令和2年7月、松岡正剛氏の『千夜千冊エディション 大アジア』(角川ソフィア文庫)が刊行された。「大アジア」というタイトルに驚き、筆者の問題意識と重なる多くの書物が手際よく紹介されていることもあり、熟読した。
さて、同書において、12年も前に書いた拙著『アジアの英雄たち』(展転社)を圧倒的ページ数(287~353頁)で取り上げていただいたことに、心より感謝申し上げる。
〈著者は日本経済新聞出身のジャーナリスト兼ライターの坪内隆彦で、「月刊日本」連載の『アジアの英雄たち』をもとに充実させた。タイトルに『アジア英雄伝』とあるように、あからさまな大アジア主義称揚の視点で綴られている。冒頭に頭山興助の「推薦の辞」が飾られているのだが、この人は頭山満のお孫さんだし、あとがきには田中正明の『アジア独立への道』(展転社)からの影響を記している。田中は松井石根の私設秘書から近現代アジア史の著述に向かい、『パール博士の日本無罪論』(小学館文庫)、『東京裁判とは何か』(日本工業新聞社)などを書いた。
そういう一冊ではあるのだが、当時の大アジア主義にかかわった人物を点検するには浩瀚かつ便利な一冊になっている〉
松岡氏が「そういう一冊ではあるのだが」と、わざわざ前置きされたことについては、いろいろ考えるところがあるが、筆者が「大アジア主義称揚の視点」で綴っていたことを否定するつもりはない。
ただ、大アジア主義といっても、在野のアジア主義と政府のアジア主義には違いがある。筆者は一貫してアジアの亡命志士たちが日本政府の政策に失望した事実を強調してきた。拙著の中でも次のように書いている。 続きを読む 「いま『大アジア』を問うことは時代錯誤だろうか」─松岡正剛『千夜千冊エディション 大アジア』
「維新と興亜」カテゴリーアーカイブ
日中の不幸なすれ違い─小泉菊枝『東亜聯盟と昭和の民』
小泉菊枝は『東亜聯盟と昭和の民』(東亜聯盟協会、昭和15年)で、以下のように書いている。
〈漸く封建社会の諸制度を清算し、資本主義経済への発展により活発な国富増進へ歩み出した世界の後進国日本は、商品を売りさばく海外市場として残されてゐる所を支那大陸に求めるより仕方がありませんでした。日本は列強に追随しながら友邦支那の中に利権を確立して行きました。かうして一人殖民地と化し去らうとする東亜に於ける唯一の独立国家日本はぐんぐん国力を充実させ、列強の間に伍して進みました。かゝる日本の発展を、列強はたゞ侵略的・野心的進出としてだけ解釈し、東亜のユートピアとして「愛すべき日本」と呼んでゐた人々も「恐るべき日本」からやがて「恐るべき日本」と称してひたすらその成長を抑圧しようとするやうになりました。列強は競つて亜細亜の宝庫を分割しようとし、又この間に割り込む日本を牽制しようとしました。門戸開放・機会均等が屡々支那に要求されましたが、これは取りも直さす、搾取と侵略の自由平等を大亜細亜殖民地の上に確立しようといふ意志表示だつたのです。列強の利権が増大すればする程、利権擁護に名を借りた東亜諸問題への彼等の発言権は強硬になるばかりでした。日本は必死となつてこの間に立ちました。若し日本が支那大陸に利権を確守出来す、発言権を持たなかつたならば、亜細亜大陸は列強の欲するまゝに動かされるより他はなかつたのです。 続きを読む 日中の不幸なすれ違い─小泉菊枝『東亜聯盟と昭和の民』
『維新と興亜』第2号刊行
令和2年4月、崎門学研究会・大アジア研究会合同機関誌『維新と興亜』第2号が刊行された。
目次は以下の通り。
【巻頭言】グローバリズム幻想を打破し、興亜の道を目指せ
歴史から消された久留米藩難事件
尊皇思想と自由民権運動─愛国交親社の盛衰②
金子彌平―興亜の先駆者④
新しい国家主義の運動を起こそう!②―津久井龍雄の権藤成卿批判
江藤淳と石原慎太郎②
金子智一―インドネシア独立に情熱を捧げた男
重光葵と「大東亜新政策」の理念―確立すべき日本の国是を問う
田中角榮の戦争体験
『忠孝類説』を読む
若林強斎先生『絅斎先生を祭る文』
菅原兵治先生『農士道』を読む⑤
首里城の夢の跡
書評 拳骨 拓史『乃木希典 武士道を体現した明治の英雄』
書評 浦辺 登『勝海舟から始まる近代日本』
表紙の写真─片岡駿の生涯と思想
