支那事変以降、高嶋辰彦は東洋兵学の重要性を説くようになった。東洋兵学に対する高嶋の思いは戦後も持続した。例えば彼は、昭和三十(一九五五)年七月に「アジア政策における日本の体験と日米相互安全保障の将来」(『月刊自衛』)を著し、東洋では統率即ち人の掌握と統御指導とが兵学の第一義だと説いた。
彼は、ジンギスカンが親兵一万人の姓名を記憶していたという伝説を紹介し、兵の掌握は下士官級、でき得れば兵まで貰かれていなければならないと説いた。その上で高嶋は精神指導、心理掌握のための教育の重要性を指摘した。
さらに高嶋は、戦場や駐留地附近の現地住民の心を味方とすることが必要だと説き、朝鮮戦争に参加した際の中共軍の例を挙げる。高嶋によると、中共軍の「抗美援朝教育」は、現地住民を味方とするために徹底的な教育を行った。
そして高嶋は、東洋においては、敵に向う前に敵地の住民、敵軍の将兵、敵将の側近までみ、できる限り味方にするように工作し、敵将が孤立し、崩壌する寸前に、敵住民に歓迎されながら進軍して行くのが名将の術とさえ言われていると述べ、次のように書いている。
「これらの点でソ連や、中共の戦略、手法はアジア、東洋兵学の真髄をつかんでいる点がある」
本来、日本でもこうした兵学が維持されていたが、明治以降の兵学は多くを西欧に学んだため、現地住民、敵地住民、敵将兵を味方とする様な兵学は後退してしまった。
さらに高嶋は、西欧兵学はアジアにおける地上戦や、駐留勤務に困難を来す盲点が存するのではないかと指摘する。この高嶋の指摘は、アジア各地での反米機運の効用、ベトナム戦争でのアメリカの敗北というその後の歴史を予見しているかのようである。
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富塚正輝「真の日本近代史の見方 示す」(『山形新聞』令和4年12月14日付朝刊)
エッセイストの富塚正輝氏が『山形新聞』(令和4年12月14日付朝刊)に拙著『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』の書評を書いてくださいました。誠にありがとうございます。
木村武雄(米沢市出身)といえば「元帥」という愛称で知られ、戦後田中角栄内閣では建設大臣として、また日中国交正常化の黒子として活躍した政治家である。昭和史の裏側が主な活躍の場だったせいか、まだ正常な評価が得られていない。本書は木村武雄の生涯を追ったものである。
木村は戦前、満州事変の首謀者であった石原莞爾(鶴岡市出身)の薫陶を受け、日本・満州・支那(現中国)の対等な連携を謳う「東亜連盟」立ち上げに尽力した。これで西洋のアジア侵略に対抗しようとしたのだ。これを著者は王道アジア主義とし、西欧列強とともにアジア大陸での眼前の利益や果実をむさぼり食らうことに精いっぱいで、日本をアジアの盟主と思い上がった東条英機や武藤章ら統制派陸軍軍人らと、それらに阿諛追従(あゆついしょう)していた思想家やマスコミ人のことを覇道アジア主義として峻別する。しかし、それらは終戦とともに連合軍によって一緒くたに解体させられた。
そうした中でも、木村は王道アジア主義思想を受け継ぎ、日中国交正常化を成し遂げた。しかし、日中接近を嫌うアメリカの逆鱗に触れ、田中はロッキード事件で葬り去られた。
実は明治維新以降、王道アジア主義的な思想こそ日本近代の精神史の象徴であり、主流であった。しかし覇道アジア主義者により換骨奪胎され、大きな誤解を生んだ。現代の戦後教育の現場では、これらの事象はことごとく隠蔽されてしまっているので、日本近代史の本当の姿が見えてこない。本書は木村を通して、真の日本近代史の見方を提示する。
また面白いことに、王道アジア主義の系譜として「置賜アジア主義」という言葉が存在するという。その源流は、幕末維新期に活躍した宮島誠一郎(米沢藩士)に発し、その息子・宮島詠士(大八)へと連なり、石原莞爾を経て、その末端に木村武雄がいるのだ。
残念なのは、本書での木村の行動の言及の中で、蓋然性が高いとはいえ、想像や推測が多いこと。最も歴史の裏の裏を語る時にはつきものなのだが。ともあれ、現在の日中関係の現状を木村は天国からどう見ているのだろう。
