憲法記念日の三日、道内各地で憲法について考える集会が行われ、護憲派と改憲派がそれぞれの考えを主張した。
北海道平和運動フォーラムなどが札幌市北区で開いた集会では、上田文雄市長が「九条を柱とする憲法は誇り。世界の紛争は武力では解決できない」と九条堅持を訴えた。また、同市中央区の大通公園でも、八つの市民団体が合同で街頭集会を開き護憲を主張した。
一方、市民団体「日本を大切に思う道民の会」が札幌市内で開いた改憲派の講演会では、月刊誌編集委員の坪内隆彦さんが「押しつけられた憲法ではなく、自らの手で憲法を作るために立ち上がろう」と呼びかけた。
日本青年会議所は「憲法タウンミーティング2009」を全都道府県で開催。道内では北見市で開かれ市民ら約五百人が出席した。
PHP総合研究所の永久寿夫常務の基調講演の後、永久氏と武部勤、横路孝弘の両衆議院議員が討議。九条については「戦争は二度と起こしてはいけないという考えがベースにある」と改正に否定的な横路氏に対し、武部氏は「九条の精神を保ったまま改正することは容認されるのではないか」と主張した。
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憲法記念日:護憲、改憲の各立場から 札幌で考える集会『毎日新聞』北海道版2009年5月4日付朝刊
憲法記念日の3日、護憲、改憲の立場からそれぞれ憲法を考える集会が札幌市内であり、9条の是非などを巡って議論が繰り広げられた。
市民グループ17団体が開いた「憲法を私たちの手に!5・3北海道集会」には約250人が参加。北海道大の岡田信弘教授(憲法学)は講演で「憲法は70年代に国連などで議論が始まった平和的生存権などの先駆けだ」と語った。上田文雄市長は「憲法改正が迫っているという認識をどう広めるのか議論を重ねなければならない」と呼び掛けた。
「日本を大切に思う道民の会」は「5・3憲法記念日講演会」を開催。日本マレーシア協会の坪内隆彦理事は参加者約25人を前に「憲法9条は日本の弱体化政策だった。人権重視の欧米的価値観と共同体や責任意識を大切にするアジア的価値観には違いがある。日本には日本の国柄に基づいた学問体系や法体系があってしかるべきだ」と訴えた。【円谷美晶、大谷津統一】
【書評】『アジア英雄伝』坪内隆彦著『産経新聞』2008年12月7日付朝刊,10頁
西欧列強に蹂躙されたアジアの国々で植民地支配からの解放に苦闘した「志士」たちを日本との関係に着目して描いた列伝。取り上げられるのは,朝鮮開化派の指導者,金玉均▽フィリピン独立運動の先駆者,アンドレス・ボニファシオ▽西洋近代を徹底批判したパキスタンの詩人,ムハマンド・イクバール▽インドの国父と慕われるチャンドラ・ボース▽ビルマ(ミャンマー)独立の父・アウン・サンなど25人。
著者は戦前に刊行された膨大な資料に当たり,「志士」たちを歴史的な文脈の中で生き生きと描く。同時に彼らと日本の「興亜陣営」の緊密な連携に迫る。そこから,かつてアジアには西欧に対抗すべく「汎アジア・ネットワーク」が構築されつつあったことが浮き彫りにされる。(展転社・2625円)
果たせぬ国家貢献への思い、東方政策『NNA経済情報』2003年10月29日付
マハティールが首相就任早々に打ち出した東方政策。欧米への強い反発心から、アジアに日本という経済発展の成功モデルを見出し、自国の新しい国づくりに利用した。同政策に伴う日マ関係の緊密化は、「東アジアの奇跡」を結果としてマレーシアにもたらし、マハティールをASEANの盟主に担ぎ上げた。後継者のアブドラは同政策の継承を表明しているが、解決すべき課題も多々ある。日マ新時代の幕開けとともに、東方政策にも新機軸を打ち出すことができるのか。アブドラの手腕が試される。(玉井諭)
