川書店、平成9年