大楽源太郎は、明治四年二月に小河真文、寺崎三矢吉らとともに「西洋心酔の政府を倒壊せん」とする計画を立てたものの、結局久留米藩士の手で殺害された。彼は、崎門学、水戸学を修め、王政復古に挺身した。彼には真木和泉の精神が継承されていたかに見える。元治元年7月21日、真木が天王山の露と消えた直後、大楽は真木ら十七士の自刃をしのび次の一詩を作っている(元治元年8月13日)。
良夜無心一杯をとる
諸公は屠腹して余哀あり
凄涼たり看つくす屋梁の月
遙に照す天王山上より来るを
「石田英吉関係文書」の中に、大楽自筆の墨書が残されている。