高嶋辰彦「世界に冠絶する皇道兵学兵制の完成」①
令和四年十二月に策定された国家安全保障戦略には、「サイバー攻撃、偽情報拡散等が平素から生起。有事と平時の境目はますます曖昧に。安全保障の対象は、経済等にまで拡大。軍事と非軍事の分野の境目も曖昧に」と書かれている。軍事的手段と非軍事的手段を組み合わせた、いわゆる「ハイブリッド戦」の時代が到来しているということである。
まさにいま、西欧兵学兵制の限界を克服し、皇道に基づいた日本独自の兵学兵制を活用する時がきているのではないか。そこで浮かび上がってくるのが、戦前に皇道兵学兵制を説いた高嶋辰彦の思想的価値である。
同時に、わが国は欧米列強の覇道主義に抵抗する過程で、自らが覇道主義に陥り、日本軍は皇軍としての誇りを失ってしまったかに見える。それが日支事変の戦局にも暗い影を落としていたのではあるまいか。日本を取り巻く安全保障上の環境が厳しさを増す中で、自衛隊は防衛力の強化の前に皇軍としての誇りを取り戻す必要がある。そのためにも、高嶋が唱えた皇道総力戦思想に学ぶべき時である。
高嶋は、昭和十三年十月に、「世界に冠絶する皇道兵学兵制の完成」(『偕行社記事』)を著し、次のように指摘した。
「今次支那事変の体験は、東洋における於ける戦ひが、其の質に於て欧州大戦をも凌ぐ複雑多岐の一面を有し、高次なる我が皇道総力戦を以てして始めて克く之が解決を期し得べきことを明かにした。是れ此の事変の有する世代的、世界史的重大意義と、東洋の実情、我が国の特性等との然らしむる所である。
是に於て近世世界を風靡せるの感ありし西欧流の兵学、兵制も亦更に遥かに高次なる新興兵学兵制の前に、縦横に批判せられ、嶮厳なる栽きを受けざるを得ない趨勢となつて来た」
高嶋は東洋の実情と我が国の特性と西欧兵学兵制とを対比する。自然現象の活用という観点については、次のように指摘している。
〈西欧の自然は単一である。其処に発達したる兵学が地形主義万能に堕し、自然現象の活用に於て幼稚なるは言を俟たない。之に反し東洋のそれは実に千変万化、其の複雑多岐なる点に於て世界に冠たるものがある。所謂「天の時」が古来の東洋乃至日本兵挙に於て重要視せられた所以であらう。
炎熱、大旱、酷寒、氷結、大雨、颱風、洪水、飢饉、黄塵等の大規模周到なる兵学的活用は、正に東洋兵学者の究明創設すべき重要課題である〉
高嶋はこう述べて、大地の活用を指摘する。
〈西欧の大地も亦単一である。其処に発達した兵学が地形主義万能とは謂へ、尚甚だ単純なる地形を基礎としあるも亦止むを得ない。然るに東洋に於ける大地の変化は又世界に冠たるものがある。所謂「地の利」の高唱は之に因するのであらう。
大規模なる山岳、密林、濕地、湖沼、河川、平原、沙漠等及其等の内に生成する幾多の動植物は限り無き多元性を展開して居る。乃ち之に関する大局的兵学上の運用原理の開拓も亦東洋兵学の見逃すべからざる重大任務と謂ふべきであらう〉
次に高嶋は大海洋の活用を説く。
「日本を繞る海洋の広大にして複雑なるは之れ亦到底西欧の比ではない。唯々此の方面に於ては英国及最近の米国が類似の戦場を予想して居る。故に我等の努力としては、大海と複根なる小海との関連、海洋と大陸との連鎖、之に伴ふ陸海空三軍の有機的協同運用に兵学研究上の重点が指向せらるべきであらう。
次に「人の統御と操縦とに依る思想手段の重要化」についてこう述べる。
「西欧陸地上の人性は単純である。一見理窟多きが如く見ゆる徒等は、強権強力の前に、又は思想的指導の前に案外単一従順なるは歴史の示す所である。此処に発達したる兵学が「人」の統御と操縦とに関する取扱ひに於て、比較的あつさりして居ることは当然である。然るに東洋大陸に於ける人は全く之と其の選を異にする。柔なるが如くにして靭、屈したるが如くにして実は然らず。単純なる強権強力は動もすれば意外の反発に遭ひ、向背離合容易に予想すべからずして、今日の主従朋友忽ちにして明日の敵味方となる。所謂「人の和」が重要視せらるゝ所以であらう」
藤本隆之さん、ありがとう
藤本隆之さんが令和4年9月16日に永眠されました。謹んで哀悼の意を表します。