1981年7月、首相に就任したばかりのマハティールは首相官邸に有田武夫・駐マレーシア大使(当時)を招きこう告げた。「わが国は、日本と韓国に学ぶルック・イースト政策を採る。協力を願いたい」(坪内隆彦著『アジア復権の希望マハティール』)。日本とマレーシアの2国間関係の象徴となった東方政策の始まりだった。
マハティールは戦後の日本に経済成長をもたらした原動力が、個人の利益よりも集団の利益を重んじる価値観と規律・忠誠・勤勉といった労働倫理にあると信じていた。マハティールの考えは、これらを日本から直接学び取ることで、自国の開発独裁型の経済発展に活かすことだった。
日本政府はマハティールの唐突ともいえる提唱に戸惑ったが、マハティール政権を支援することで日マ関係を強化し、さらには東南アジアでのプレゼンスを高めることにつながると判断。要請の受け入れを決定した。
■「国家の発展のために」
東方政策のもと、82年に産業技術・経営実務研修生、84年に大学・高等専門学校への留学生の1期生がそれぞれ日本に派遣された。ねらいはマレーシアの経済発展の柱となるマレー人の育成だった。
「日本で学んだことを、1人(の留学生)が5人(のローカルスタッフ)に伝えていけば、波及効果となって国民の間に広く浸透していく」。
東方政策で留学した学生の同窓会ALEPSの会長ザバ・ヨウンさんは、マハティールがこう語るのを何度となく聞いた。東方留学生・研修生の1人1人が知識や技術を国民に伝播することへの期待の表われだった。
ザバさんは84年に高専に留学した東方留学1期生。国営放送RTMの電気技術者として働いていた時、突如政府から日本行きを命じられた。「日本に特別な関心があったわけではなかったが、国家政策とあっては選択の余地はなかった」。
当時は現在のような留学前の研修プログラム(1年8カ月)も準備されていなかった。日本語がわからない不安と未知の世界への期待。「国家の発展のために」という使命を胸に、60人の仲間とともに慌ただしく日本へ旅立ったという。
マレーシア政府は国費で03年までの22年間に、1万人を超える若者たちを専門的な知識と技術を身に付けさせるため送りだした。マハティールの息子もその1人。現在もマレー人を中心に1,600人の留学生が日本各地の大学や高専で学んでいる。
■日系企業支える東方留学生
東方政策の開始を合図に、日マ経済関係は緊密化の一途をたどった。両国間の貿易は急速に拡大、日本から大量の民間投資と政府開発援助(ODA)がマレーシアに流れ込んだ。
三菱自動車工業との合弁で東南アジア初の国産車プロトン・サガの生産を手掛けたことは日マ技術協力の象徴的な事例となっている。
特に、85年のプラザ合意以後は、円高を背景とした日本企業の海外進出ラッシュに合わせ、大幅な外資規制緩和策を実施。マハティールは同政策で培った日本政府との太いパイプを利用して次々と投資の呼び込みに成功した(第3回・経済編参照)。
マレーシア進出日系企業の活動を支える「橋渡し」の役割を担ったのが、日本で文化と技術を学び帰国した東方留学生・研修生たちだった。東方政策の留学生派遣で資金協力を行っている国際協力銀行(JBIC)の青晴海・クアラルンプール駐在員事務所首席駐在員も、「日系企業にとって活動しやすい基盤を作ってくれている」と評価する。
■空振りする国家貢献への思い
国家のために貢献したいというのが東方留学生の共通した思いだ。だが、3,000人の会員を抱えるALEPSによると、東方留学生の多くがその機会が持てないことに不満を募らせているという。
彼らの8~9割が就職するのが日系企業。単に通訳としてしか見られず、日本で学んだ専門的知識や技術をローカル・スタッフに伝える権限を持たせてもらえないことへのいら立ちがある。
