「国体思想」カテゴリーアーカイブ

「日本精神叢書」─國體思想の精華

文部省教学局編纂「日本精神叢書」の一覧

  著者 書名
1 河野省三 『歴代の詔勅』
2 植木直一郎 『古事記と建國の精神』
3 花山信勝 『聖徳太子と日本文化』
4 志田延義 『神樂・神歌』
5 藤岡繼平 『十訓抄と道徳思想』 続きを読む 「日本精神叢書」─國體思想の精華

興亜論と会沢正志斎『新論』─イサム・R・ハムザ氏の解釈

 
 会沢正志斎の『新論』は、文明史的視点を伴なった興亜論(アジア主義思想)の先駆的著作としても位置づけることができる。現在カイロ大学教授を務めるイサム・R・ハムザ(Isam R.Hamza)氏は、「日本における『アジア主義』」(『史学』2006年6月)において次のように書いている。
 〈西欧列強の圧力が徐々に強まってゆくにつれ、日本の対外的危機感は次第に広まり、様々な海防論や攘夷論が著わされた。その中でも、一九世紀前半の鎖国下日本でアジアを含む世界認識の有様をうかがわせる著作は、水戸学派の会沢正志斎(一七八二~一八六三年)の名著『新論』をおいて他にはないであろう。……西欧列強の圧力への反発として当然自国の優越性の認識にむかう動きが生じてきた。会沢もそれを背景にし、世界における日本の位置付けとアジアについて、『新論』でこのように述べている。
 「夫れ神州は大地の首に位す、朝気なり、正気なり
 〈神州は本、日神の開きたまひしところにして、漢人、東方を称して日域となし、西夷もまた神州及び清・天竺・韃靼の諸国を称して、亜細亜と曰ひ、また朝国と曰ふ。皆、自然の形体に因りてこれを称するなり〉。朝気・正気はこれ陽となす、 続きを読む 興亜論と会沢正志斎『新論』─イサム・R・ハムザ氏の解釈

会沢正志斎『新論』関連文献

著者 タイトル 雑誌名 巻・号 ページ 出版時期
先崎 彰容 「日本」のナショナリズム : 会沢正志斎『新論』を読む 新日本学 30 46-57 2013
桐原 健真 『新論』的世界観の構造とその思想史的背景 茨城県史研究 91 68-84 2007-02
桐原 健真 東方君子国の落日─『新論』 的世界観とその終焉 明治維新史研究 3 1-15 2006-12
イサム R.ハムザ 日本における「アジア主義」 史学 75(1) 128-139 2006-06
倉持 隆 『新論』2巻 会沢正志斎(安)著 安政4年刊 安政5年正月 松平慶永(春嶽)自筆書入本 Medianet 13 69 2006
子安 宣邦 国家と祭祀(3)祭祀的国家の理念─『新論』と危機の政治神学(2) 現代思想 31(11) 8-15 2003-09
子安 宣邦 国家と祭祀(2)「天祖」概念の再構築─『新論』と危機の政治神学(1) 現代思想 31(10) 26-34 2003-08
安蘇谷 正彦 会沢正志斎の国家思想(中)の下─わが国初の国防論『新論』の神髄 日本及日本人 1632 76-86 1998-10
安蘇谷 正彦 会沢正志斉の国家思想< 中>─わが国初の国家防衛論『新論』の思想と意義 日本及日本人 1631 50-60 1998-07
三谷 博 「新論」覚え書き─〈「忠孝」の多重平行4辺形〉を中心に 歴史学研究報告 22 1-26 1994-03
栗原 茂幸 「新論」以前の会沢正志斎をめぐって 日本歴史 506 84-88 1990-07
栗原 茂幸 「新論」以前の会沢正志斎─註解「諳夷問答」 東京都立大学法学会雑誌 30(1) 181-231 1989-07
前田 勉 「新論」の尊王攘夷思想─その術策性をめぐって 日本思想史研究 19 15-32 1987
長尾 久 会沢正志斎の「新論」-5- 相模女子大学紀要 49 41-54 1985
長尾 久 会沢正志斎の「新論」-4- 相模女子大学紀要 48 33-44 1984
長尾 久 会沢正志斎の「新論」-3- 相模女子大学紀要 47 41-52 1983
長尾 久 会沢正志斎の「新論」-2- 相模女子大学紀要 46 37-49 1982
長尾 久 会沢正志斎の「新論」-1- 相模女子大学紀要 45 31-41 1981
前田 光夫、安田 耿雄 「新論」における国家観 茨城大学教育学部紀要 人文・社会科学 27 17-28 1978

『新論』の著者が知られるまで

 『新論』を書き上げた会沢正志斎はその一部を丁寧に浄書し、文政九(一八二六)年、藤田幽谷の手を通して、藩主哀公(斎修)に献じました。これを見て驚いた哀公は、
「この書の内容には、見るべきものがあるが、時事を痛論して、論旨余りに激烈に過ぎるから、幕府の忌諱に触れる恐れが十分にある。したがって公刊は見合せるが宜しからう」
と注意したのでした。
 そのため『新論』は、当初一部の人々の間に伝写されるにとどまっていたのです。
 弘化年間(一八四四~一八四七年)になって、烈公が幽囚生活を余儀なくされ、正志斎もそれに連座する形で禁固されました。その間、正志斎の門人は、『新論』を無名氏箸として上木したのです。
 こうして、『新論』は世の中の注目を集めることになりましたが、誰もがその著者が正志斎であるとは知らないままでした。
 例えば、『新論』から深い感銘を受けた川路左衛門尉は、「これは、無名氏とあるが、水戸人の手になったものに違いない。これ程の論文を書く人物は、当今藤田東湖のほかにあるまい」と言ったそうです。
 しかし、やがて『新論』が拡がるにつれて、それが正志斎の著書であることが理解され、彼の名は日本中に広まっていったのでした。