寂しいです。いまも藤本さんの顔を思い浮かべると、あの独特の口調で話す彼の声が聞こえてきます。
「ボクはボクですから」
「俺はやるどー」
「急ぐべからず、慌てるべからず」
「お主も、〇〇だね」
「ラジャー」
「あいよ」
そして、酔えば「酒の一滴は血の一滴」……。
藤本さんと最初に直接お会いしたのは、平成10(1998)年前後だったと記憶しています。新嘗祭で小田内陽太さんから紹介していただいたのが、最初だったと思います。以来、親しく付き合わせていただきました。死ぬほど飲みましたね。周囲は、「致死量を超えるほど飲んでいる」と呆れていました。
いつも最後は、「原宿に行くぞー」と言って、馴染みのロック・バー「ハーフムーン」に連れていかれました。若い頃は、とことん付き合いました。
私が藤本さんの寿命を縮めたA級戦犯であることは間違いないところでしょう。私は、藤本さんから「お前、飲みすぎだよ」と真顔で言われた人間ですから。
最初の頃は、酔って意見が対立すると、いきなり頭突きをしてきました。5回ほど頭突きをされたことがあります。
『月刊日本』副編集長の尾崎秀英君を、藤本さんに紹介したときのことです。やはり議論が白熱し、いきなり藤本さんは尾崎君に頭突きを食らわせました。ところが、尾崎君も引きません。思いっきり頭突き仕返したのです。以来、藤本さんが頭突きをする頻度は次第に減り、やがてしなくなりました。尾崎君も酒を飲み過ぎたことが発端で病気になり、40歳の誕生日を前に亡くなりました。藤本さん、あの世で尾崎君とはもう対面しましたか。
平成24年(2012)年5月15日、岐阜護国神社で五・一五事件80周年大夢祭が開催されました。前日の14日、廣瀬義道さんらとともに、東京から車で岐阜に向かいました。
藤本さんは、焼酎の水割りを水筒に忍ばせて後部座席に座り、こっそり飲り始めました。途中、飲み過ぎて手洗いに行きたくなった藤本さんは、高速道路走行中に、運転していた廣瀬さんに「止まれ」「おい、止まれよ」と、繰り返し叫びました。廣瀬さんは、やむを得ず路肩に停車。藤本さんは、車から飛び下り、慌てて用を済ませた瞬間、足を踏み外して崖から転落。皆、櫨本さんは崖底まで転落し、逝ってしまったと思ったことでしょう。皆、言葉を失いました。
それでも「生きているかもしれない」と思った私は、「藤本しゃちょーーー」と大声で叫んでみました。すると20メートルほど下の方から「おー」という声が聞こえてきました。枝に引っかかって、下まで転落するのを免れたようです。崖から這い上がってきた藤本さんは、「悪い」と言って、何事もなかったように車に乗り込みました。
その1年後の平成25(2013)年のある日。新宿で散々飲んで泥酔。「次行くぞ」と言ってフラフラと中華料理店に入ろうとして、ガラスに向かって突進。その瞬間、ガラスが粉々に割れました。そこに藤本さんは倒れ込みそうになりました。それを助けたのが私です。以来、「お前は俺の命の恩人だよ」と言ってくれるようになりました。
その後も、お互いに酒の失敗を繰り返しつつ、飲み続けました。やがて、藤本さんのホームグラウンドは、下北沢のバー「トラブルピーチ」になりました。酔っぱらって携帯を頻繁になくすため、奥さんに携帯の所持を禁じられました。そのため、連絡を取り合うのが、面倒でしたね。
平成28(2016)年10月29日に大アジア研究会主催で、山下公園において、フィリピンの英雄アルテミオ・リカルテ生誕百五十年記念祭を開催した時には、二日酔いのまま、東京から横浜までタクシーで駆け付けてくれました。令和元(2019)年10月26日に、富士霊園で開催した三上卓先生墓前祭にも参加してくれました。この時もやばかったですが。
ただ、私と藤本さんは酒を飲んでいただけではありません。国を憂いて真剣な議論もしました。何よりも、藤本さんからは、酒を介して、多くの方をご紹介いただきました。その事を何よりも感謝しています。
藤本さんは、交流が深まるにつれ、私が書いたものにも注目してくださいました。ただ、遠慮なく言い合える仲でしたので、厳しいことも言ってくれました。「文章に艶がないね」「文章は下手だね」と。