技術移転も当初のねらい通りの成果をあげていないとされる。ある元留学生は「日本に留学させてくれたお礼を技術移転という形でしたいがそのチャンスがない」と不満をぶちまけた。
さらに、ALEPSの調査では、最近、日系企業にとっては人材の流出といえる現象が起きている。日本に留学後、待遇がよく昇進のチャンスにも恵まれた欧米系企業に最初から就職する例が増えているほか、日系企業に就職した者も、しばらくして欧米系企業に転職したり、自分でビジネスを始めるケースも目立っている。
会長のザバさん自身も、6年間働いた某日系電機メーカーを辞め自ら事業を興した。「技術的にも十分貢献したのに、待遇面で全く評価されなかった」とその理由を説明する。
■迫られる課題への取り組み
次期首相となるアブドラは7月、訪問先の東京で、「前の世代からの政策を継続していく。外交についても同様だ」と述べ、日本との連携を重視する立場から東方政策を堅持する姿勢を表明した。
だが、留学生を通じての技術移転がねらい通り進んでいないことにどのように取り組んでいくのか。アブドラは東方政策の織Vしい方向性については口を閉ざしたままだ。
日本の政府関係者はこう指摘する。「マハティールが創り出し推進してきた路線(東方政策)を、アブドラは今後どのように自ら味付けし、独自色を打ち出しながら継承していくのか見えてこない」。
一方、在マレーシア日本大使館、JBIC、国際協力機構(JICA)、マレーシア日本人商工会議所(JACTIM)など日本サイドは、東方政策の新しい枠組みづくりに向け動き出した。昨年秋から今年春にかけて東方留学生の動向調査を実施。優秀な人材の確保、東方留学・研修生の人材活用、技術移転の促進に向け新機軸を打ち出すべく検討を行っている。
「人材育成でのマハティールのねらいはほとんど達成されていない」。青春を東方政策に捧げたザバさんたちの指摘は重い。日マ新時代の幕開けとともに、東方政策も大きな分岐点にさしかかっている。
岡倉天心内外で再評価――ボストン美術館が展覧会、福井で「サミット」(文化)『日本経済新聞』1999年11月13日付朝刊、40ページ
「アジアは一つ」の言葉で知られる明治の思想家、岡倉天心(一八六二―一九一三)を再評価する動きが広がっている。ボストン美術館勤務時代の活動を初めて体系的に紹介する展覧会が始まり、福井などゆかりの地でも研究会の開催が続いている。時代の風向きによって様々な解釈がなされてきた天心の全体像を、国際的視野からとらえ直そうという狙いがある。
日米協力、実績に光
名古屋ボストン美術館では「岡倉天心とボストン美術館」展(二〇〇〇年三月二十六日まで)が開催されている。米ボストン美術館の姉妹館として今年四月にオープンした同館が、全力をあげて取り組んだ企画だ。一九〇四年に渡米、ボストン美術館で最初の日本美術部長だったフェノロサの後を受け、中国・日本美術部の部長として活躍した十年間の業績に様々な角度から光をあてた。
「所蔵している数多くの資料を、天心という軸でボストン美術館が今回初めて調査、研究した成果です」。企画を担当した名古屋ボストン美術館の山脇佐江子学芸部長は強調する。
この展覧会では、ボストンでもほとんど公開されたことがなく、表装もされずにあった横山大観の「海図」、菱田春草の「月の出図」等の名作の日本初公開という話題だけでなく、天心のボストンでの実績を明らかにした点に意義がある。
米国ではこれまで、米ボストン美術館草創期の収集家、ビゲローやフェノロサに比べると、天心の役割は忘れられがちだった。それが日米の協力による調査の結果、手紙や覚書、ボストン美術館の発行する「紀要」などの発見もあり、見方が変わった。天心は美術館での日本及び中国の芸術の地位を引き上げ、「多くの人々に東洋と西洋が、この美術館で出会うということを確信させた」(米ボストン美術館のアン・ニシムラ・モース日本美術課長)。
