丸山幹治の『副島種臣伯』に「先生の日本主義」という一節がある。
これは、副島の『精神教育』から丸山が抜き書きしたものである。『精神教育』は副島の門人、川崎又次郎が編纂し、同佐々木哲太郎が校閲した。
〈第一編「教導」には、「教ふる時は半分は自分の学問するといふ心あひで教へねばならぬ」「師たるものは言々語々言葉に注意していはねばならぬ」「人を教ふゆるには愛を表にしてゆかなければならぬ。智の方は以心伝心でゆくがよいものである」「孔子の出門如見大賓といふのは、一口にいはゞ人を慢らぬといふまでゞある、人を呵る時は此者の顔にも神は宿つてござると思ふ所である」「凡天下に志あるものは何時で靄然として仁天下を蓋ふものがあるによつて、天地と度を合するものである」。などなどある。
第二編「感化」には「彼の楠氏の時代には、武蔵相模の兵は、日本中寄つても之に当る者が無いといふ程強かつたが、五畿内の兵は、鞭で打たれても直ぐに斃れるといふ程弱い者として有つた、然るに其の鞭で打つても斃れる弱い五百人の兵士を楠が率ゐると、楠の義勇の精神は、直に五百人の兵士の心となり、日本中の兵を引受けて宜いといふ武蔵相模の兵と戦ふて、彼は散々逃げても、楠の兵は一人も逃げたといふ事はない」「楠、児島の精神を知るに依つて万劫末代、志士仁人を起して行く、足利尊氏の為めに奮ひ起つたといふものは一人も無い」「智慧と智慧で来る時は互に相欺くばかりである」「楠の死んだ時でも其首を賊兵が楠の郷里に送つて遣つたと云ふ様な伝へがあるものである、賤までが感ずる」「高山彦九郎の日記と云ふものがある、信濃の人で林康之といふが其日記を持つて来て見せられた事がある。粗末な紙に書いてある、其に高山が伏見を通つた時、伏見に戦気が見える、他日事の有るならば、伏見から始まらうと言つた事が書いてある、然るに御維新の際、伏見の戦争が第一着であつた」「感応とか、感招とか、感化とか、自然と天地人相通ずる所の者がある」「感招の理は信長が一人、尾張に起ると秀吉とか蒲生とか誰とか言ふ様な有名な人は悉く尾張から起つた、家康一人三河から起ると、天下を定むるに足る伎倆の輦が矢張三河から起つた」「富士山も平にすれば何にもならぬ。横幅を利かさぬから高くなる」「孔子等は其人の長ずる所に依つて、一方に長じた人に、一方を長じさする、何もかも利かすと平くなつて何処も利かぬ様になる」などなどある〉
「国体思想」カテゴリーアーカイブ
「王命に依って催さるる事」─田中惣五郎『綜合明治維新史 第二巻』
田中惣五郎は『綜合明治維新史 第二巻』(千倉書房、昭和十九年)において次のように書いている。
〈尾州藩主義直の尊王心は著名であり、大義名分に明かであるとされて居るが、水戸義公の大日本史編纂もこの叔父義直の啓発によるところ尠しとしないと言はれて居る。従来この藩のことは閑却され勝であつたから少しく筆を加へて置かう。義直の著「軍書合艦」の巻未には「依王命被催事」といふ一筒条があつて、一旦緩急の際は尊王の師を興す意であつたと伝へられる。しかしこれは恐らく群雄の興起した際のことであつて、本家の浮沈に当つては、水戸同様いづれにも与せぬ方針と解すべきであらう。そしてこの事は文書に明確にすることを憚り、子孫相続の際、口伝に依て之を伝へた。そして四代の藩主吉通が二十四歳で世を去り、其の子五郎太が尚幼少であつたから、忠臣で事理に通じた近臣近松茂矩に命じて成長の後に伝へしめたものが、所謂「円覚院様御伝十五条」の一で、御家馴といはれるものである〉
わが國體を列国公使に説いた副島種臣
明治四年十一月十七日、大嘗祭が行われた。翌十八日には列国公使に賜餞があった。この場で、副島種臣は次のように大嘗祭の趣旨を述べている。
