垂加神道の系譜
山崎闇斎は朱子学の敬慎説を中心に据え、吉田神道と伊勢神道などの要素を加えた独自の神道として垂加神道を唱えた。吉田神道は吉川惟足から、伊勢神道は度会延佳から、それぞれ伝授されている。こうして、闇斎は天地開闢の神の道と天皇の徳とが唯一無二なるものと主張した。 |
代議士を務めた有馬秀雄所蔵の垂加神道の伝書によると、「山崎闇斎─正親町公通─玉木葦齋(正英)─谷川士清─唐崎士愛(常陸介)─有馬守居」という系譜が記録されている(三上卓『高山彦九郎』平凡社、1940年、152頁)が、これこそ高山をめぐる勤王思想のネットワークに連なる系譜なのではあるまいか。この系譜のうち、玉木葦齋は闇斎門下だが、橘家神道を橘家から初めて嫡子以外で相伝された人物でもある。(平泉澄編『闇斎先生と日本精神』)
前もって言えば、高山らの熱烈な勤王は、反独裁・弱者救済の思想と表裏一体の関係にある。彼らの勤王運動が、幕府権力に弾圧された人々への共感に支えられていた所以である。昭和維新運動を試みた三上卓は、『高山彦九郎』で次のように書いている。 「先生が生れながらに啓示された使命は、全国の山沢巌穴の間から、時を同じうして湧出する高山彦九郎的義人の総結集と、朝廷公卿有志との連絡、やがては宝暦、明和、安永の三事件による犠牲者の霊を弔ふに足る一大勢力を提げて、討幕の義軍を興し陣容堂々、建武未遂の偉業を完遂せんとするに在つた」(三上『高山彦九郎』65頁)。 |
宝暦、明和、安永の三事件
まず、宝暦、明和、安永の三事件を見ておきたい。宝暦事件は、宝暦8(1758)年に、京都で公卿たちに尊王論を説いていた竹内式部が追放された事件である。式部は、松岡仲良、五本葦斎に垂加神道を学んでいた。
式部は、垂加神道に基づいて、桃園天皇の近習徳大寺公城はじめ久我敏通、正親町三条公積、烏丸光胤、坊城俊逸、今出川公言らに講義をしていた。また、式部から奥義を伝授された徳大寺や坊城らは自ら桃園天皇に神学を講じた。当時、式部の門下で垂加神道を学んだ伏原宣条もまた、桃園天皇に進講していた。彦九郎は伏原からも垂加神道を学んでいた。
垂加神道に基づいた天皇、公卿への講義によって、朝幕関係が悪化することを警戒した前関白の一条道香らは、桃園天皇の養母青綺門院藤原舎子を動かし、進講を止めさせようとした。だが、それができなかったため、宝暦8年に徳大寺ら公卿8名を罷免し永蟄居に処し、その他十数名に謹慎を命じ、翌年式部は追放に処せられた。
この宝暦事件に連座したのが、安芸国竹原の礒宮八幡神社の神官、唐崎士愛(常陸介、1737~1796年)であった。唐崎は、磯宮八幡神社境内の千引岩に宋の文天祥筆の「忠孝」の二文字を刻した。これは、祖先が闇斎からもらったものだという(http://ww4.enjoy.ne.jp/~t-tosi/takehara1.htm)。
唐崎は、宝暦元(1751)年、伊勢の谷川士清(1709~1776年)のもとで垂加神道を7年間学んだ。士清は、日本で初めて五十音順の国語辞典を作ったことでも知られる。
士清は、宝永6(1709)年、伊勢の町医を営む谷川義章の長男として生まれた。医者を志して京都に遊学し、医の宗家福井丹波守に学び医師免許を受けた。だが、彼は京都で医学だけではなく、垂加神道を学んだ。まず、松岡忠良に指導を受け、次いで松岡の師、玉木正英に入門している。そして、宝暦元(1751)年には、20年あまりかけて研究した日本書紀の注釈書『日本書記通証』(全35巻)を完成させている。
さて、宝暦事件に関連して閉門を命じられた唐崎は、圧力に屈することなく、禁をおかして、彦九郎とともに、京都や九州の同志の間を往復し、遊説してまわった。
一方、式部が追放された宝暦9(1759)年、闇斎門下で神官の加賀美桜塢等に師事した山県大弐(1725~1767年)は、『柳子新論』を著し、「天に二日なく、民に二王なし。忠臣は二君に仕えず」と尊王論を説き、「賄路の俗、朝野に公に行わる」など幕政を批判した。
