敗戦の瞬間、占領軍によってわが国の国体の破壊が開始された。この苦難の時代を耐え抜いて国体精神を守り抜いたのは、先人の魂を伝えるために身を挺して日本人であった。中でも広島県・竹原の崎門学派・唐崎赤斎の魂を伝えようと志した同門、同郷の吉井章五の不屈の精神こそ、日本人が忘れてはならない歴史の一つなのではなかろうか。
筆者は令和四年七月、竹原市を訪れ、赤斎ゆかりの礒宮八幡神社に向かった。吉井が幾多の困難を乗り越えて建立した赤斎唐崎先生碑の前に立つと、「首向宮闕」の四文字が目に飛び込んできた。赤斎の遺墨だ。徳富蘇峰撰、上田鳩桑書の碑文冒頭には「先生、覇府(幕府)鼎盛の世に当り、尊皇の大義を首倡し……」とある。この碑こそ、吉井が赤斎顕彰に人生を懸けた証である。
筆者はいま、崎門正統を継いだ近藤啓吾先生門下の金本正孝先生の研究を継いで、赤斎の足跡を令和の世に伝えようとしている。
吉井が「年来の素願」であった赤斎顕彰碑建立に動いたのは、昭和四(一九二九)年秋のことであった。吉井は上京し、熊本新聞主幹を務めた同郷の村上定を訪問、顕彰碑の建設について相談したのである。村上はただちにこれに賛同し、篆額は東郷平八郎大将に依頼してはどうかと提案した。吉井が村上に宛てた書簡が残されている。
「……唐崎先生之碑文之儀、種々御厄介之儀御頼申上候処、早速御賛同御承諾被下喜悦大に力を得申候、既に申上候通り小生年来の素願にて、此機を失しては、永久に国士を礼賛する標識、望無之事と信じ申候。又一郷之思想を永久ニ誤らしめざるは之に優るもの無之存候。此素願を是非共達成致度く存申候間、何卒微衷御洞察の上、此上とも万事御援助賜候て所願貫徹せしめられ度御願申上候。篆額之儀、興国標的たる大偉人東郷大将の御揮毫の御気付は更に大妙、宜しく〱御心添被下、又書の儀は其内東都なり平安の大家御考慮被下候様願申候……」
金本は、この書簡が出されたのは昭和四年十一月八日だと推測している。
吉井の念頭には、碑文を徳富蘇峰に依頼することがあったに違いない。村上は蘇峰と交友があったからだ。昭和五年が明けると、吉井の念願は蘇峰に伝えられたのである。蘇峰が約半年かけて練った文稿は、同年六月二十七日に吉井に届けられた。