■なぜ蘇峰の父は「一敬」と号したのか
徳富蘇峰は、竹原の崎門学派・唐崎赤斎の顕彰碑碑文を撰したのをきっかけに、崎門学への思いを一層強めていった。やがて蘇峰は、横井小楠やその門人であった父一敬らについても、次のように書くに至る。
「世間では横井小楠を目して、陽明学派と称するも、彼は本来山崎学派にして、小学、近思録、大学或門、中庸或門輯略などは、彼自ら読み、且つ門人にも課した。而して其の門人たる吾が父及び其弟の如きも、闇斎を崇敬するの余り、闇斎の名たる敬義を分ち用ゐ、一敬、一義と称してゐた程であつた。又小楠の学友長岡是容、元田永孚の如きも、亦然りであつた。固より彼等は永く崎門の牆下には立たなかつたが、其の門戸は是れに由つた。されば元田永孚の 明治天皇に御進講申上げたる経書の如きも、彼が如何に山崎学に負ふところの多大であつたかは、今更之をくだくだしく説明する迄もあるまい。若し地下の闇斎先生にして知るあらば、吾道の明治聖代に際して、大いに世に明らかになりたるを、定めて思ひ掛けなき幸運として感謝したであらう」(「歴史より観たる山崎闇斎先生及び山崎学」『山崎闇斎と其門流』伝記学会編、明治書房所収)
この蘇峰の一文に誇張したところはない。崎門の楠本碩水が編んだ『崎門学脈系譜』付録には「私淑派」というカテゴリーが設けられており、そこには吉井正伴、吉井底斎、長岡温良(監物)、横井小楠、元田東野、徳富淇水、徳富龍山らの名前が記されているのだ。徳富の父徳富淇水は一敬と、淇水の弟龍山は一義と号していたのだ。また、平泉澄は『解説近世日本国民史』で次のように書いている。
〈蘇峰の晩年に、といふよりは最後に面談した時に、遺言として色々話があつた中に、淇水の諱一敬の敬も、龍山の諱一義の義も、また蘇峰の諱正敬の敬も、すべて是れは山崎闇斎の諱敬義の一字を貰つたのであると、私に語られた。また其の幼年時代に母の膝の上に抱かれながら、謝畳山(枋得)の詩「雪中の松柏いよいよ青々」を聴き覚えに覚えた事は、蘇峰自伝に見えてゐる。して見れば徳富家は、江戸時代かなり有力に肥後に伝はつてゐた山崎闇斎の学問を以て家学としてゐた事、明かである〉
すでに蘇峰は大正七(一九一八)年六月三日に『近世日本国民史』の執筆を開始していた。そのきっかけは、明治天皇の崩御であった。明治という時代の終焉に当り、蘇峰は「明治天皇御宇史」の著述を決意したのである。
大正十三(一九二四)年十一月四日には、崎門学派弾圧事件が発生した宝暦、明和の時代を扱った第二十二巻「宝暦明和篇」を書き始め、大正十四年二月十三日に脱稿している。同巻では、「尊王斥覇の思潮」の一章を割いて、以下のように述べている。
「国典の研究は、決して幕政の支持に有利ではなかつた。歌人は、万葉、古今の王朝を偲び、律令格式の学者は、朝政の盛時を慕ひ、歴史研究者は、皇祖肇国の大業を仰ぎ、何れの方面に於ても、慕古の思想を萌生し、而して慕古の思想は、やがて、復古の思想たらざるを得なかつた」
蘇峰は、「宝暦明和篇」起稿前年の大正十二(一九二三)年の八月には、「月田蒙斎」という随筆で次のように書いている。
「山崎派の本山とも云ふ可きは、京都の望楠軒であった。望楠軒の主盟は、若林強斎・西依成斎而して最後に梅田雲浜だ。若し夫れ九州に於ける山崎派の学統は、肥後の月田蒙斎より、肥前の楠本碩水に至り、延いて今日に及んでいる」(『第二蘇峰随筆』大正十四年所収)
■徳富蘇峰・平泉澄・有馬良橘が崎門学継承を強く意識した昭和三年
崎門学の継承において、蘇峰が果たした役割は極めて大きい。その活発な活動は、平泉澄との出会いによって拍車がかけられたように見える。
以下、高野山大学助教の坂口太郎氏の「大正・昭和戦前期における徳富蘇峰と平泉澄」(第十九回松本清張研究奨励事業研究報告書、平成三十一年三月)に基づいて、蘇峰と平泉の関係について紹介したい。
両者の好誼は、大正十五(一九二六)年から蘇峰が亡くなる昭和三十二(一九五七)年まで三十年以上にわたって続いた。