日本が海外から文化を受け入れる一方の時代に、積極的に日本を米国に押し出した。「孤独な戦いだったろうが、これこそ現代に求められている国際人の姿ではなかったか」と山脇学芸部長は言う。
現代美術の紹介で実績をあげてきたワタリウム美術館(東京・渋谷)は、昨年から「岡倉天心研究会」の名で年間を通じた講演会を開催している。今年は特に欧米、アジアを転々と巡った足跡をたどり、世界の中の天心をテーマに据えた。
今年五月の研究会で講師をした岡倉古志郎氏は天心の孫で、アジア・アフリカ研究所の所長。非同盟運動の研究者としても知られる古志郎氏が強調するのは、インドとボストンで培った天心の国際的な人脈だ。
インドの詩人でアジア人初のノーベル文学賞受賞者でもあるタゴールとその一家やインド独立運動家たちとの出会い。また、大富豪で美術収集家として知られたイザベラ・ガードナー夫人など、ボストンの知識人階層との交流が、「東洋の理想」「茶の本」といった英文による日本紹介書の執筆と刊行に大いに貢献したと古志郎氏はみる。
平和主義と矛盾せず
天心が創設、昨年百周年を迎えた日本美術院が一時期本拠を置いた茨城県・五浦(いづら)、天心が亡くなった別邸のあった新潟県・赤倉、岡倉家発祥の地である福井県には、それぞれ「岡倉天心顕彰会」があり、九六年から「天心サミット」を持ち回りで主催している。今年の第四回は、十月末に福井県芦原町で開催され、顧問として画家の平山郁夫氏が就任した。
サミットでは、機関誌の発行や資料収集といった一年間の活動を報告後、「第四回天心サミット福井宣言」として、「次代を担う国際人青少年の育成」「インド・タゴール国際大学などとの国際・国内交流の実施」など四項目の課題をまとめて閉幕した。
天心再評価の動きについて、昨年「岡倉天心の思想探訪」(勁草書房)を刊行した、拓殖大学日本文化研究所付属近現代研究センターの坪内隆彦客員研究員は「天心のアジア思想は本来、平和主義、国際主義とは矛盾せず、普遍的な価値を持ちうる」と説く。
グローバル化で意義
アジアは一つである――。「東洋の理想」の冒頭に掲げたこの一句のために、天心は死後、大東亜共栄圏の先導者にまつりあげられた。その背景には、一九三五年ごろから始まる国粋主義、なかでも復古的ロマン主義を唱えた日本浪曼派による、第一次とも呼ぶべき「天心復活」の動きがあった。その反動もあり、戦後は、天心の思想は厚い雲で覆われてしまった。
天心の長男、岡倉一雄の回想録「岡倉天心をめぐる人びと」(中央公論美術出版)によると、天才、あるいはスキャンダラスといった世間の風評に反し、本人は「派手にもてはやされることの嫌いな人間であった」という。特に経済面で顕著なグローバル化の流れは、世界各地で摩擦を生み、民族主義的な感情を呼びおこしている。経済、政治など各方面で、再び日本がアジアに根をおろす姿勢を求められる今日、欧米とアジアに同時に通じた天心の可能性を、冷静に見つめ直す必要があるようだ。
(文化部 松岡弘城)
IT’S REALITY-CHECK TIME FOR APEC MEMBERS AT ANNUAL MEETING,Asahi Evening News,September 7, 1999, TUESDAY,Business
BYLINE: JUN SAITO
This is the first of a two-part series on the prospects for key meetings of the Asia-Pacific Economic Cooperation forum, which got under way Tuesday with high- level working meetings in Auckland, New Zealand.
