昭和6年11月1日、満洲では、笠木良明らの大理想に基づいて自治指導部が発足した。しかし、満州国建国後、自治指導部は資政局となり、翌昭和7年7月には解散に追い込まれた。笠木の理想は完遂されることなく頓挫したのだった。
笠木の理想は、自ら起草した「自治指導部佈告第壱号」に明確に示されていた。
〈自治指導部ノ真精神ハ天日ノ下ニ過去一切ノ苛政、誤解、迷想、紛糾等ヲ掃蕩シ竭シテ極楽土ノ建立ヲ志スニ在リ。茲ニ盗吏アルヘカラス、民心ノ離叛又ハ反感不信等固ヨリ在ラシムヘカラス。住民ノ何国人タルヲ問ハス胸奥ノ大慈悲心ヲ煥発セシメテ信義ヲ重ンシ共敬相愛以テ此ノ画時代的天業ヲ完成スヘク至誠事ニ当ルノ襟懐ト覚悟アルヘシ。
謂フ所ノ亜細亜不安ハ軈テ東亜ノ光トナリ、全世界ヲ光被シ全人類間ニ真誠ノ大調和ヲ齎ラスヘキ瑞兆ナリ。此処大乗相応ノ地ニ史上未タ見サル理想境ヲ創建スヘク全努力ヲ傾クルハ、即チ興亜ノ大濤トナリテ人種的偏見ヲ是正シ、中外ニ悖ラサル世界正義ノ確立ヲ目指ス。
既ニ三千万人民ノ吸血鬼ハ倒ル、更ニ進一歩シテ盗匪ノ影ヲ没セシメ暴政ノ残党者ヲ排除シ悪税ヲ廃止シ贈収賄ノ悪習ヲ打破シ産業交通ノ暢達ヲ画シ教育宗教ヲ振興スル等、一々公明正大裡ニ運営セサルヘカラス。
指導部ハ前途幾重ノ難関ヲ前ニ大理想ノ実行者トシテ無我ノ一道ヲ邁進ス。大眼目ハ善政ノ実施ニ在リト雖モ憔燥ハ避ヘシ。古来ノ制度及地方的事情等ヲ能ク究メ、風俗人情ヲ尊重シ、革ムヘキハ革メ存スヘキハ存ス、仁風匝地民心ノ帰投火ヲ賭ルヨリモ明カナリ。本部ヨリ漸時各県ニ指導員ヲ派シ善政ヲ行フ、県民ハ安ンシテ其ノ指導ヲ受クヘシ。茲ニ布告ス。〉
大東亜戦争の目的は「自存自衞」にあり、アジア解放という目的は後から付け加えられたとの見解が見受けられますが、開戦の詔勅(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)には、「自存自衞ノ爲蹶然起ツテ」と謳われる前に、「東亞安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ」とあります。
また、詔勅の翌日に出された「帝国政府声明」には、「米英ノ暴政ヲ排除シテ東亜ヲ明朗本然ノ姿ニ復シ」という表現を用いて、開戦に伴うわが国の軍事的な行動がアジア解放を目指したものであることが強調されています。
秋田県出身の歌人として知られた村田光烈(むらた・みつたか)は、大東亜戦争勃発の翌昭和十七年十二月に『新亜細亜の誕生』を出版、新亜細亜文明を構想した。
彼の思想は、日本国体に哲人政治の理想体現を見て、独自の興亜論を唱えた鹿子木員信の思想から影響を受けていた。また、亜細亜の精神的、宗教的価値を称揚した岡倉天心の思想にも通ずる。以下に掲げる『新亜細亜の誕生』の一章「新亜細亜文化の建設」は、そうした村田の思想を最も良く示している。
〈人類文化の揺籃と世界宗教の淵源とを尋ぬる時、そは我が亜細亜を措いて外にない。かの世界最古の文化と呼ばるゝメソポタミヤ乃至古代印度の文化等、欧羅巴文明に先立つこと数千年の往昔に於て、亜細亜には既に卓越せる文化が存在して居り、又世界の三大宗教たる仏教、キリスト教、回教の発祥地も亦実に亜細亜に属する。而して暴戻なる近代資本主義的欧羅巴の征服するところとなつた亜細亜は、今に於てたとへ昔日の栄光を見出すべくもないとは云へ、而も亜細亜独自の高貴な姿に於て、今猶其光芒の搖曳するものあるを看取すること出来るので、我が亜細亜こそ凡そ精神的なる意味に於ての一切の高貴と偉大の源泉であり、釈迦、キリスト、マホメット等の宗教的天才は実に亜細亜の上代に於て此世に出現し、又印度、波斯等の多種多様なる民譚も東洋精神の衷なる魂の力を物語つて居るもので、民話に於ても亦亜細亜は世界の母である。 続きを読む 新亜細亜文化の建設を夢見た歌人・村田光烈 →