「だけどお前もブレずに書いてるね」ということで、『月刊日本』に書いた連載をまとめて、平成20(2008)年11月に、展転社から「アジア英雄伝ー日本人なら知っておきたいに十五人の志士たち」を出版していただきました。
翌平成21(2009)年4月2日に、文京シビックセンターで出版記念会を開いていただきました。深く感謝しています。その後も、展転社から『維新と興亜に駆けた日本人―今こそ知っておきたい二十人の志士たち』(平成23年)と『GHQが恐れた崎門学─明治維新を導いた國體思想とは何か』(平成28年)を出版していただきました。
やがて、藤本さんは展転社を退職。私は月刊日本を退職。
ちょうど2年前の令和2年12月12日、藤本さんは福永武さんの協力を得て、大東会館を借りて壮行会を開いてくださいました。そこで、同志を集めて私を励ましてくれました。『維新と興亜』が本格稼働を始めた時でした。深く感謝しています。
藤本さんは体調を崩していましたが、『維新と興亜』の顧問にも就任してくださり、営業面でも編集面でも的確な助言をしてくれました。書店取次のJRCにも同行していただき、『維新と興亜』の書店販売の道を開いてくれました。
また、オンラインで開催している『維新と興亜』塾「橘孝三郎を読み解く」(講師:小野耕資)や維新と興亜懇談会には欠かさず参加され、議論を盛り上げてくださいました。
藤本さんは、『維新と興亜』が今年7月22日に敢行した外務省前抗議街宣(日米地位協定改定要請)にも参加し、街宣車に上って堂々たる主張を訴えました。久々に街宣車からの演説をして闘志に火がついたのか、また街宣をやりたいと言い始めました。しかし、残念ながらそれが実現することはありませんでした。
藤本さんは、今年10月22日に還暦を迎えるはずでした。そこで、8月に入ると私は稲貴夫さんたちと相談し、還暦のお祝いを企画しました。ところがその矢先、藤本さんは逝ってしまいました。
最晩年、肝硬変について尋ねると、藤本さんは「大したことねえよ。医者も飲んでいいって言ってる」と言い張りました。「そんなはずはない」と思ってましたが、それでも藤本さんに、「一切飲むな」と言うことはできませんでした。私がもっと強く止めていればと悔やまれます。しかし、藤本さんは最後まで自分らしい生き方を貫かれました。酒は全力で走るためのガソリンだったのですね。
藤本さん、ありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。いずれ、そちらで一献やりましょう。
稲村公望氏による『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』紹介(令和4年12月6日)
郵政関係者に読まれている、いわゆる専門紙の「通信文化新報」に令和4年1月31日号から、「石原莞爾の理想を体現した男・木村武雄」の連載が始まったが、このたび、一冊の単行本としてまとめられた。本書の主人公、木村武雄という山形県米沢出身の政治家が、もう日本人の記憶から忘れられかけようとしている軍人の石原莞爾が主張した「王道アジア主義」を具体化する第一歩として、日中国交正常化を位置付けたことを詳細に後付けている。本年9月29日が日中国交回復50年の節目の年にあたり、しかも、米中がそれぞれ覇権を求めて激しい対立関係に陥り、日中関係では、中国が拡張独裁の帝国化したのは、日本が国交を正常化して、大々的に援助して経済発展を後押しして、それが、結局中国を軍事大国化させたのではないかとの批判がある。著者は、「王道アジア主義とは、覇道の原理でアジアに迫る欧米の勢力を排除し、王道の原理に基づいたアジアを建設することにある。王道とは道徳、仁徳による統治であり、覇道とは、武力、権力による統治だ。王道アジア主義の基本原則は「平等互恵の国家関係を結ぶ」「アジア人同士戦わず」である。」と定義している。日中国交正常化を、客観的に滔々と流れる歴史の時間軸のなかで検討して再評価する、日中関係史の必須の文献として時宜を得た出版となった。木村武雄は、中国側の交渉相手、廖承志と共に、日中国交正常化の実質的な裏方の役割を果たしたが、政治の世界では、裏方の「影武者」に徹したために、これまで見るべき評伝もなかった。一読すれば「かつては、このような立派な政治家がいたのか」との感懐を持つに違いない。