大弐は、その対立者から幕府転覆を謀るものだと讒訴され、宝暦事件にも連坐していた同志の藤井右門とともに捕えられ、明和4(1767)年に処刑された。これが、いわゆる明和事件である。藤井右門は享保20(1745)年、京都に遊学して式部を知り、尊王論を説くようになった。
もう一つの安永事件とは、安永2(1773)年から3年にかけての禁中賄方の不正に対する幕府の大量検挙である。これについて三上は、「明和、宝暦両事件に対する報復、朝威を失墜させんが為の権略、不正に名を仮る国事犯人の徹底的検挙等々、幕府が此検挙によつて収穫せんと期待したものは、複雑多岐に亘つて居たことであらう」と書いている(三上『高山彦九郎』63頁)。そして、三上はこの事件によって反幕気分がさらにエスカレートしたととらえている。
光格天皇の仁政と尊号運動
ところで、大弐が処刑された4年後の明和8(1771)年に、光格天皇が生まれている。光格天皇は、その8年後の安永8(1779)年11月、後桃園天皇の急逝に伴って、わずか9歳で即位した。藤田覚氏が指摘している通り、やがて、光格天皇は「日本国の君主としての天皇」という意識を強烈に持つに至る。天下万民に仁を施すという光格天皇の姿勢は、例えば寛政11(1799)年7月28日に後桜町上皇から与えられた教訓に応えた手紙にも明確に示されている(藤田覚『幕末の天皇』(講談社、1994年)、77頁)。
天明の大飢饉が発生したのは、光格天皇即位から3年後の天明2(1782)年からである。飢饉の直接的な原因は連年の冷害、多雨による凶作であったが、過重な年貢負担や商品経済の浸透に伴う商人資本の収奪等の要因もあった。何より食料備蓄を怠った幕府の責任も追求された。
天明7年に入ると、米価が急騰し、各地で打ちこわしが発生した。こうした中で、同年6月、光格天皇は幕府に対して窮民救済策の指図を開始し(『幕末の天皇』66頁)、救い米の放出という結果をもたらした。
また、光格天皇は中山愛親とともに様々な朝議や祭祀の復古・再興を推進しようとした。天明7年11月27日、光格天皇は復古的な方式によって大嘗祭を行なった。光格天皇は新嘗祭も復古させた。新嘗祭は寛正4(1463)年を最後に中絶し、元文5(1740)年に再興されたものの、安永7(1778)年以来再び中絶してしまっていた。寛政3(1791)年、光格天皇は幕府に相談することなく、御所内に神嘉殿を造営し、新嘗祭を復古させたのである(『幕末の天皇』87頁)。
さらに、尊号運動(光格天皇の実父典仁親王に上皇の称号を贈ることを求める運動)が展開されていた。だが、幕府老中松平定信は、皇位にも就かず皇統を継がなかったものが太上天皇になった前例がないとして、尊号に反対した。そのため京郡は一時見合わせたが、寛政3(1791)年に再び幕府へ要請している。ところが、定信は武家伝奏正親町公明、万里小路政房、議奏中山愛親らを処罰したため、光格天皇は尊号宣下を断念することになった。
彦九郎自刃の真相
彦九郎が久留米森嘉膳宅で自刃したのは、その直後の寛政5(1793)年6月27日のことである。尊号運動の挫折が引き金になったに違いない。自刃の理由は、自らの思想の責任をとったという見解もあるが、松本健一氏は「言うべきことは既に言い尽くした。我赤心は既に天下の豪傑に打明けた。鳴いて血を吐く杜鵑(ほととぎす)もある、死んで皮をとどめる虎もある、咲いて散る花もある、我為すべき分は既に尽した。いつまでも厭な、濁った、不義な、不忠な世の中にながらえて恥を掻くことはない。いっそ潔く死んでしまえと云う訳で死んだのではないか」との山路愛山の説を支持している(松本健一『どぐら綺譚』作品社、1993年、83~84頁)。
彦九郎の自刃は、垂加神道に依った真理追求の挫折をも意味したかもしれない。唐崎士愛は、志が達成できないのを嘆き、寛政8(1796)年11月18日、竹原庚申堂で自刃した。この年、垂加神道に連なる久留米藩家老の有馬守居は、「正之を弔う辞」を作っている。「竹内式部─伏原宣条─谷川士清─唐崎士愛(常陸介)─有馬守居(主膳)─高山」という高山に繋がる勤王運動のネットワークは、垂加神道によって成り立っていたともいいうる。
