生活保護法も渋沢が実現させた?!『水戸学で固めた男・渋沢栄一』レビュー(れんぢらう氏、令和3年10月18日)

生活保護法も渋沢が実現させた?!
 渋沢栄一がアツイ。新しい一万円札の顔に決まった上、大河ドラマにもなったからだ。
 正直歴史好きであっても、渋沢自身についてはさほどの関心はなかった。ああ、あの松下幸之助みたいにおエライ実業家が明治の頃からいたのね。…その程度の認識しかない。
 ところが今回の大河では徳川慶喜が目立っている。草彅クン演じるところの最後の将軍。ほとんど主役を喰う勢いだ。もちろん慶喜はもう20年以上も昔に同じ大河でモックンが演じている。けれども最終回で大政奉還を描いたまでで、その後の人生については一筆書きで触れられた程度だ。
 渋沢が主人公ともなれば、明治以降の慶喜も見られる。そんな調子で近年の大河では珍しく毎回逃さぬように観てきたわけだが、とうぜん烈公・斉昭や藤田東湖も登場。そうなれば、水戸びいきとしては半永久保存版として記録媒体に落とすしかない。
 本書では、そんな渋沢栄一と水戸学との関わりがテーマ。そもそも水戸出身でも何でもない渋沢に、水戸学との接点はあったのか。いや接点なんていう生ぬるい話ではない。「水戸学で固めた男」ともなれば尋常ではない。
 慶喜公の伝記を渋沢が編纂したことくらいは知っていた。肝腎の『昔夢会筆記』はツンドクだが、実業家・渋沢と水戸学というのは、とても結びつくものではない。だいいち埼玉の深谷出身とあれば、水戸藩とは一切関係ない。主君の慶喜から情報を得たのか。いや、それより遥か以前から、渋沢は「深谷の吉田松陰」と呼ばれる人物から尊攘思想を学んでいたのだ。
 それがどんな人物であるか?それは本文に譲るとして、若き渋沢は、横浜で焼き討ち事件を謀るほどの筋金入りの尊攘派だったのだ。
そして、福祉事業家としての渋沢の姿。この時代の富裕層ともなれば、社会事業家として、慈善活動で名声を得ることはさほど珍しい話はない。しかし、当の渋沢にしてみれば、天皇陛下の〝大御心〟に応えたまでということになろう。
 明治末期、日露戦後の弛緩した空気の緊縮を図って戊申詔書が発せられたが、その数年後に「施療済世の勅語」が出されたことは、それほど知られていない。長年の条約改正の宿願を果たした日本は、漸く医薬品を入手することすらできな困窮した国民に救いを手をさしのべようとしたのである。早くから養育院院長も務めた渋沢は、「済世勅語」を拝したことで、いっそう貧民救済事業にも奔走したのだ。大正期に火災に見舞われた知的障害児の教育施設・滝之川学園の再建に尽力したのも渋沢である。
 91歳の病身を押してまで、生活困窮者の支援をめざした救護法成立をめざし、反対する政府関係者への説得にあたったのも最晩年の渋沢だった。
 実は水戸学にも義公以来、藤田幽谷・東湖、会沢正志斎を経て、烈公に到るまで、「蒼生安寧」という愛民の思想が継承されていた。渋沢の「合本主義」の根柢に、こうした水戸藩の経世済民思想が流れていた―だとすれば「尊王攘夷」だけでは決して括れない水戸学の新たな一面にも光を当てたことになろう。
 その他、本書では、頭山満や蓮沼門三らの愛国団体との意外な接点も掘り起こしている。
500もの企業の創設に関わったとされる渋沢だが、その後も日本では数多くの名経営者と呼ばれる事業家は登場している。しかしながら、今や多くの富裕層は私的な利益の追求が持てはやされ、まじめな経営者の方もおられるとは思うが、渋沢のいう合本主義とはほど遠い。
 新政権の登場で、漸く政府も重い腰をあげて、構造改革以来長年わが国を拘束してきた新自由主義路線を見直し、「成長と分配」が掲げられるようになった。しかしながら、リーマンショック以上の経済危機に見舞われる今日、日本の格差社会は渋沢の生きた時代以上に加速化しているようにも見える。
 今や「功利なき道義」と「道義なき功利」が蔓延。渋沢ブームの背後で、もはや合本主義という理念そのものが死語と化している。
本書を繙けば渋沢という人物が決して〝日本資本主義の父〟という見方では括れないことを知るだろう。

坪内隆彦