活動報告・行事予定
政府の覇道主義的傾向を戒めた石原莞爾─「東亜連盟建設要綱」
明治期のわが国においては、興亜論、アジア主義が台頭した。アジア諸民族が連携して欧米列強の侵略に抵抗しようという主張であり、欧米の植民地支配を覇道として批判するものだった。しかし、国家の独立を維持するためにわが国は富国強兵を推進し、列強に伍していかねばならなかった。その結果、日本政府の外交は覇道的傾向を帯びざるを得なかった。
そのことを在野の興亜論者たちは理解していた。ところが、やがて在野の興亜論者たちも政府の政策への追随を余儀なくされていく。こうした中で、その思想を維持した興亜論者もいた。例えば石原莞爾である。彼が率いた興亜連盟は、戦時下にあってもその主張を貫いていた。大東亜戦争勃発後に改定された「東亜連盟建設要綱」は以下のように述べている。
〈明治維新以来、他民族を蔑視し、特に日露戦争以後は、急激に高まれる欧米の対日圧迫に対抗するため、日本は已むなく東亜諸民族に対して西洋流の覇道主義的傾向に走らざるを得なかった結果、他の諸民族に対する相互の感情に阻隔を来したのは、躍進のための行き過ぎであり、日本民族の性格からいえば極めて不自然のことである。日本民族が、国体の本義に覚醒し、かつ国家連合に入りつつある時代の大勢を了察するならば直ちにその本性に復帰すべく、東亜諸民族の誤解を一掃することは、極めて容易であると信ずる。そうなれば一つの宣伝を用いることなく、東亜諸民族が歓喜して天皇を盟主と仰ぎ奉ること、あたかも水の低きに流れるが如くであろう。
しかし、遺憾ながら東亜諸民族が心より天皇を仰慕することなお未だしとすべき今日、日本は東亜大同を実現する過程に於て、聖慮を奉じて指導的役割を果す地位に立つべき責務を有する。ただしこの指導的地位は、日本が欧米覇道主義の暴力に対し東亜を防衛する実力を持ち、しかも謙譲にして自ら最大の犠牲を甘受する、即ち徳と力とを兼ね備える自然の結果であらねばならぬ。権力をもって自ら指導国と称するは皇道に反する。(中略)
今や大東亜戦争遂行過程にあり、我が国民が急速に英米依存を清算して、肇国の大精神に立帰りつつあることは、誠に喜ぶべきところであるが、ややもすれば時勢の波に乗じて、軽薄極まる独善的日本主義を高唱するものが少なくない。
天皇の大理想を宣伝せんとする心情やよし。しかれども日本自らが覇道主義思想の残滓を清算する能わず、外地に於ては特に他民族より顰蹙せられるもの多き今日、徒に「皇道宣布」の声のみを大にするは、各民族をして皇道もまた一つの侵略主義なりと誤解せしめるに至ることを深く反省すべきである。「皇道宣布」の宣伝は「皇道の実践」に先行すべきでない。〉
康有為─もう一つの日中提携論
日清両国の君主の握手
「抑も康有為の光緒皇帝を輔弼して変法自強の大策を建つるや我日本の志士にして之れに満腔の同情を傾け此事業の成就を祈るもの少なからず、此等大策士の間には当時日本の明治天皇陛下九州御巡幸中なりしを幸ひ一方気脈を康有為に通じ光緒皇帝を促し遠く海を航して日本に行幸を請ひ奉り茲に日清両国の君主九州薩南の一角に於て固く其手を握り共に心を以て相許す所あらせ給はんには東亜大局の平和期して待つべきのみてふ計画あり、此議大に熟しつつありき、此大計画には清国には康有為始め其一味の人々日本にては時の伯爵大隈重信及び子爵品川弥二郎を始め義に勇める無名の志士之に参加するもの亦少からざりしなり、惜むべし乾坤一擲の快挙一朝にして画餅となる真に千載の恨事なり」
これは、明治三一(一八九八)年前後に盛り上がった日清連携論について、大隈重信の対中政策顧問の立場にあった青柳篤恒が、『極東外交史概観』において回想した一文である。永井算巳氏は、この青柳の回想から、日清志士の尋常ならざる交渉経緯が推測されると評価している。両国の志士たちは、日本は天皇を中心として、中国は皇帝を中心として、ともに君民同治の理想を求め、ともに手を携えて列強の東亜進出に対抗するというビジョンを描いていたのではあるまいか。