「昨日、大嘗祭首尾能済て愛たき事極りなし。此祝は天皇一代に一度必ず無くて叶はざるの大祀なり。然れども此度の如く日本全国にて祀りたるは久く年序を経たり。我国民生しでてより以来君主有りて数千歳を経、人民数千万を藩殖せるの今日に至ても猶其昔の君主の統系変ずることなし。此の如きは外国にも珍らしき事なるべし。然るに其の中種々の弊発りて、武臣権を擅(ほしいまま)にし、将軍と云い或いは大名と云う者出来て私に土地を擁し一向君主の権世に行はれざりしが聞知せらるる如く四年前より尽力して大改革の事件漸く整い此大嘗祭を行うに至れり。偖我が天皇の世系連綿絶る事なきは日本国民の幸なるに其権今日に興り全国一主の統御に帰して我民の幸を更に重ぬる事は言に及ばず。我と交る外国人の幸となる事疑ふべからず。此祭の功徳貴国にまで及ぶものあらば即ち貴国君主並に大統領の幸となるべし。今ま貴国と我と両国君主大統領並に其人民の為に之を祝し一盃を勧むるなり」
『副島種臣先生小伝』は以下のように述べている。
「先生が大嘗祭の意義を述べて、我が國體の世界無比なる所以を知らしめたことは、我が国威をして燦然たる光輝を放たしめたものである」
『副島伯閑話』を読む①─枝吉神陽と高山彦九郎・蒲生君平
『副島伯閑話』には、副島の兄枝吉神陽の尊皇思想が明確に示されている。特に注目されるのは、高山彦九郎・蒲生君平の影響である。副島は神陽について以下のように語っている。
「是は唯性質純粋の勤王家であつた」
「是は勤王家であるから、奸雄のことは一口も褒むることは嫌ひである」
「矢張兄も高山蒲生等が好きで、其伝を自ら写して居られた、其中蒲生の著述には殊の外服して居られた、職官志、山陵志、それから不恤緯と言ふやうな蒲生君の著述がある、それから、蒲生の詩集も写して居られた」
ここで、編者の片淵琢は「左に高山蒲生両士の伝を掲げて、世上同好の人士に示す」と述べ、28ページに及ぶ伝記を載せている。これは、枝吉神陽・副島種臣に対する高山彦九郎・蒲生君平の影響の大きさを物語っている。
さらに、副島は神陽について以下のように語っている。
「昌平校で日本書を読むやうなことを始めたのは兄である。是れは間違は無いとこで、佐賀の国学教諭と云ふ者になつて居られた時、皇学寮と云ふものを起されて矢張日本の書を研究する寮を一つ設けられた、それから、楠公の社を起されて、此楠公の社と云へば、二百年前に佐賀の光茂公と云ふ人も加入して居られる、深江信溪其等と一緒に楠公父子の木像を拵へて祭られたことがある、其古い木像が後は梅林庵と云ふ寺にあつた、それを捜がし出しで、兄が始めて祭られた、それで、学校の書生等も、往々それに加はり、或は佐賀の家老あたりも、数名それに出席するやうになった、是が勤王の誠忠を鼓動されたことになつた」
『副島種臣先生小伝』を読む②─兄枝吉神陽
副島種臣の思想形成に大きな役割を果たしたのが、兄枝吉神陽である。藤田東湖と並び「東西の二傑」と呼ばれ、また佐賀の「吉田松陰」とも呼ばれた神陽は、嘉永3(1850)年に大楠公を崇敬する「義祭同盟」を結成している。『副島種臣先生小伝』は、神陽について以下のように書いている。
〈先生の令兄神陽先生は、容貌魁偉、声は鐘の如く、胆は甕の如く、健脚で一日によく二十里を歩き、博覧強記、お父さんの学風を受けて皇朝主義を唱へ、天保十一年閑叟公(鍋島直正)の弘道館拡張当時は、年僅かに十九であつたが、既に立派な大学者で、国史国学研究に新空気を注入して、先生はじめ大木・大隈・江藤・島などの諸豪傑を教育し、天保十三年二十一で江戸に遊学するや、昌平黌の書生寮を改革し勤王思想を鼓吹して、書生問に畏敬され、後、諸国を漫遊して帰藩し、自から建議し、弘道館の和学寮を皇学寮と改めて、其の教諭となつたのは、其の二十七歳の時であつた。後文久二年は四十一歳で歿したが、臨終には蒲団の上に端坐し、悠然東方を拝して、『草莽の臣大蔵経種こゝに死す。』と言つて静かに暝目した〉
