特定産業振興臨時措置法案はなぜ廃案になったのか(『新日本経済』記事から)

 特定産業振興臨時措置法案(特振法)は、昭和三十八(一九六三)年三月に閣議決定され、国会に提出されたが三度にわたって審議未了のため廃案となった。『新日本経済』(昭和四十一年四月)は、「人物ハイライト 通産官僚 佐橋滋の人間像〈屈指の実力者通産〉」で、特振法について次のように書いている。
 〈佐橋企業局長を先頭に乙竹次長、(現繊維局長)両角企業第一課長、三宅産業資金課長らの幹都が一体となって公正取引委員会を始め、産業界、大蔵省、金融界、自民党などと渡り合った。
 この法案のねらいは、官民協調で過当鏡争を有効競争へ集約することにあったが、官僚統制の復活につながることを心配する産業、金融界と、独占禁止法を死守しようとする公取委のはさみ討ちにあって、国会提出までもみにもんだ。
 省内でも一般法でゆくか、単独法でゆくかで議論が二分されたが、三十七年十二月に公取委と協議を始めてからも、国会提出まで三カ月半もかかっている。
 貿易自由化にたいする通産官僚の危機意識から、規模の利益追及が必要だとする通産省と、スポンサーになってもおかしくない財界がなぜこんなに対立したか。それは前にもいったようこ、強引ともみえる佐橋氏の突進振いに、官僚統制へつながりはしないかとの不安と、独禁法に風アナを開けるより独禁法そのものを緩和することが急務であるとみたためだ。
 金融界にしても、三者協調(産業、金融、政府)方式が金融機関へのクサビであるとみた大蔵省が、通産省との共管にしない限り、クサビを抜きとろうと全銀協に働らきかけたためといわれる。かくて通産省は当初の見込みとはすっかり当てが狂るい、法案はほとんど骨抜きにさされてしまった。
 しかしそれでもまだ法案が国会で成立すればよかった。佐橋氏らが心血を注いだ法案も、社会党や消費者代表の強硬な反対で三十七、三十八、三十九、と三たび国会で流れ、遂に廃案となってしまった。
 廃案となった理由はいろいろあるにせよ、同法案に消極的だった福田通産相、今井次官(いずれも当時)らのもとであったことも否定できない。廃案となった当日は夜中まで残念会が統き、担当の島田局長ががっくりして佐橋氏になぐさめられたという。佐橋次官は、
 『当時心配していたことが現実となって現われてきた』
 というが、カルテルが物価対策とからんで社会党の攻撃目標となっている現在では、法案を作ったところで国会成立のメドは立たない。
 第一もう古いというのが中堅幹部の見方だ。貿易自由化が一段落すれば、資本の自由化に備える体制づくりを急がねばなるまい〉

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