変法自強運動を主導した康有為は、一八五八年三月に広東省南海県で生まれた。幼くして、数百首の唐詩を暗誦するほど記憶力が良かったという。六歳にして、『大学』、『中庸』、『論語』、『朱注孝経』などを教えられた。一八七六年、一九歳のとき、郷里の大儒・朱九江(次琦)の礼山草堂に入門している。漢学派(実証主義的な考証学)の非政治性・非実践性に不満を感じていた朱九江は、孔子の真の姿に立ち返るべきだと唱えていた1。後に、康有為はこの朱九江の立場について、「漢宋の門戸を掃去して宗を孔子に記す」、「漢を舎て宋を釈て、孔子に源本し」と評している。 続きを読む 康有為─もう一つの日中提携論
一帯一路構想─「特定国の覇権」か「参加国の共栄」か
アジアとヨーロッパを連結する「一帯一路」構想は、現在中国によって主導されているが、このうち特に「一帯(One Belt)」は、かつて日本が主導していた構想である。アジア主義者大谷光瑞の「欧亜連絡鉄道計画」(昭和14年)や帝国鉄道協会の「中央亜細亜横断鉄道」(昭和17年)などの構想があった。「中央亜細亜横断鉄道調査部設置の趣意」には、以下のように書かれていた。
「……中央亜細亜横断鉄道とは大体支那綏遠省包頭、或は陜西省西安を起点とし、甘粛省甘州、新疆省ハミ、トロハン、カシガル等を経てアフガニスタンの首都カブール、イランの首都テヘランを過ぎイラクのバグダツドに接続せしめむとする延々七千余粁(キロメートル)に及ぶ鉄道なり。
……凡ゆる観点より重要意義を有し、特に変転極りなき国際情勢を想ふ時、東亜共栄圏確立上の交通動脈の一都としても其の重要性大なるものありと謂はざる可からず」
「特定国の覇権」のためではなく、「参加国の共栄」のためにどうすればいいのか。今、古くて新しい問題が浮上している。
内藤正中『自由民権運動の研究―国会開設運動を中心として』①
『笠木良明遺芳録』目次
以下は、『笠木良明遺芳録』(笠木良明遺芳録刊行会、昭和35年)の目次である。
序 児玉誉士夫
遺稿篇(一)
忠誠なる日本青年の世界的陣容布地の急務
青年大陣容布地の具体案
満洲国県旗参事官の大使命
宗門の革新
電力官営を望む
警官を泣かせし泥棒
愛国の唯一路
理論偏重より覚めよ
小学生柔道大会
年中行事『慈善鍋』
不人情の跋扈
撫順県遊記
百喩経物語から
至人武断
夢中語
妖雲乎瑞雲乎
真人の歌
続きを読む 『笠木良明遺芳録』目次
玄洋社路線を主導した庄林一正
愛国交親社には、当初から玄洋社路線に接近する思想的萌芽があった。それを主導していたのが、庄林一正である。
長谷川昇氏は「変革期における庶民エネルギーの源泉─博徒─草莽隊─『愛国交親社』の系譜に探る─」(『思想』1979年9月号)において、『岐阜日日新聞』の記事に基づいて、愛国交親社の性格を次のように整理する。
〈一、この組織は、その「社則」に定められている如く「政談演舌会」や「其の筋への建言」を目的とする明らかな「政治結社」であった。
二、しかし、この組織は実際には「政談演舌会」などを通じて理論的に庶民を組織化してゆくのではなくて「社則」にも定められていない〝撃剣指導〟を通じて村毎に道場を設けることによって驚異的な組織率(例えば東春日井郡の村々では金戸数の六〇─七〇%の参加数を示す)をあげていく。
三、この組織は、「大野仕合」・「撃剣大会」・「社長の上京送迎」などの際に大規模(数千人に及ぶ)な大衆動員を行い、社号の入った高張提灯を先頭に一種の示戚行進のようなことを挙行する。
四、この組織は、社長直属の本部幹部の他に、各郡毎に郡幹事長・副幹事長及び剣術取締・同補助・機械係などを置き、更に各村毎に幹事(百人頭)・幹事補(五〇人頭)及び剣術取締・機械係などを任命し、末端組織は一〇名毎に伍に組織されて伍長(一〇人頭)を置くという、「講」もしくは「細胞」に類する様な組織に編成されている。そして役職に任ぜられた者にはその末端に至るまで、大げさな「辞令」が発行されている。
五、この組織に民衆を加盟させるための「組織者」(これは、本部直属の者、又は郡幹事長に付属する者で弁の達者な者が当てられた)は、次の様な言葉を並べて農民を説得して歩いた。そしてこの「組織者」の説く処が、とりもなおさず「愛国交親社」の主義・主張を表示するものとなっている。新聞の報ずるところによればそれは次の様なものである(いずれも「岐阜日日新聞」より引用)。
a、「我社に加入する者は何人に限らず其筋より二人扶持の俸米を宛はれ、尚腕力ある者には帯刀を許さるべし」