著者は、「王道アジア主義は、西郷南洲を源流として、宮島誠一郎、宮島大八、南部次郎、荒尾精、根津一、頭山満、葦津耕次郎というった人物に継承されていた。」と、明治以来の日中関係の歴史を概観する。日本と中国との外交に係る思想史の文献ともなっている。木村武雄が、大陸国家の中国とばかりではなく、潜在的海洋大国であるインドネシアのスハルト大統領との間にも深い信頼関係があったことにも驚かされる。現代日本の政治家のなかに、胸襟を開いて外国の政治指導者と電話一本かけられる関係をもつ政治家がちゃんといるだろうか、あるいは、クリスマスカードや年頭の挨拶状等を外国に100枚以上出している国会議員がいるだろうか、と心配する向きも出てこよう。
木村武雄の出身地の米沢では、「どんなに損をしようが、貧しい思いをしようが、自分の意志を頑なに貫き通すという一徹さを持った人のことを「そんぴん」という。もともと「損貧」と書いたらしい。」木村武雄は、名君、上杉鷹山公の生きざまも継承した人物のようだ。
本書全213ページの構成は、次のとおりである。まえがき、第一章 政治家・木村武雄の誕生、第二章 石原莞爾と東亜連盟、第三章 王道アジア主義の源流、第四章 執念の日中国交正常化、第五章 田中角栄失脚の真相ー王道アジア主義を取り戻せ、あとがき。
新刊紹介『通信文化新報』令和4年11月21日付)(『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』)
9月29日に日中国交正常化50周年を迎えた。日中国交正常化は両国首相の田中角栄と周恩来が実現したが、影の主役は木村武雄と指摘す
る。正常化に邁進した木村の原動力は王道アジア主義。
アジアを直視し、アジアの独立と繁栄が日中の調整に始まるとしたのが戦前からの王道アジア主義。その実現として日中国交正常化を位置づけた。木村は佐藤栄作首相を動かそうとした。しかし「笛吹けど踊らず」。木村は諦めず、田中角栄に期待した。
これまで、日中国交正常化における木村武雄の役割に光が当てられなかったのは、彼が「政界の影武者として生きる」と決めていたことという。さらに大きな理由は、アメリカにとって不都合な人物と認定されたからとする。黙殺されてきた木村の日中国交正常化の役割と王道アジア主義について明らかにしている。
五十嵐智秋「忘れられた日中友好に取り組んだ政治家・木村武雄」(『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』レビュー、令和4年10月29日)
戸川猪佐武の『小説 吉田学校』には、四十日抗争(大平正芳と福田赳夫の派閥争い)を仲介する役として、田中(角栄)派の木村武雄(「元帥」のあだ名を持つ)が出てくる。それだけ永田町では「円満」な人柄として慕われていたのだろう。評者もその程度しか認識が無かった。
今回、坪内氏が「木村武雄の日中国交正常化」に焦点を当てた事で、自民党内の派閥争いを調停する長老役としてだけでなく、西郷隆盛から石原莞爾へと続く「王道アジア主義」を木村武雄が体現しようとしていたことが理解できる。それは昭和47年の田中角栄内閣における日中共同声明が木村武雄の「影武者」的活躍があったればこそである。
しかし、明治以降・戦前の時代背景も有るが、どうしても大陸(中国・支那)との友好が強調され、台湾(国民党)との関係性があまり出てこないのが残念であった。田中角栄の日中共同声明における台湾問題については、田口仁氏の「田中角榮と中国ー日中共同声明と台湾問題」(『維新と興亜 創刊号』)に譲りたい。また、概要的な台湾問題については小林よしのり氏の『台湾論』などもあるので、今後も研究を深めたいと思っている。
アジア主義に関する新聞記事(2015年~)
近年、新聞がアジア主義に関連する記事を掲載することは滅多にない。
以下にその僅かな記事を紹介する。
見出し | 発行日 | 新聞名 | |
---|---|---|---|
