亜細亜人民たるものの大義
彼が残した書簡には、その思想がはっきりと示されている。例えば、明治18年6月16日に父に宛てた書簡には次のように書かれている。
「乍併東洋の大勢は是より平和に相成る事には中々無之、仏は已に安南を横領し、英は又々朝鮮の巨文島を占奪し、露は頻りに支那朝鮮を窺ひ、独も亦同じく支那朝鮮に手を出さんと存居候由なれば、東洋の危急は日を逐ふて相迫り候。東洋の危急は支那朝鮮のみにあらず、我国の形勢は最も危急に相成居申候。……一身を擲ち内は国家の綱紀を扶植し外は東洋の全勢を振興する事に力を尽さゞるべからざる儀と存候。国家の綱紀を維持するに力を用ふるものは同志の士に任じ、不肖に於ては外事即ち東洋振興の事を自任する積にて奮発罷在候」
また、伊犂探検に出る半年前の明治22年3月25日に書いた長文の書簡では、次のようにその思いを綴っている。
「夫れ和するも戦ふも容易に行はるべからずと致せば、今日の如く為すことなきに放棄するより外致方なしとせんか、清国の勢は遂に欧州諸国の為に制せられ東洋の事亦恢復すべからざるに至り可申、是れ国家を憂ふるものゝ実に痛哭涕長大息する所にして、奮進勇為大計大略を定め長久の基を立てざるべからざる所以に御座候。……東洋形勢此の域に至り候上は力を計り才を顧み候暇無之儀にて、鞠躬尽力斃而後止、亜細亜人民たるものゝ職分を全ふする而已に有之候。苟も自ら先んじて亜細亜人民たるものゝ大義を天下に唱へ、亜細亜遠大の策を天下に明に致し候得者、我国小なりと雖ども清国衰へたりと雖ども、必ず風を聞いて起つもの可有之、仮令不肖生前に志を達する能はざるも不肖の志を継ぎ之を達するもの有之候得者満足の至に有之候」