彦九郎にとって、垂加神道に拠る、真理追求としての勤王運動は、「建武未遂の偉業の完遂」をも意味した。高山家の祖は新田義貞の家臣と伝えられている。
ここで、彼の生い立ちについて見ておきたい。彦九郎は、延享4(1747)年5月8日、上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市細谷町)で、高山彦八正教の次男として生まれた。杉山忠亮の『高山正之傳』によると、13歳の時に『太平記』を読み、「(建武の)中興の志業の遂げられざるを見て、慨然と発奮し、功名の志し」を抱いたという。1991年4月には、群馬県桐生市立桜木公民館で、彦九郎と太平記との歴史的関連に関する企画展が開催され、彦九郎が13歳の時に手にしたという、天和元(1681)年に刷られた太平記の木版本も展示された(『朝日新聞』1991年4月25日付朝刊)。
では、いかにして彦九郎は勤王思想を抱くに至ったのか。彼は、18歳のときに学者を志し、京へ遊学している。京では漢学者の岡白駒、河野恕斎父子に学んだ。伊勢崎で村士玉水、浦野神村らと交友する中で、崎門学派に傾倒していったのである。さらに、彦九郎は嚶鳴館の細井平洲、蘭学者の前野良沢、曾輔堂の菅野輪斎などとも交流した。
彼が展開した全国への旅は、勤王運動と結びついていた。彼は、27歳から47歳で自刃するまで、21年間にわたる彪大な日記を残している。そこに記された旅先は、蝦夷地(北海道)・四国を除くほぼ全国に及んでいる。日記には各地の社会状況、政治状況、土地の伝聞、各地の知人との交流等が記されている。彦九郎は、公家・藩士・儒学者・学者などの知識人のほか、各地の町人・商人・工人・農民などあらゆる階層の人々と交流を持った。
引き継がれる彦九郎の精神
尊号運動の挫折で彦九郎は自刃したが、その勤王思想は、幕末の志士たちに引き継がれた。例えば、久留米では真木和泉守、木村重任らが彦九郎の行動に影響を受けた。
三上卓によれば、真木の人生は高山が辿った足跡そのものであった。真木もまた、幼くして絵本楠公伝を見て発奮し、建武中興の昔を偲び、権力の圧迫に屈することなく尊皇思想の体現に尽力した(三上『高山彦九郎』8頁)。
西郷隆盛は文久2(1862)年末、沖永良部島に幽閉中、彦九郎の忠義心をたたえる詩文を次のように詠んでいる(三上『高山彦九郎』14頁)。
精忠純孝群倫に冠たり。豪傑の風姿画図に真なり。
小盗謄驚くは何ぞ恠に足らんや。回天業を創むるは是り斯の人。
西郷はまた、明治4(1871)年11月には、菊地容斎の画に「辛未仲冬」と題した彦九郎をたたえる詩を賛している。吉田松陰への影響も大きい。そのきっかけを作ったのは、宇都宮黙霖(1824~1897)である。黙霖は21歳のとき大病を患い、聴力を失ったが、多くの漢学者や国学者と筆談で交わった。尊皇倒幕を説いて回る旅を続ける中、黙霖は松陰の「幽囚録」と出会った。感動した黙霖が、当時獄中にあった松陰に手紙を送ったのが、両者の文通の始まりである。安政2(1855)年11月、松陰は彦九郎の事跡を知らなかったことを恥ずかしいことであったと記している。黙霖との手紙のやり取りによって、松陰は倒幕論へと傾斜していったのである。安政6年3月、松陰は彦九郎の後塵をつぐ覚悟であると決心している。 |
西郷、松陰だけてなく、彦九郎は高杉晋作、久坂玄瑞、中岡慎太郎らにも強い影響を与えた。さらに、彦九郎の思想は明治維新のみならず昭和維新の序論ともなった。
三上は、『高山彦九郎』の序において「斯クテ、大義透徹ノ人、高山彦九郎先生『忠死』ノ理由ハ本書ヲ肝読スル読者諸賢ノ等シク体解サルベキ結論デアリ、且ハ、昭和御維新ヘノ序論トモナル」と書いている(『高山彦九郎』序3頁)。
高山の勤王思想とそれを支えた垂加神道の理想から私たちが学ぶべきものは、決して少なくないのではなかろうか。