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佐橋滋の死去を報じた各紙

 佐橋滋は平成五年五月三十一日、肺炎のため死去した。『毎日新聞』は同日夕刊で、〈「通産省の生んだサムライ中のサムライ」と呼ばれ、城山三郎氏の小説「官僚たちの夏」のモデルとなった。次官在任中は、日本の国際競争力強化のために、企業の合併、集中が必要と主張し、公正取引委員会と対立したが、これが日産とプリンス、東洋紡と呉羽紡の大型合併の引き金になった。
 また、不況対策として、戦後初の赤字国債発行を大蔵省に迫って物議をかもしたほか、行政指導による生産調整を推進し、反発する住友金属工業に対し、「指示に従わなければ、輸入炭の割り当てを削減する」と宣言、押し切った。退官にあたっては「陣笠代議士にはならん。大会社のお抱え重役もごめんだ」と言い切り、天下りを拒否した〉と報じた。翌六月一日の『朝日新聞』朝刊は次のように書いている。
 〈歯に衣着せぬ発言で知られた元通産事務次官の佐橋滋氏が三十一日に亡くなった。一九六〇年代初めの企業局長時代、政財界の反対を押し切り、特定産業を選び出して合併などで国際競争力をつけさせる特定産業振興臨時措置法(特振法)の法案をまとめた。結局は廃案になったものの、その人柄などが城山三郎氏の小説「官僚たちの夏」のモデルになった。退官後は余暇問題を研究する余暇開発センターを設立、理事長から最高顧問を務め、民間企業への天下りをしなかった。この「異色の官僚」を惜しむ声を聞いた。
 元通産事務次官で、佐橋氏の下で特振法の立案を手がけた両角良彦氏(日本銀行政策委員)は「親分肌で、後輩の面倒見のいい人だった。親しみがあり、頼りがいがあった」と振り返る。「官民協調方式」との非難が集まった特振法案については「役所と産業界、金融界で共通の認識を持ち、役所と業界が『上下関係』ではなく『水平分業』で貿易の自由化に対応しよう、との狙いだった」と代弁する。
 その特振法案に金融界がこぞって反対するなか、日本興業銀行頭取だった中山素平氏(日本興業銀行特別顧問)は理解を示していた。中山氏は「佐橋君は『異色の官僚』といわれるが、私にいわせれば彼こそ本来の官僚だ。国の利益を考えて政策を立案し、政財界と意見が食い違っても自分を押し通そうとする。これが官僚の本来の使命だからだ」と強調する。
 余暇開発センター理事長の後を継いだ宮野素行・元四国通産局長は「佐橋さんは遊び好きで、週一回はゴルフに行き、マージャンも楽しんでいた。読書も好きで、あらゆるジャンルの本を読んでいた。これからは(日本も)仕事一本やりではだめ、もっと人生をみつめなければならない。そうしたときに一番欠けているのが、増えてくる自由時間をどうするかということだ、と繰り返していた」と、故人をしのんでいる〉
 一方、『読売新聞』は次のように報じた。
 〈通産官僚としての佐橋氏は、国内産業の保護と、そのための強い行政指導力の維持で一貫していた。貿易・為替の自由化の波が押し寄せる中で、企業の集中、合併による体質強化のため「特振法」(特定産業振興臨時措置法)成立に執念を燃やし、産業界から「官僚による産業統制」と猛反発を受け、本田技研工業の故・本田宗一郎氏や住友金属工業の故・日向方斉氏とも激論を戦わせた。「強い通産省」の象徴的存在だった。
 特振法は結局廃案に追い込まれ、目に見える成果は日産とプリンス、東洋紡と呉羽紡の合併などにとどまった。しかし「横並び意識ではいけないという声が、各界に広がった」と企業局長時代の部下だった両角良彦・日銀政策委員は、佐橋氏の先見性を評価する。
 佐橋氏は、信念に基づきがむしゃらに進む性格で、官僚的な根回しと慇懃無礼(いんぎんぶれい)さからは無縁だった。特許庁長官から事務次官という異例の人事で通産官僚の頂点にのぼりつめながら、民間への天下りを拒否するなど、文字通り「異色の官僚」だった。〉

坪内隆彦