TOKYO Ministerial and summit meetings of the Asia-Pacific Economic Cooperation (APEC) forum, scheduled for Sept. 9 through Sept. 13 in Auckland, New Zealand, are expected to face a major test in terms of the organization’s political purpose and identity.
Skeptics say they doubt the regional body actually benefits its 21 members. Others say the APEC is a failure.
This year, the meetings are overshadowed by such major regional political concerns as the instability in East Timor, the missile problem with the Democratic People’s Republic of Korea (North Korea), tension between Taiwan and China, and delicate U.S.-China relations.
Voices of frustration have been heard even from within APEC participants. The Asia-Pacific trading partners are moving too slow to meet their own free-trade targets, the APEC Business Advisory Council (ABAC), a group of business leaders from APEC member economies, said in a letter sent in late last month to New Zealand Prime Minister Jenny Shipley, who will chair this year’s meetings.
”Like all processes that move by consensus and which are subject to the pressure of domestic politics, APEC has, at times, lost sight of its own goals,” ABAC Chairman Philip Burdon said.
His remarks were in sharp contrast to the enthusiasm and high expectations that embraced APEC just a few years ago. The group seemed to be at its zenith in 1994 when APEC leaders pledged, in a declaration issued in Bogor, Indonesia, to liberalize trade and investment in the region by 2010 for developed members and by 2020 for developing members.
”APEC meetings have been unable to come up with any effective measures and plans for realizing market liberalization,” a Foreign Ministry official said.
”This year’s APEC meetings will be a touchstone in terms of the question on whether it can move to meet its original market-opening goal, now that the Asian nations hit by a financial crisis in 1997 are recovering,” the official said. The financial crisis was no doubt a major reason why the APEC has lost its momentum to move toward the goal.
”The process of conflicting interests over the Early Voluntary Sectoral Liberalization (EVSL) initiative in 1998 made people label APEC as something that can do nothing,” said JiroOkamoto, researcher at APEC Study Center of Institute of Developing Economies in Tokyo.
Japan has been held responsible for the initiative’s failure because it rejected the idea of liberalizing commerce in regards to fish and forestry products two of the nine items designated for the initiative in APEC meetings in 1998.
Okamoto takes a dim view of the forthcoming APEC meetings, judging from the prevailing atmosphere at an annual international meeting of researchers and scholars from APEC nations, also in Auckland, in May.
”The atmosphere was totally different from our meeting in Tokyo in 1995,” he said. ”This year, the participants have shared the view that APEC is at a deadlock with no new ideas to reinvigorate the group.”
Helmut Sohmen, chairman of Pacific Basin Economic Council, an association of business leaders from the Pacific region based in Honolulu, was more dramatic in his assessment of the organization. At a symposium on APEC in June in Yokohama, he said, ”We should consider other options.”
Views skeptical of APEC’s raison d’etre have been expressed the loudest in the United States. For example, the Brookings Institution, a U.S. think tank, issued a report in late 1997 that proposed APEC be transformed ”from a feel-good chat forum into one where significant steps toward greater trade and investment openness become a reality.”
No discussions on such reform have ever taken place.
Japan, an APEC founding member, seems to take the organization’s current sorry situation seriously, although it does not have any grand design for the group’s future direction.
”Japan should try by all means to reinvigorate APEC as an effective regional cooperative organization,” said a senior official at the Ministry of International Trade and Industry.
However, he wrote off the notion that APEC has lost its meaning. ”It is one of the important regional bodies for Japan. It should be remembered that APEC has another important function as an economic cooperative body.”
Along this line of thinking, Japan will offer more technical cooperation and education programs to workers in developing nations, the official said.
”Most of the people who say APEC hit a deadlock are from developed nations such as the United States and Canada,” he said.
Philippine President Joseph Estrada said at a symposium on the Asian economy in June in Tokyo, ”APEC continues to be a major vehicle for expanding economic collaboration in various fields.”