b、「明治二十三年に至らば、我政府は国会を開設せられ、社会の財産は一般人民の頭数に平等に分賦せらるれば、此の時に及びては愛国交親社員たるもの苗字帯刀御免となり加ふるに八石二人口を賜る」
c、「本社に入れば徴兵を免ぜられ、……但しは士族に取立てられる」
d、「我政府は明治二十三年後は必ず外国と戦争を開く事あるべし、故に我々は今日よりあらかじめ戦争の準備をなさゞる可らすぜとて頻りに撃剣をなし、……又此程発布になりし商標条例は……如何にも苛酷の収歛なれば……我々愛国交親社たるものは必ず……此条例を廃止する様嘆願する〉
長谷川氏が注目するのは、内藤魯一と庄林一正の路線の違いである。長谷川氏は「愛国交親社創立趣意書」が内藤魯一を領袖とする「三河交親社」の趣意書と末尾の数行を除いて同文のものだと指摘した上で、次のように書いている。
〈筆者の内藤が民権政社たる性格を方向づけるために最も力を込めて書いたと思われる「開明文化ノ実ヲ挙ゲ……人民所有ノ権理(利)ヲ伸張シ、一身一家ノ幸福ヲ保チ」という一節を、庄林一正は自らの筆で故意に抹殺して、「欧米強国ト対峙シ、国権ヲ挽回スルノ外他志アラザルナリ、夫レ苟モ我国ノ衣ヲ衣、我国ノ食を食スル者ニシテ誰カ斯ノ志ヲ同クセザル者アランヤ」と書き換えている。これは明らかに〝西欧型自由・平等思想〟への抵抗の姿勢を示している。庄林はのちに「愛親社」(明治二十一年に結成された「愛国交親社」の後身)を率いて、頭山満の「玄洋社」・遠藤秀景の「盈進社」と共に対外硬の路線を明確にしてゆく。その右傾化の道を辿る原点はすでに「愛国交親社」の中に用意されていたのである〉
橘孝三郎『大東亜戦の本質』(昭和18年)
大東亜戦争の本質とは何だったのか。大東亜共栄文明の創造を目指した橘孝三郎は、『大東亜戦の本質』(昭和18年)において、次のように書いていた。
〈そこへゆくとアジアは全くヨーロツパと異つておる。特に漢民族と印度民族とは過去に於て光つておる。之等のアジア民族はいづれも共栄精神に一貫しておる。そして、共栄社会を歴史の過去に実現して来た民族である。それが、過去以上の状態を打開し得ず休眠的民族として、近世西洋唯物文明支配下に全く哀れむ可き状態に捨て置かれておる。たゞ、その共栄的アジア民族の中に在つて祖国日本のみは、驚異に値する方法に依つて、近世西洋唯物文明支配下に巧みに順応して、積極的活動に出で得るの素地を現実に養つて来たのである。かくて、この闘力時代を切りぬけて、アジア共栄精神に依つて、共栄文明を創造し得る中心主動者は之を祖国日本に求むる以外に全く他者在る事を知らない事実を発見し得るのである。問題は、かくて、当然、祖国日本の自己救済に在る。更に、自己救済以て大東亜に於て先づ大東亜共栄文明を創造しかく世界救済に値する世界共栄文明を導き出す主動者たり得るであらうかどうか。
(中略)
…一面闘力体制を即刻整備し出さねばならん。それと同時に他面大東亜に全面一貫す可き共栄文明創造の基礎にて根幹をかためなさねばならんのである。
(中略)
…国内米英体制を一掃して、真に日本的闘力体制を整備す可き事は、とりもなほさず、カバネ制の旧をとりもどす事であつて、国体の大本に立還る事に外ならんのである。尚、国体の大本を忘れて真の日本的闘力体制は絶対に実現不可能である。しかも亦、大東亜共栄文明創造而して世界救済の大道が貫通しておる。漢民族四憶万が何事を日本に期待しておるのであらうか。印度民族三億五千万が何事を日本に期待しておるであらうか。米英の本家を追ひとばして、それにとつて代へて日本的米英支配を下さん事のそれであらうか。とんでもない。漢民族が日本に期待し、印度民族が日本に期待する処のものは、唯漢民族本来、印度人本来の立場に於て解放救済されん事のそれであらねばならん。而して、それ等はいづれも共栄主義民族だつたのである。されば自明である。漢民族、印度人凡そ八億万大衆の日本に期待する所のものは、その本来の立場に再生復し得る一切の途を遮閉せる近世西洋唯物文明支配力を先づ粉砕撃滅一掃せんことのそれである。
(中略)
されば大東亜戦は一面最も凄惨な撃滅戦であると共に、他面歴史に於て最も光栄ある救済文明創造戦である。大東亜戦の本質が茲に在る〉