筆者が『アジア英雄伝』で取り上げた二五人の志士たちの多くは、日本に亡命するか、日本が設立した訓練機関などに所属し、興亜の理想を日本人と共有していた。

彼らが信頼した日本人とは、頭山満に代表される、列強の植民地支配に抵抗し、アジア諸民族の独立に手を貸そうとした興亜陣営であった。以下、アジアの志士たちと興亜陣営の結びつきを列挙してみたい。

朝鮮開化派のリーダー金玉均が来日する前年の明治一四(一八八一)年、朝鮮から派遣され視察団の一員として日本に来た魚允中は、副島種臣に招かれて興亜会の宴に列し、アジアの興隆を志す副島に刺激を受けていた。金玉均は、魚允中から副島の興亜思想を伝え聞いたに違いない。金は、訪日直後に興亜会主催の会合に参加し、日本、清、朝鮮三国間の平和、協力を目指した三和主義に基づく「興亜之意見」を発表していた。

明治二二(一八八九)年に初来日したセイロンの志士アナガーリカ・ダルマパーラの場合は、若干異なる人脈をつかんだ。彼は、神智学に関心を強めていた僧侶、平井金三や野口復堂らと結び、その縁で日本教会(その後、道会と改称)の松村介石と交流している。

康有為は、中国問題に関心を持つ多くの興亜論者たちとの交友を結んでいた。明治三一(一八九八)年春に玄洋社系、政教社系の志士、言論人、政治家らが結集して旗揚げした興亜団体である東亜会は、発足時から康有為と深い関わりを持った。ここには、井上雅二、陸羯南、三宅雪嶺、福本日南、平岡浩太郎らが参加していた。

孫文は、頭山満、平岡浩太郎、秋山定輔、副島種臣、宮崎滔天、萱野長知、梅屋庄吉、波多野烏峰らと交わった。孫文とインドの志士たちの交流を支援したのが、波多野である。

明治三七(一九〇四)年末に日本に亡命した宋教仁は、宮崎滔天を介して、萱野長知、平山周ら革命評論社のメンバーとの交流を深めた。また、宋教仁は亜州和親会を通じて、インド、ベトナム、フィリピンの志士とも交流している。彼と北一輝との出会いも、革命評論社が媒介となっている。

フィリピンの志士マリアノ・ポンセが、対米闘争のための武器調達を目指して宮崎滔天や平山周に接触してきた際、それを仲介したのは孫文であった。大倉喜八郎などを通じて武器、弾薬が用意され、布引丸でフィリピンに届けようとしたが、台風に遭って沈没、武器は届かなかった。

李容九は、金玉均とともに日本に亡命していた宋秉畯とともに「一進会」を設立、明治三四(一九〇一)年に来日、黒龍会の内田良平と結び、日韓合邦運動を推進する。この過程で、李容九は内田に連なる権藤成卿や武田範之らとも交流していた。

明治三九(一九〇六)年に日本に亡命したベトナムのクォン・デ侯は、頭山満、犬養毅、柏原文太郎、福島安正、根津一らと交わった。

大正四(一九一五)年五月に日本に亡命したビハリ・ボースは、まず孫文を訪れ、宮崎滔天を紹介された。こうして、ボースは頭山満、内田良平、大川周明、葛生能久、佃信夫ら興亜陣営との交流を深めていく。その潜伏を手伝ったのが、新宿中村屋の店主、相馬愛蔵、黒光夫妻である。

ビハリ・ボースにやや遅れて日本に亡命したフィリピンの志士アルテミオ・リカルテは、ボースを頼り、頭山満らの支援を受けた。

クォン・デは、いったん日本を離れていたが、ボース、リカルテの日本亡命後の大正五(一九一六)年に、再び日本に戻っている。彼もまた、相馬夫妻の別荘にかくまわれた。その後、彼は猶存社メンバーの何盛三らの支援を受けている。また、湖南で知り合った中村新八郎との関係を深め、中村が満川亀太郎らと創設した興亜学塾に参画、ビハリ・ボース、クルバンガリーとともに顧問に就いている。満川が塾頭を、下中弥三郎、中山優、中谷武世らが講師を務めていた。ちなみに、李容九の遺児李碩奎は、黒龍会同人の細井肇の紹介で、興亜学塾に入った。

ビルマの志士ウ・オッタマは、留学したオックスフォード大学で浄土真宗本願寺派門主の大谷光瑞と出会い、明治四〇(一九〇七)年に大谷を頼って日本を訪れた。彼は興亜論者の若林半と知り合い、その縁で頭山満、内田良平らと交流するようになった。彼はまた、明治四三(一九一〇)年に名古屋で知り合った松坂屋社長の伊藤次郎左衛門祐民と結んだ。

日本がアウン・サンに接触する際、重要な役割を果たしたタキン党のティン・マウンは、オッタマの盟友、伊藤次郎左衛門祐民の子息や、大谷光瑞と交流を持っていたと推測される。ティン・マウンは、大谷の紹介で頭山満らとも接触していた。

トルコ系ロシア人マハンマド・クルバンガリーは、大正九(一九二〇)年に日本に亡命、興亜陣営の五百木良三、満鉄の嶋野三郎、東京外語学校のロシア語専科を卒業した須田正継、二度のメッカ巡礼を果たした興亜論者の田中逸平らと交流している。

インドの志士マヘンドラ・プラタップは、大正一一(一九二二)年一〇月に日本に来日、ビハリ・ボースのところに落ち着いた。

昭和九(一九三四)年末に日本に亡命したフィリピンの志士ベニグノ・ラモスは、リカルテを介して頭山満らの支援を受けた。その後、ラモスは大日本生産党の八幡博堂、愛国政治同盟を率いていた代議士、小池四郎と交流している。彼はまた、維新寮(後の大東塾)を訪れ、影山正治、毛呂清輝、中村武彦らとも面会していた。

チャンドラ・ボースがインド独立運動の指導者として認知されるに際して、チャンドラ、ビハリの両ボースを前に、「君たちは二人とも姓は同じボース。自分は今日から君たちを、ただ一人の人物として交りたい」と語ったのは、頭山満であった。

昭和八(一九三三)年三月に来日したインドネシアのハッタは、ビハリ・ボースやクォン・デと会い、アジア民族の独立と解放のために協力を約束した。ハッタをボースに紹介した留学生ガウスは、大亜細亜協会の下中弥三郎や中谷武世らと結んでいた。

孫文やビハリ・ボースを介して頭山満に紹介され、興亜陣営との関係を広げていくというのが、一つのパターンとしてみてとれる。まさに、本書で紹介するアジアの志士たちはネットワークを組んで、興亜の理想の実現に努力していたのである。

また、興亜陣営と直接結ぶことはなかったものの、若き日のスハルトやラジャー・ダト・ノンチックは、戦時に日本人から指導を受け、アジア解放の志を強めた。戦時に特殊要員の養成のために日本が設立したタンゲラン青年道場で指導を受けたスハルトは、土屋競元大尉らからアジア独立の志を叩き込まれていた。

戦時に南方特別留学生として来日したノンチックは、厳しい指導を通じて、アジア解放の使命を強く意識した。また、彼は陸軍軍医中将・田中一三博士による、孫文らの中国革命やインド独立運動の話を聞き、民族自決、祖国独立の決意を新たにした。マハティールの興亜の構想にも影響を与えたと推測されるガザリ・シャフィー元外相もまた、戦時にマラヤ興亜訓練所で指導を受けていた。

坪内隆彦