書評 保田與重郎『ふるさとなる大和』

 本書は、保田與重郎の子供向け作品四点(神武天皇、日本武尊、聖徳太子、万葉集物語)を収録したものである。もともとは「子供向け」だが、今日にあっては大人を含めて広く日本人が知っておくべき内容を含んでいる。

 「推薦の辞」で京都産業大学名誉教授のロマノ・ヴルピッタ氏が書いているように、保田の文芸批評家、政治評論家、教育者としての活動はすべて、日本文化を防衛し、維持し、そして次世代へ伝承していくという志から発生して、同じ目標に向かっていた。保田が目指した教育とは、いかなるものだったのか。

 〈教育において知識はそれほど重要ではなく、主な目的は人間の形成であることを保田は主張した。これは東洋的教育の理念によるものである。東洋の教えとは、道義を尊び、人類の崇高な理念を確立することであり、そのために「克己」の精神を養うということは根本である。つまり、自己を抑え、欲望の世界を離れることだ〉(4頁)

 日本文化の行方について、若い世代を頼みにしていた保田は、彼らを対象に本格的な教育活動を展開していた。保田の弟子たちが保田を会長に戴き、昭和三十二年に創立したのが、新学社である。同社から昭和三十八年四月に刊行された『規範国語読本』は保田が単独で編んだものである。 続きを読む 書評 保田與重郎『ふるさとなる大和』

「明日のサムライたちへ 志士の魂を揺り動かした十冊」折り返し点通過

 山鹿素行『中朝事実』、浅見絅斎『靖献遺言』、山県大弐『柳子新論』、本居宣長『直毘霊』、蒲生君平『山陵志』、平田篤胤『霊能真柱』、会沢正志斎『新論』、頼山陽『日本外史』、大塩中斎(平八郎)『洗心洞箚記』、藤田東湖『弘道館記述義』。志士の魂をゆり動かした以上の10冊を取り上げるというコンセプトで、『月刊日本』平成24年8月号から連載「明日のサムライたちへ 志士の魂を揺り動かした十冊」を開始しました。
それから1年10カ月。ようやく『中朝事実』、『靖献遺言』、『柳子新論』、『直毘霊』、『山陵志』の5冊を完了し、折り返し点を通過しました。
平成26年5月号から『霊能真柱』に入ります。初回は生田萬の乱を取り上げました。

蒲生君平の師鈴木石橋の私塾「麗澤之舎」─蔵書の『保建大記』と『靖献遺言』

『月刊日本』平成26年3月号掲載の「明日のサムライたちへ 山陵志② 君平と藤田幽谷を結んだ『保建大記』」の取材のため、2月上旬に栃木県鹿沼市を訪れた。 鹿沼は、蒲生君平と後期水戸学の祖藤田幽谷の出会いを用意した、君平の師鈴木石橋の出身地である。石橋は二十四歳のときに江戸に出て昌平坂で学び、同校の講壇にも上るほどその将来を嘱望されていたが、天明元(一七八一)年に郷里に戻り、私塾「麗澤之舎」を開いて地元の子弟を教育した。彼は天明(一七八一~一七八九年)の大飢饉のときには、私財を投じて窮民の救済に全力で取り組んでいる。 鈴木家に伝わった「麗澤之舎」の蔵書五千余冊は、鹿沼市民文化センターにある同市教育委員会文化課で管理されることとなり、現在その移行作業中である。同課の協力を頂き、「麗澤之舎」の栗山潜鋒『保建大記』と浅見絅斎『靖献遺言』を閲覧させていただいた。 『保建大記』には、各頁の上部に詳細な書き込みがあり、石橋が講義に活用した跡が窺われる。
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皇紀2674年紀元節奉祝式典

平成25年2月11日、皇紀2674年紀元節奉祝式典に参加した。厳かな雰囲気の中で執り行われた紀元節祭に続いて、國學院大学准教授の菅浩二先生による記念講演「建国をしのぶ」を拝聴、大変勉強になった。採択された決議に基づいて、政治にはたらきかけていく必要を痛感する。
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蒲生君平墓表に刻まれた藤田幽谷の撰文

 ああ君蔵は、いつも関東の処士をもって任じ、このため生活は困窮を免れなかったけれども、なお天下の奇男子と称賛するに値する。どうして、かの翩々たる俗儒が、先生といわれているのと同列に扱われようか。私が聞くところでは、君蔵は最期に臨んで、なお天地の正気を称し、三宝の説を述べたという。すなわち、たとえ瞑没するとも、精神は天地の間にとどまって、その正気を意中の人に授けるであろうと。ここにおいて、古人が謂う『死して亡びない者』(『孝経』三十三章)とは、君蔵のことをいうのであろうか。ああ、もはやこのような人傑とは、幽明境を距ててしまった。この私は、誰と語り、誰に従ったらいいのだろうか。
(撰文の結語、安藤英男訳)

会沢正志斎『新論』①

 文政9(1826)年、会沢正志斎は藩主・徳川斉脩に『新論』を上呈した。その冒頭には「謹んで按ずるに、神州は太陽の出づる所、元気の始る所にして、天日の嗣、世宸極を御し、終古易らず、固より大地の元首にして、万国の綱紀なり。誠に宜しく、宇内を照臨し、皇化の曁ぶ所、遠迩有る無かるべし。今、西荒蛮夷は脛足の賎を以て、四海に奔走し、諸国を蹂躙し、眇視跛履、敢て上国を凌駕せんとす。何ぞそれ驕れるや」とある。
 写真は、近藤啓吾先生より頂戴した『新論』。奥付に「會澤恒蔵著 安政四丁巳年八月」とある。