平泉は蘇峰を追悼した「徳富蘇峰先生」で、「私が先生より受けましたもの、又先生が私に対して示されました深い御理解、或は御愛顧といふものが、殆ど日夜咫尺して居ると異ならぬやうに私は感ずるのであります」と述べている。
蘇峰の『近世日本国民史』の連載が『国民新聞』で開始された大正七年、平泉は東京帝国大学文科大学の学生だったが、国民新聞に載った「国民史」の連載を切り抜いて読んでいたという。
両者の直接的に交流は、『国民新聞』が主体的に運営していた国民教育奨励会での活動を通じて始まっている。大正十五年八月に奈良県吉野山蔵王堂で開講された師範大学講座において、平泉は「国史通論」と題して講演したのだ。以来、平泉は蘇峰から講演会の講師として招聘されるようになる。
また、蘇峰は平泉の『神皇正統記』研究を支援していた。蘇峰は貴重な自らの蔵書である、『神皇正統記』の梅小路家本・登局院本を特別に平泉に貸し出している。
そして、昭和三年は蘇峰と平泉、さらには海軍大将の有馬良橘が崎門学の継承を強烈に意識する年となる。その年は、橋本左内の七十年忌に当っていた。左内の顕彰に注力していた平泉は、左内七十年忌に際して、盛大な講演会と展覧会を催すべく、蘇峰に講演を懇望したのであった。同年十月七日、東京小松原の回向院において、橋本左内の墓前祭が斎行され、その後、東京帝国大学仏教青年会館に場所を移して、記念祭典と講演会が開催された。「橋本左内先生」と題して講演を務めたのが蘇峰である(坂口太郎「大正・昭和戦前期における徳富蘇峰と平泉澄」)。
蘇峰は翌十一月、昭和天皇の即位御大典に際して京都に赴き、海軍大将の有馬良橘の案内で黒谷にある闇斎の墓にお参りしている。平泉が予てから尊敬していた有馬と出会うのは、翌十二月のことだ。平泉は、同月十四日に開催された、海軍の退役高級武官の親睦修養組織「有終会」主催の講演会で、「歴史を貫く冥々の力」と題して講演し、崎門学の真価を訴えたのである。平泉は次のように振り返る。
〈旅順口閉塞の壮挙に感激して、少年の日より其の高風を慕ひつつも、御目にかゝる機会もなくてゐたのであつたが、それが思ひもよらぬ事から知遇を得るに至つたのは、昭和三年十二月十四日の夕であつた。……有終会の例会で講演するやう依頼を受けて、芝公園の中にある水交壮に赴き、約二時間に亘つて講演をした。題目は、「歴史を貫く冥々の力」といふのであつたが、内容は主として山崎闇斎の学問が、強い感銘を門人に与へ、門人は之を孫弟子に伝へ、孫弟子はまた自分の門下に伝へ、代々相承けて百年二百年の後に及び、幕末の風雲に際会して、斯学の本領を発揮し来り、明治維新の大業に貢献した概略を述べたのであつた。しかるに此の講演が終るや、有終会の会長有馬大将が起たれた。大将は、先づ会長として謝辞を達べられた後、語をついで言はれた。
「此の機会に、自分個人としても御礼を申したい事がある。自分は明治天皇御大葬の時、桃山御陵まで供奉してのかへりみち、京都に於いて先祖の墓参りをして、はからずも闇斎先生の墓前をよぎり、それが無縁の墓として草莽々と茂つてゐるのを悲み、それより年々修理をし、掃除をして来たのであるが、その縁につながつて先生の事蹟を考究するにつれ、ますます仰慕の念に堪へないので、世間の人が之を閑却してゐるのを歓き、自分で講演した事もあるが、自分等の力では何の影響を与へる事も出来ず、平生之を遺憾としてゐたのであつた。ところが今日の講演、実によく先生の真面目を明かにしてくれられた事は、自分として無上の喜を感ずる所である。」
これは私の思ひ設けないところであつた。ひとり私ばかりでは無い。誰が大将から、このやうな感慨を聞かうと予期したであらう。あゝ旅順口閉塞の勇将は、実はその純忠の精神を、深い学問によつて培はれ、遠い伝統を正しく継承して居られるのであつた。そして此の一夕、昭和三年十二月十四日夕、思ひ設けざる遭逢が、やがて幾多の影響を後年に及ぼしてゆくのである〉
■闇斎二百五十年記念会
平泉は、昭和五(一九三〇)年に欧米に外遊、昭和六年七月に日本に帰国した。同年十一月十六日、有馬大将の希望により、平泉は再び有終会から招かれ、水交壮において、「国史家として欧米を観る」と題して講演している。