The United States is apparently more interested in the trade and investment liberalization side of APEC than its role as an economic cooperation entity.
”APEC has been a sort of battlefield between developed and developing nations,” said Takahiko Tsubouchi, director of political and economic affairs at the Japan-Malaysia Association.
This is exactly why Japan is in a unique position in APEC.
Japan has two faces in APEC the world’s second-largest economy that is required to promote free and open trade and investment, and an Asian power required to play a leading role in helping create a framework for economic cooperation between APEC members.
”This two-face identity has sometimes left Japan with no choice but to be noncommittal in such key APEC matters as trade liberalization,” Tsubouchi said.
”Japan can contribute to the regional body as a nation that can bridge the different perceptions between developed and developing members,” a MITI official said.
Japan’s biggest challenge will be to translate those words into reality, observers said.
ブック「キリスト教原理主義のアメリカ」 坪内隆彦著『流通サービス新聞』、14ページ
日本のマスメディアの米国政治報道の質は決して低くない。
「しかし、エスタブリッシュメントに属する政権内部、議会の動きに関する報道がほとんどで、そこからは社会の底流の動きや少数派、異端者たちの声の政治的意味を十分に知らせることは難しい」と著者は言う。
若年層、低所得層、非白人層への浸透に本腰を入れ始めた米国キリスト教徒連合─米国の政治を完全に牛耳るところまで力を伸ぱす可能性もあり得るその団体を分析。民主党対共和党、リベラル対保守の図式は時代遅れで、産業・ビジネス優先のエスタブリッシュメントに対抗する政治勢力としてキリスト教原理主義の影響力を重視せよという。(亜紀書房刊=03・5280・0261=四六版、二七一ページ、一、六〇〇円)
【書評】「キリスト教原理主義のアメリカ」 坪内隆彦著『産経新聞』1997年4月20日付朝刊、14ページ
アメリカが先端工業国、大量消費国のよそおいの一方で、強固な宗教国家であることは、つとに多くの識者の指摘するところだ。
本書は、キリスト教原理主義といわれるものの動きを、主として政治とのかかわりの中で、具体的に跡づけてゆく。キリスト教原理主義とはキリスト教の一つの宗派ではない。南部バプテスト(洗礼派)にも、エヴァンジェリカル(福音派)、ペンテコスタルにも宗派横断的に見られる信仰態度(運動)で、一言でいうなら、聖書の教えを文言どおりに信じ込んで、たとえば神の天地創造をそのまま疑おうとせず、人間はサルから進化してきたという進化論を決して認めまいとする態度である。
フリーセックスやサブカルチャー運動の六〇年代リベラリズムへの反動として現れたということもあって、家族の重視などアメリカ的諸価値の復権、エリート主義に対するポピュリズム(大衆主義)、政治的には保守、白人中心主義に傾きやすい一種のレイシズム(人種主義)……と位置づけられる彼らは「宗教右翼」とも呼ばれる。その動きを無視して、現代アメリカ政治は語れないといわれるほどだ。特にレーガン政権は、彼らを取り込み、彼らの主張とパラレルだったといわれる。