<時評 論壇>中島岳志*国際秩序貢献の「アジア主義」を | 2022.04.26 | 北海道新聞朝刊全道 6頁 | |
アジア主義の可能性探る | 2022.02.04 | 沖縄タイムス朝刊 24頁 | |
「大アジア主義講演会の地」プレート 今も重い、孫文の言葉 | 2018.10.08 | 毎日新聞地方版/兵庫 25頁 | |
孫文国際会議 神戸で 生前「大アジア主義」講演 | 2018.09.12 | 読売新聞大阪朝刊 27頁 | |
弘前 28日にシンポジウム「明治アジア主義と東北・津軽」 | 2018.04.24 | 東奥日報朝刊 15頁 | |
きょうの歴史 孫文の「大アジア主義」講演 1924(大正13)年11月28日 | 2015.11.28 | 東京新聞朝刊 31頁 | |
経済、文化、タイと蜜月 日本人「兄貴分」と頼りに [第4部]「アジア主義の虚実」 | 2015.09.08 | 熊本日日新聞朝刊 | |
中国、怒とうの経済支援 アジア太平洋 盟主への道へまい進 [第4部]「アジア主義の虚実」 | 2015.08.14 | 熊本日日新聞朝刊 | |
日本中心の「夢」に限界 大川周明の理念 解放掲げ侵略正当化 [第4部]「アジア主義の虚実」 | 2015.07.23 | 熊本日日新聞朝刊 | |
生き続けた謀略の人脈 対ミャンマー「利用」と「協力」 [第4部]「アジア主義の虚実」 | 2015.07.09 | 熊本日日新聞朝刊 | |
アジア主義の虚実(4) 盟主を狙う中国 経済力で勢力を拡大 | 2015.06.22 | 信濃毎日新聞朝刊 4頁 | |
アジア主義の虚実(3) 荒波かわし日韓で起業 無言貫くロッテ創業者 | 2015.06.08 | 信濃毎日新聞朝刊 4頁 | |
アジア主義の虚実(2) 欧米から解放唱えた支配 | 2015.06.01 | 信濃毎日新聞朝刊 4頁 | |
アジア主義の虚実(1) 戦時から「利用」と「協力」交錯 | 2015.05.25 | 信濃毎日新聞朝刊 4頁 |
アジア主義関連文献(雑誌記事、2015年~)
著者 | タイトル | 雑誌名 | 発行日 | |
---|---|---|---|---|
関 智英 | 孫文大アジア主義演説再考―「東洋=王道」「西洋=覇道」の起源 | 竹村民郎著作集完結記念論集 | 2015 | |
木村 実季 | 孫文の「大アジア主義」講演をめぐる解釈論について | 中日文化研究 | 2015 | |
尹 虎 | 1919年前後における日中「アジア主義」の変容と分極の諸相 | 国際日本学 | 2015-01-30 | |
佐々 充昭 | 近代日本の大アジア主義と大同思想-満州国の「王道主義」を中心に- | 韓国宗教 | 2016 | |
劉 金鵬 | アジア主義における「平和」の発見 : 戦時中竹内好のアジア主義的活動に関する考察 | ぷらくしす | 2016 | |
嵯峨 隆 | 宮崎滔天とアジア主義 | 国際関係・比較文化研究 | 2016-03-01 | |
三浦 周 | 近代仏教学とアジア主義 | 大正大学綜合佛教研究所年報 | 2016-03 | |
堀田幸裕 | 東亜同文書院の「復活」問題と霞山会 | 同文書院記念報 | 2016-03-31 | |
李 長莉 | 宮崎滔天と孫文の広州非常政府における対日外交 —何天炯より宮崎滔天への書簡を中心に— | 同文書院記念報 | 2016-03-31 | |
安井 三吉 | 孫文「大アジア主義」講演と神戸 | 孫文研究 | 2016-06 | |
クライグ・A スミス、団 陽子 | 王道 : 孫逸仙のアジア主義と東アジアの民族主義への応用 | 孫文研究 | 2016-12 | |
木村 実季 | 近衛文麿「東亜新秩序」と孫文「大アジア主義」との接点 | 中日文化研究所論文集 | 2017 | |
土佐 昌樹 | 日韓関係とナショナリズムの「起源」(3)夢野久作と「狂気」の萌芽 | AJJ | 2017 | |
大堀 敏靖 | 頭山満・大アジア主義 : その現代的意義を探る | 群系 | 2017 | |