1926年の亜細亜民族会議の教訓
大正13(1924)年7月にアメリカで排日移民法が施行され、日本国内で反米ムードが高まりつつあった。こうした中で人種平等を掲げたアジア人の連帯運動の気運も次第に盛り上がり、興亜論者だけでなく、政治家の中にも興亜運動を進めようという動きが出てきていた。政友会の今里準太郎もその1人であった。例えば、今里は移民法施行直後の大正13年7月6日に、時の総理大臣加藤高明に対して「外交方針ニ関スル質問主意書」を提出している。そこには、次のように記されている。
1、人種平等ニ関シ日本政府ノ採レル努力ノ経過並今後ノ方針如何
2、米国以外ノ日本移民地ニ於テ日本移民ヲ永遠ニ安住セシムル具体的方針如何
3、日支親善ノ具体策トシテ日支間ノ条約一部ノ改廃乃至日支同盟ノ意ナキ乎
右及質問候也(1) 続きを読む 精神的基礎なきアジア連帯会議 →
1926年、大川周明が率いる行地社から一冊の本が刊行された。『西欧文明と人類の将来』である。
この本の翻訳を手がけたのは、行地社のメンバーでもあった嶋野三郎である(嶋野については、満鉄会・嶋野三郎伝記刊行会編『嶋野三郎 満鉄ソ連情報活動家の生涯』原書房、1984年)。嶋野はロシア通であるばかりか、イスラーム通でもあり、トルコ系ムスリムのムハンマド・クルバンガリーと深い交流を続けた。『産経新聞』2002年3月12日付の「この国に生きて 異邦人物語54 モスクを建てた亡命タタール人」は、嶋野が残した北一輝の逸話を紹介している。
「クルバンガリーの来訪を非常に喜び、『自分は「日本改造法案大綱」というものを書いたが、その中で、あんたがくることを予言しておる』とやった。北は西欧の侵略からアジアを解放するため、中国西北部にイスラム帝国を作る夢を持っていた。
さらに、『あんたはこれから日本の朝野を啓発して支那に渡り、その西北地区のマホメット教徒を率いて共産ロシアに攻め込みなさい。不肖、北、及ばずながら援助しよう』と語ったという」 続きを読む 興亜論者とユーラシア主義 →
「全亜細亜主義・独立亜細亜・世界平和」
タラクナート・ダス(Taraknath Das)は、祖国インドをはじめとするアジア諸国の独立を目指して果敢な行動を続けた興亜論者である。1905年頃、彼はカルカッタからアメリカに渡った。やがて、インド独立を目指すガダル党(Ghadr party)に参加する。ガダル党とは、アメリカ西海岸に留学したインド人や亡命したインド人が中心になって20世紀初頭に結成した、インド独立運動を支持する団体で、本部はサンフランシスコに置かれていた。 続きを読む タラクナート・ダスの全亜細亜主義 →
対等願望に注目
西脇文昭氏の「21世紀日本外交のグランド・デザイン」が話題になっている。もちろん、この論文には「個人的見解」との断わりがついているが、防衛大学校助教授によるこの論文が外交防衛政策関係者に与える影響は、決して小さくはないだろう。 続きを読む 西脇文昭氏の外交論 →
「外部ノ物質的援助ヲ仰ガズ」
華々しい活躍はしなかったものの、無私に徹した運動を志していた維新団体として知られているのが、大日本殉国会である。
大正15年2月11日、古着屋を営んでいた増井潤一郎が旗揚げした団体である。増井は新潟県高田の出身で、小学校の教師をしていた父から武士的教育を受けるとともに、漢学を仕込まれて成長した。増井の脳裏には、父から教えられた『日本外史』をはじめとする著書に示された楠一族の殉国物語が深く沁み込んでいた(荒原朴水『大右翼史 増補版』大日本一誠会出版局、1974年、100頁)。 続きを読む 大日本殉国会 → |
『維新と興亜』編集長・坪内隆彦の「維新と興亜」実践へのノート