『副島種臣先生小伝』を読む①─国体と自由民権
国体を基軸に置く自由民権派の事例としては、例えば福井で「自郷社」を旗揚げした杉田定一の例が挙げられる。杉田は三国町・滝谷寺の住職道雅上人に尊皇攘夷の思想を学び、崎門学派の吉田東篁から忠君愛国の大義を学んだ。興亜陣営の中核を担った玄洋社の前身「向陽社」もまた、自由民権運動として出発している。
副島種臣の民選議院建白にも、国体派の民権思想として注目する必要がある。副島種臣先生顕彰会『副島種臣先生小伝』昭和11年は以下のように述べている。
〈明治七年一月十八日、先生は板垣後藤等と共に民選議院の建白書を提出した。これはもと英国から帰朝した古澤滋が英文で書いたのを日本文に訳したもので、君主専制を難ずるのが眼目であつた。先生は之を見て『抑も我輩が勤王運動をやつたのは何の為か。君主専制に何の不可があるか。』と言つた。板坦等が『それではそこを書き直すから同意して呉れ。』といふので、先生は「宜しい。有司専制と改めれば同意する。有司専制の弊を改める為に議院を作るに異議は無い。」といつて連署に加はつた。そして他にも大分文章に手を入れた。署名は先生を筆頭に、後藤・板垣・江藤其他四名になつて居る。
右の建白が採用されて、明治十四年十月、国会開設の大詔が渙発されたのに対し明治十六年七月、先生は三条太政大臣宛に口上執奏方を請うた。その覚書の中に「神武復古との御名言に背かせられず、尚御誓文中皇威を海外まで輝すこと御実践の儀懇望に堪へず」などいふ文句がある。即ち先生の思想は純然たる日本精神的立憲主義である〉
天野信景『塩尻』の中の尾張氏
尾張藩国体思想の発展を支えた天野信景は随筆『塩尻』において、尾張氏について言及していた。
例えば、「尾張氏は天孫火明尊(ほあかりのみこと)の御子天香山命(あめのかぐやまのみこと)の後胤小豊命(おとよのみこと)の裔也。朝家に仕へて尾張の国造となれり。且代々熱田の祠を奉す。孝徳天皇御宇尾張宿禰忠命御神を今の宮所にうつし奉る」と書いている。また、尾張連については以下のように書いている。
「尾張連は天香山命の孫小豊命の子建稲種命より出、旧事記及び姓氏録に詳也。亦甚目連公(はだめのむらじのきみ)と同じ流れにや。清和帝貞観六年六月八日尾張国海部の人治部少輔従六位の上、甚目連公宗氏尾張の医師従六位上、甚目連公冬雄等同族十六人に姓を高尾張の宿禰と賜はりしよし。三代実録九に見えたり」
ちなみに、愛知県あま市には甚目寺がある。その東門前に漆部神社が鎮座している。同神社の祭神である三見宿祢命は漆部連の祖であり、『旧事本紀』天孫本紀によると、宇摩志麻治命の四世孫で、出雲醜大臣命の子。甚目連公もまたその一族とされる。
尾張氏と皇室
『日本書紀』によると、尾張氏の祖は天照国照彦天火明(あめのほあかり)命であり、その子の天香語山(あめのかごやま)命とともに、紀伊の熊野に移り、神武東征に大功を立てたとされる。
尾張氏は天皇家の外戚として力を振るっていた。尾張連祖瀛津世襲(おきつよそ)の妹である世襲足媛(古事記では余曾多本毘売(よそたほびめ)命)は、第五代・孝昭天皇の皇后である。その子は、第6代・孝安天皇である。また、尾張連祖の尾張大海(おわりのおおしあま)媛(古事記では意富阿麻比売(オオアマヒメ))は、第十代・崇神天皇の皇后である。
その子孫の乎止支(かしき)命は、後に尾張大印岐(おわりおおいき)の娘・真敷刀婢(ましきのとべ)を娶り、尾張国造に任命されて、尾張連と称した。
その子である建稲種命は、日本武尊の東征に副将軍として随行し軍功を上げている。また、その妹の宮簀媛(古事記では美夜受比売)は日本武尊の妃となっている。そのときに預かった草薙剣を奉納して建てたのが、熱田社(熱田神宮)だとされている。