武内房司 | 大南公司と戦時期ベトナムの民族運動 : 仏領インドシナに生まれたアジア主義企業 | 東洋文化研究 | 2017-03 | |
クリストファー・W・A・スピルマン | アジア主義の起源とそのイデオロギー的位置付け | EURO-NARASIA | 2017-03 | |
山之城有美 | 「煩悶」の源流としてのアジア主義:『順逆の思想-脱亜論以後-』を素材として | 日本女子大学大学院人間社会研究科 | 2017-03-22 | |
松浦 正孝 | 財界人たちの政治とアジア主義 : 村田省蔵・藤山愛一郎・水野成夫 | 立教法学 | 2017-03-25 | |
野村 幸一郎 | 大川周明のアジア主義 : 国際検察局尋問調書を起点として | 言語文化論叢 | 2017-09 | |
峯 陽一 | 「南」の地政学 : アジア主義からアフラシアの交歓に向かって | 現代思想 | 2017-09 | |
宮本司 | 竹内好「アジア主義の展望」における“民族”について -林房雄の“民族”観を媒介として- | 教養デザイン研究論集 | 2017-09-08 | |
福家 崇洋 | 帝国改造の胎動 : 第一次大戦期日本の国家総動員論とアジア主義 | 社会科学 | 2017-09-11 | |
福井 紳一 | 反逆のメロディー(第5回)橘樸と左翼アジア主義 : 「東亜」の新体制を提起する廣松渉の絶筆に寄せて | 出版人・広告人 | 2017-10 | |
高埜健 | 近現代日本のアジア主義に関する一考察――征韓論から東アジア地域主義まで(一) | アドミニストレーション | 2017-11 | |
福井 紳一 | 反逆のメロディー(第6回)尾崎秀実と世界革命 : 東亜協同体論と左翼アジア主義 | 出版人・広告人 | 2017-11 | |
渡辺 新 | 方法としての大アジア主義 : 東亜研究所時代の平野義太郎 | 政経研究 | 2017-12 | |
橋本 順光 | 英国公文書館所蔵の大川周明「日本における汎アジア主義の精神」翻訳及び解題 | 阪大比較文学 | 2018 | |
加納 寛 | 東亜同文書院生の香港観察にみる「アジア主義」:対イギリス認識を中心に | 文明21 | 2018-03-25 | |
田中 希生 | アジア主義について : 武士と大陸浪人 | 人文学の正午 | 2018 | |
梶原 英之 | アジア主義のロゴスとカオス | 日本主義 | 2018 | |
笠井 尚 | アジアの解放のために日本の変革を説いた大川周明 | 日本主義 | 2018 | |
小野 耕資 | 思想としての「アジア主義」を考える | 日本主義 | 2018 | |
李 彩華 | 頭山満のアジア主義 | 哲学と現代 | 2018-02 | |
原田 敬一 | 東学農民運動と日本メディア | 人文學報 | 2018-03-30 | |
中野 聡 | アジア主義 : 記憶と経験 | 現代思想 | 2018-06 | |
馬場 毅 | 問題提起 : 東亜同文書院,アジア主義,対日協力政権 | 現代中国研究 | 2018-07-21 | |
嵯峨 隆 | 樽井藤吉と大東合邦論 : 日本の初期アジア主義の事例として | 法學研究 | 2018-09 | |
劉 争 | 竹内好のアジア主義からの再発見 : 現代日中知識人の思考 | 神戸山手大学紀要 | 2018-12-20 | |
嵯峨 隆 | 思想 第一次世界大戦と日中アジア主義 | 近代中国研究彙報 | 2019 | |
王 美平 | 小寺謙吉の大アジア主義についての一考察 -その中国観を手掛かりに- | アジア太平洋討究 | 2019-01-31 | |
李 彩華 | 梁啓超と章炳麟のアジア主義言説 : 近代日本のアジア主義への対応の視点から | 哲学と現代 | 2019-02 | |
深町 英夫 | 同文同種? 孫文のアジア主義言説 | 孫文研究 | 2019-03 | |
邱 帆 | 榎本武揚のアジア主義と対東アジア外交 | 日本歴史 | 2019-04 | |
楽 星 | 帝国日本の大乗的使命 : 大正期における大谷光瑞とアジア主義 | 近代仏教 | 2019-05 | |
