若林強斎『自首』


2013年8月24日(土)、同志の折本龍則氏(『青年運動』編集委員、崎門学研究会代表)と、近藤啓吾先生のお宅にお邪魔しました。その際頂戴したのが、若林強斎『自首』のコピーです。
自 首
不孝第一之子若林自牧進居、
亡父ニ事ヘ奉養不届之至、
慚悔無身所措候。然ル身
ヲ以、先生ノ号ヲ汚スコト、何ンノ面目ゾヤ。
明日 亡父忌日タルニ因テ、自今
日先生ノ偽号ヲ脱シ候。何レモ必
不孝之刑人ト卑シク御
アイシラヒ被成可被下候。已上
享保十七年壬子正月八日丙寅
過廬陵文山

近藤先生の「若林強斎先生『自首』文を拝読して」(『若林強斎先生』)によると、本文の意味は、「私は亡父に事えて奉養不届の至り、不孝第一のものであって、漸悔身の措くところがなく、されば、明日が亡父の忌日であることによって、今日から先生と呼ばれることを辞退いたします。不孝の刑人と卑しくお取りあつかい下されたく御願い申し上げます」というもの。
この自首は、強斎が亡くなる享保17年正月20日から、わずか12日前の正月8日に、神前に捧げられた文である。すでに強斎が自らの死を覚悟した状況下で書かれた。文末に記されている「過廬陵文山」(廬陵を過ぐるの文山)は、死を覚悟した時に文を残した文山(文天祥)の心境を想って、自らの心境を一層明白にしたものである。

崎門学において、忠と孝の実践は最重要事項。強斎が不孝の人とは考えられない。これについて、近藤先生は次のように推測しています。
〈先生の父は、京都にて醤を開業し相応の収入も得て生活も安定してゐたが、その父が失明して醤業を止めたため、一家の生計は俄かに青年であつた先生の肩にかかつて来、その結果、先生は一家の人々と京を去つて大津郊外に移り、その地の微妙寺の空坊を借り、これに起居することとなつたが、父の願ひは、若林氏がもと武士であつたことを思ひ、先生がいづれかの藩に事へ、再び武士として世に立つことであつた。しかるに浅見絅斎の教へを受けて既に幕府の存在を否定してゐた先生には藩に事へる意がなかつたが、父の断つての希望に、その盲ひたるを幸ひとして、武士に取り立てられたと偽り、喜ばしめたことであった。そして父は賓永七年、先生三十二歳の時、孝養を尽し得ざるに病歿したのである。このことは先生がその生涯、心より消すことができぬ慚悔であり苦悩であつた。いふなれば先生は、これによつて「不孝第一」といふ意識の十字架を背負つてその生涯を送らねばならなかつたのである〉
こうした強斎の思いを知った上、彼の言動の真意を理解する必要がある。


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