ただし、史実として信憑性が高いのはこれ以後の歴史である。まず、尾張連草香の娘・目子媛が、第26代・継体天皇の皇后だという史実である。その第一子・勾大兄皇子は第27代・安閑天皇として、檜隈高田皇子は第28代・宣化天皇として即位された。安閑天皇二年五月には、尾張に間敷と入鹿の二つの屯倉が置かれている。
さらに、壬申の乱では、尾張氏が大海人皇子を全面的に支援し、第40代・天武天皇の誕生に大きな功績を上げている。尾張大隅が大海人皇子に私宅を提供したとされる。『続日本紀』によると、大海人皇子が吉野宮を脱して関東に行った際、大隅は私邸を掃除して行宮に提供し、軍資を出して助けた。この行宮の場所がどこであったか、それを探究したのが、江戸期の国体思想家・河村秀根である。彼は『書紀集解』(「天渟中原瀛眞人天皇上」)において、行宮の場所が美濃国の野上(現・岐阜県不破郡関ヶ原野上)だと主張した。
『熱田本社末社神体尊命記集説』と尾張氏
天野信景は、元禄六(一六九三)年に『熱田本社末社神体尊命記集説』を著している。同書は、まず熱田社人の著した『熱田本社末社神体尊命記』の記事を掲げ、これに対する関係文献の記事を掲げて、その論拠を示して考証を進めた上で、自説を述べている。当時、熱田社の事蹟は諸説紛糾して定まらず、古来の社伝と相違するものが多かったことが、背景にある。
同書の特徴の一つは、社家尾張氏の古伝を重視している点にある。同書奥書によれば、信景は親戚関係にあり、懇意にしていた祝師田島仲頼から尾張氏の古伝を聞き、それに基づいて書き記している。
同書に示された尾張氏系図略を以下に示す。
吉田神道と垂加神道
■吉田神道の力を強めた「諸社禰宜神主法度」
徳川幕府においては、吉田神道の力が非常に強まった。大きな転機となったのが、幕府が寛文五(一六六五)年に発布した「諸社禰宜神主法度」である。
この法度によって、吉田家が神職管掌の根幹と位置づけられ、官位のない社人は必ず白張のみを着用するものとし、狩衣や烏帽子などの着用には吉田家の許可が必要だと定められたのだ。
近世において、吉田家は神職の家元(本所)として、吉田家と競合していたが、この法度によって、吉田家が地方の大小神社を組織化する上で極めて有利になった。しかし、出雲大社、阿蘇宮、熱田神社など地方大社で、この法度に対する反発が広がった。
では、いかにして吉田神道はこうした特別の地位を得るに至ったのだろうか。吉田神道の大成者として知られるのが吉田兼倶である。彼は、永享七(一四三五)年に卜部兼名の子として誕生した。
兼倶は卜部家の家職・家学を継承し、「神明三元五大伝神妙経」を著して吉田神道の基礎を築いた。応仁・文明の乱(一四六七~一四七七年)後の混乱時に、斎場所を京都吉田山に再建し、足利義政の妻日野富子や後土御門天皇(在位期間:一四六四~一五〇〇)の支持をとりつけた。
また、兼倶は『神道大意』などが自身の家に伝えられたものだと主張したり、伊勢神宮のご神体が飛来したとするなどして、吉田神社の権威を高めたのである。堀込純一氏は以下のように指摘している。
「神祇官伯家の白川家が衰退する戦国初期には、吉田兼倶が吉田神社に大元宮と称する独特の神殿を建て、ここにすべての天神地祇、全国三千余社の神々を勧請し、神祇管領長上などと自称して、神号・神位の授与や神官の補任裁許などを始めた」(堀込純一「藩制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源⑭」)
「神号・神位の授与」は、宗源宣旨として確立された。宗源宣旨は、諸国の神社に位階、神号、神職に許状を授けるために吉田家から出された文書である。 続きを読む 吉田神道と垂加神道