李 凱航 | 高山樗牛と人種・黄禍論 : アジア主義への接近 | 史学研究 | 2019-10 | |
戴 國煇 | アジアの中の日本 : 「脱亜論」と「大アジア主義」を重ねて読み直し、再考したら!? | myb | 2019-10 | |
滝口 剛 | 東方文化連盟 : 一九三〇年代大阪のアジア主義 | 阪大法学 | 2019-11-30 | |
浦田 義和 | オリエンタリズムとアジア主義 | 比較文化研究 | 2020 | |
呉 舒平 | 孫文のアジア主義と新中国(1)日中提携の模索と中国興業会社の設立 | 法学論叢 | 2020-06 | |
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呉 舒平 | 孫文のアジア主義と新中国(3・完)日中提携の模索と中国興業会社の設立 | 法学論叢 | 2020-12 | |
川上 哲正 | 日中の狭間にアジア主義を考える | 初期社会主義研究 | 2021 | |
シナン レヴェント | 戦後日本の対中東外交にみる民族主義 : アジア主義の延長線 | 国際政治 | 2021-03 | |
モルヴァン・ペロンセル | 日清戦争以前の政教社の言説におけるアジア主義 ―国粋主義との関連について― | 中京大学国際学部紀要 | 2021-03-19 | |
アドム ゲタチュー | アジア主義からナショナリズムへ : アジアにおける革命運動の変遷 | Foreign affairs report | 2021-09 | |
呉 舒平 | 辛亥革命前の犬養毅のアジア主義(1)中国保全と経済的日中提携論 | 法学論叢 | 2021-12 | |
劉 金鵬 | 1960年代における革命理想とアジア主義 : 竹内好のアジア論を中心に | 広島大学文学部論集 | 2021-12-25 | |
玉置 文弥 | 「宗教統一」とアジア主義 : 大本教と道院・世界紅卍字会の連合運動「世界宗教連合会」の活動実態から | 宗教と社会 | 2022 | |
何 金凱 | 近代日本アジア主義とその中国における受容と再解釈 ─李大釗の「新アジア主義」を中心に─ | 愛知論叢 | 2022-02-01 | |
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唐崎家を支えた吉井家の歴史
唐崎定信は闇斎が「道は大日孁貴の道、教は猿田彦神の教」と説き、猿田彦神を祭ることとした教えにしたがい、竹原市本町にある長生寺に庚申堂を建てた。その時、定信に協力したのが、吉井半三郎当徳(まさのり)であった。
吉井氏の先祖は、豊田郡小泉村に住んでいた小早川氏の家臣吉井肥後に遡る。寛永の初め頃、その子源兵衛が竹原下市に移住し、米屋を営み、さらに質屋も営んで財を蓄えた。源兵衛は、慶安三(一六五〇)年、竹原に塩田が開かれると、いち早く塩浜経営に乗り出し、吉井家の基盤を築いたのである。明暦三(一六五六)年には、二代目米屋又三郎が年寄役に任ぜられている。これ以降、吉井家は代々年寄役を務めることとなる。
唐崎定信が闇斎に学び、竹原に戻った延宝四年頃、吉井家の当主は三代目の当徳であった。唐崎家と吉井家は、定信・当徳の時代から崎門学を通じた深いつながりがあったということである。しかも、定信の後を継いだ清継の妻は吉井家から嫁いでいる。
清継の子の信通や彦明、さらに孫の赤斎の遊学費用を、吉井家が負担していた。唐崎家は代々師について崎門学を学んだが、それは吉井家の支援があったからこそ可能だったのである。例えば、信通は、谷川士清や松岡仲良の塾に入門し、彦明は三宅尚斎の門に入り、赤斎もまた長期間に亘って谷川士清や松岡仲良に学んだ。
吉井家もまた、唐崎家を支援するだけではなく、崎門学を学んだ。一族の吉井正伴(田坂屋)は玉木葦斎に学び、葦斎の歿後は松岡仲良に学んでいる。また、同族の吉井元庸(増田屋)も松岡仲良に学んでいる。六代目米屋半三郎当聰は、十五歳の時から闇斎の高弟植田艮背に従学していた。だからこそ、当聰は赤斎の精神を理解し、庇護者として彼の活動を助けたのである(金本正孝「唐崎赤斎先生碑の建立と吉井章五翁」)。