はじめに
第一章 政治家・木村武雄の誕生
「俺は馬賊になる」
党人政治家・安達謙蔵との出会い
そんぴん(損貧)
「十一教授追放事件」
「混濁の世に社会正義を貫き徹す」
「自分が農民の先頭に立って戦う!」
突然逃げ出した石原莞爾
王道アジア主義への道
アジア統合と「国体と融合した仏教思想」
「満蒙占領論」から「満蒙独立論」への転換
橘樸の王道論
詠士を「覇道あることを許さぬ真人」と称えた笠木良明
稀有の大文章「自治指導部布告第一号」
石原莞爾と笠木良明の不幸なすれ違い
協和会に混在した王道アジア主義と覇道アジア主義
大亜細亜建設協会と大亜細亜協会
第二章 石原莞爾と東亜連盟
特使として派遣された宮崎滔天の長男龍介
石射猪太郎の和平工作
「日本は日清戦争以前にまで逆行するぞ」
「国民政府を対手とせず」
近衛三原則と東亜連盟
中山優の警告
「この日本軍が皇軍と僭称することを天はゆるすであろうか」
「支那難民救恤運動」の開始を訴えた葦津耕次郎
中野正剛と東亜連盟
東亜連盟協会を旗揚げ
石原─板垣─辻ラインが進めた「アジア大学構想」
辻政信が起草した「派遣軍将兵に告ぐ」
「日本主義」に潜む西洋覇道主義
日中の危機回避に動いた繆斌と権藤成卿
「西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城となるか」
汪兆銘は孫文の対日批判を切り落としたのか
東亜連盟に対する弾圧の開始
覇道アジア主義に飲み込まれる王道アジア主義
東条に歯向かい続けた木村武雄
上海の「木村公館」─王道アジア主義の牙城
木村の一声で集まった六十万トンのコメ
周恩来と東亜連盟
第三章 王道アジア主義の源流
八紘一宇(八紘為宇)に侵略的な意味はない
「派遣軍将兵に告ぐ」に示された八紘一宇
木村武雄の八紘一宇論
王道アジア主義の源流・西郷南洲
南洲は征韓論など唱えていない
「支那のことは宮島(誠一郎)に聞け」と仰せられた明治天皇
曽根俊虎と興亜会
宮崎滔天と孫文
王道アジア主義者を輩出した宮島詠士の善隣書院
人種差別撤廃を唱えた宮島詠士
中野正剛の名刺をもみくちゃに捩りつぶした詠士
南洲の東洋経綸と道義外交を引き継いだ荒尾精
「漢口楽善堂」に集結した興亜の志士
南部次郎と日華提携の真義
「将来の中国のためにこそ中国を撃つ」
皇国の天職と「百年の長計」
松井石根大将処刑の逆説
清国変法自強派と東亜会の連携
「明治維新に学べ」─康有為に影響を唄えた黄遵憲『日本国志』
日清両国の君主の握手
「乙未同志会」から同文会へ
東亜同文書院の精神
書院の建学精神を体現した石射猪太郎
第四章 執念の日中国交正常化
アジアの団結に対する強い危機感
「ペリーを呼んでこい」
辻政信の潜伏に手を貸した東亜連盟の同志たち
公職追放によって阻まれた木村武雄の動き
石原莞爾最後の言葉
総選挙で躍進した東亜連盟系候補
「秘密独善の外交一掃」を掲げる
日本民主党に加わらなかった木村武雄
鳩山一郎政権と反米ナショナリズム
廖承志・高碕(LT)貿易の端緒
三木武吉による「木村打倒」によって落選
日中接近を阻んだアメリカ
木村武雄と陳毅外交部長との会談
スハルト政権との太いパイプ
スハルトへの直談判で実現した第三十六師団(雪部隊)の遺骨収集
自民党内の親台派と親中派
佐藤栄作は親台派だったのか
「毛沢東と会う」と言った佐藤栄作
ニクソン・ショック後の自民党の変化
石原莞爾との誓い─御成山公園に聳え立つ「石原莞爾分骨記念碑」
幻の「佐藤栄作・王国権会談」
「佐藤内閣をここまで追い込んだ責任は岸・賀屋グループにある」
「田中さんの人柄に惚れてしまった」
ポスト佐藤は官僚ではなく党人派に
佐藤の逆鱗に触れた木村武雄
日中国交正常化を推進した外務官僚・橋本恕
外務官僚などに任せず、自ら中国の胸の中に飛び込む
田中派旗揚げの瞬間
北京の決断と木村武雄
国家公安委員会委員長として右翼を抑える
「今、日本の東亜連盟の同志はどうしていますか」
第五章 田中角栄失脚の真相─王道アジア主義を取り戻せ
「ジャップたちが上前をはねやがった」
高をくくっていたアメリカ
キッシンジャーの「秘密兵器」
親台派の強烈な反発を招いた日中国交正常化
怒号が飛び交った総理帰国当日の両院議員総会
日中航空協定交渉に反発した青嵐会
木村武雄と中川一郎の「激突対談」
田中退陣と「三木おろし」
木村武雄の交通事故には謀略説も
日中平和友好条約締結に情熱を燃やした木村武雄
渡辺三郎衆議院議員の追悼演説
日中蜜月の時代から日中対立の時代へ
アメリカを恐れる日本の指導者たち─田中角栄失脚のトラウマ
肇国の理想を失った国家は「生ける屍」だ
今も生きている黄禍論
大東亜共栄圏と「一帯一路」構想─王道アジア主義を取り戻せ
おわりに