その後、さしもの原理主義も下火になったかに見えたが、じつはソフト路線への転換にすぎず、大衆への影響力はむしろ増しているというのが著者の見方で、そのことを「キリスト教徒連合」などの動きに即しながら論証する。「リベラル対保守、民主党対共和党」などとは異なる新たな視線が、アメリカ政治を分析するのに必要となってきたようだ。
(亜紀書房・一六〇〇円)
【書評】アジア復権の希望 マハティール 坪内隆彦著『産経新聞』1994年12月18日付朝刊、10ページ
マハティールはとにかく話題づくりの人である。最近のAPECをめぐる米国とのやりとりやEAEC(東アジア経済会議)の強硬な主張は、かつてのスカルノやナセルを彷彿とさせる。明らかな違いはアジア、特に東アジア地域が当時とは比べものにならない経済的実力とダイナミズムをもってしまったことだろう。マハティールは、この変貎するアジアの躍動を背景に、西欧の覇権や論理をだまって受容することを拒否し、価値観や文明理解においても、独自の軸を打ち立てようと確信と執念に満ちている。
この本はマハティールのこういった側面を際だたせつつ、その生い立ちや政治活動を縦糸に、現代のマレーシアの抱える経済・社会問題、特に人種間のバランスや緊張関係の中で近代工業国家を築き上げようとするマレーシアの政治・経済発展の戦略、アジアの主張を浮き彫りにしようとしたものといえる。
第一章がアジア的価値観についてマハティールの考え方の敷衍(ふえん)、第二章が「マレージレンマ」を生み出した生い立ちと思想、第三章では二十一世紀のマレーシアにおける国づくりの戦略を示した「ビジョン二〇二〇」が紹介され、第四章以下、EAEC、マハティールを取り巻くブレーンと組織、日本へのメッセージ、最終章では二十一世紀のアジア主義の行方について、と興味ある論述からなっている。
これらによって、マハティールが単なる啓蒙家や戦略政治家でなく、確信に満ちた思想家、同時に冷徹なオルガナイザーであったことが明白になる。また、EAECやルック・イーストにしても、単なる思いつきでなく、深い洞察に基づくアジアの開発戦略によっていることがわかるのである。日本としても、氏の唱えるメッセージにどう応えるかの責務が問われているといえるだろう。筆者の日本の政治のありようやアジア外交に対するいらだちが、アジア的価値観を現代に覚醒させようとするマハティールへの共感とともに直(じか)に伝わってくるようである。
(亜紀書房・一九〇〇円)
アジア経済研究所主任調査研究員 井草邦雄
【書評】『NO』と言えるアジア」マハティール、石原慎太郎著 『産経新聞』1994年12月1日付朝刊、15ページ
『「NO」と言える日本』から六年。石原慎太郎氏は本書で、ついにアジアの一員としての日本のアイデンティティーを明確にした。「日本人はやはりアジアの民です」「日本文化も本質は歴然としてアジアに属している」と。
討論の相手は石原氏がその「透徹した歴史観」を称えるマレーシアのマハティール首相である。今年のAPECでも、スハルトやクリントンの必死の説得を退け、最後まで「NO」を貫いた信念の政治家である。
アジアの大物政治家二人が、ついに手を結び勢いよく放った「欧米支配の国際秩序への異議申し立て」の書である。ただ両氏が「NO」と言うのは、単に欧米に抵抗するためではない。反欧米の書ではなく、欧米近代の限界を超えてアジアが果たしうる文明史的役割の大きさを主張したものである。
両氏は、「時代の波が再びアジアに戻ってきた」という歴史観を共有し、新しい歴史をアジアがつくりうると、わかりやすくその主張を展開する。
マハティール首相は、欧米近代を超えてもっとすばらしい時代をアジア人の手で築こうという壮大な夢を語る。「アジアが、その文化的価値観を存続させつつ欧米の各種産業を凌駕することができるなら、世界史にもかつて例がないほどの偉大な文明圏の創出が可能となるであろうと思うのです」と。石原氏は「欧米近代のパラダイムに代わる新しいパラダイムをアジアがつくる時代だ」とこたえる。
両氏は欧米的人権の限界を鋭く指摘し、「家族や友人に囲まれた生活」「和を優先する社会」などアジア的価値観の役割の重要性を堂々と唱える。しかも「東洋文明の特性を優位性として欧米にぶつけるつもりはない」という石原氏の発言には、文化相対主義的な健全さが保たれている。
クリントン率いるアメリカ外交とそれに追随する日本外交への厳しい批判となっているだけに、内外で大きな論争を呼び起こすことは間違いない。
(光文社・一一〇〇円)
ジャーナリスト 坪内隆彦