そして、昭和七年六月中旬、平泉は渋谷の大山町で有馬大将と面会した。すると有馬は、「今年は闇斎先生亡くなられてから、丁度二百五十年に当るので、この秋にはお祭りをして、その学恩を報謝すると共に、その精神を世間に明かにしたいと思ふ。就いては其の一切の事、御心配にあづかりたいが、どうであらうか」と語った。
実は、平泉は昭和七年が闇斎歿後二百五十年に当ることに気づかずにいたのである。そこで、平泉は自分の迂闊を詫びて、「それは私共こそ考へるべきでありましたのに、ボンヤリして居りまして、相済みませぬ。就きましては、全力をあげて奔走いたし、思召にそふやうにいたします。ともかくも、四、五日のうちに、具体的に立案しまして、御指図を仰ぐ事にいたしませう」と答えて、去ろうとした。すると、有馬は平泉を呼び止め、闇斎歿後二百五十年記念会の運営資金として、自分のポケットマネーで五百円を渡したのだった。
平泉は井上哲次郎から適切な助言を得て、祭典その他行事の主体となる会を組織した。闇斎の神道思想面は京都下御霊宮司の出雲路通次郎と東大史料編纂所の山本信哉博士、儒教思想面は内田周平と岡次郎(彪村)に依頼することとなった。
平泉はすぐに有馬に報告し、一同会合協議の上、出雲路、山本、内田、岡を評議員、その上に有馬を会長としていただき、四人の下に幹事として平泉が事務を執るという体制が固まったのである(平泉澄『続々山河あり』)。
■「歴史より観たる山崎闇斎先生」
平泉らは、記念行事として祭典、ご贈位の申請、講演会、展覧会、記念図書の出版の五つを計画した。
祭典は、昭和七年十月二十三日に東京帝国大学の大講堂で開催された。また、講演会は東京と京都の二か所で開催された。東京での講演会は祭典と同じ日に、同じ場所で開催された。内田周平、上田萬年とともに、東京での講演会の講師を務めたのが徳富蘇峰であった。
翌昭和八年二月、蘇峰は『東西史論』を出版している。そこに収められた「歴史より観たる山崎闇斎先生」こそ、闇斎二百五十年祭の講演内容である。
「御承知の通り孔門の弟子は三千と云つて居る。然るに我が闇斎先生の門人は六千である。即ち孔子の倍である。而して此の六千の子弟は、単に先生の学説を伝へたばかりでなく、皆其の学説を生命あるものとして、受取つてをるのであります。……日本全部殆ど崎門の感化を受けないところはないのであります。凡そ日本人として、直接間接に、崎門の影響を受けないものは恐らくない……先生は単なる学問として理論的に自分の説を吐いたのではない。先生の学問は先生の信仰である。先生の学問は、先生の宗教である。即ち先生は自分の議論を単なる理屈として述べられたのではない。生けるところの魂として、之を述べられたのである。それで崎門の学者は、先生から理屈を習つたのではない。理屈と云ふものは、昔から大概決つたものである。程朱が説いた理屈を是迄ずつと総ての人が伝承して来て居るのであつて、何ぞ之を以て我が闇斎先生を偉なりと云ふことが出来ませう。然るに一度朱子学が我が山崎闇斎先生を通して現れる時には、其の学問は山崎闇斎先生の人格を以て現れる。従つて山崎闇斎先生の人格を以て朱子学は及ぼされて来たのである。此点が私は山崎先生の学派が、非常なる勢力を以て現れた所以と思ふのであります」
蘇峰は、教育者としての闇斎について語り、門下の佐藤直方と浅見絅斎を対比した。蘇峰によれば、佐藤は闇斎に「砂糖」を加え、そして水を足したような人であるのに対して、絅斎は闇斎を「詮じ詰めたエキス」だと評した。そして、次のように続ける。
「(闇斎の)国民的自覚、尊皇的祈願は何れから出て来た乎と云へば、先生は日本の国史に、夙に眼を著けられて居る。即ち歴史的精神、是に眼を著けられたと云ふのが、どうも偉いと思ふ。……山崎闇斎先生は水戸義公と共に道を極むる事が極めて徹底的で、我が国民の真髄を把握して居られた。それは何乎と云へば、日本の歴史の骨髄である。皇室の淵源からして、日本の歴史の骨髄を考へなければならぬ。そこに着眼せられた」
蘇峰の崎門学への傾倒は、赤斎の顕彰碑碑文の撰文が契機となっていたのである。