明治二年三月、天皇が東京へ再幸されてから、京都は次第に凋落し始めた。これに京都府民の不満が高まっていた。国学者・比企田源二も、この状態を黙視できなかった。しかも、全国各地で新政府の施政に対する不満の声が起こっていた。
そこで比企田は、東京に行き、新政府の政策を非難する建言を行おうと考えていた。そして、建言が採用されない場合には、兵力をもって天皇を西京へ連れ帰り、その上で政府を変革する企てを断行しようと画策していたのである。
彼は、「国家ノ大基礎今以御確定ニ不被為至故、人心方向ヲ失シ、所々ニ一揆蜂起イタシ、殊ニ西京ハ追々疲弊イタシ、下民ノ難渋見ルニ難堪次第故、同志ノ者申合東京ヘ罷出、見込ノ趣建言イタシ、若シ御採用無之節ハ、不得止兵カヲ以テ闕下ニ迫り御鳳輦ヲ西京へ奉迎、弊風ヲ除キ御政体ヲ一変可致……」と語っていた。
この比企田の企てに参加したのが、愛宕通旭であった。愛宕は新政府に登用され、神祇官判事に任じられていたが、明治二年五月に職を免じられ、京都へ帰った。そこで、比企田に師事し、国学を学んだのである。
受宕は、「華族ハ柔弱・遊惰ニ流レ、更ニ憤発ノ気モ無之間、屹ト輦轂(天子の乗り物)ノ下ニ於テ尽力可致、徒ラニ歳月ヲ送り候ハ有志ノ恥ル処」と語っていた。
もともと、愛宕家家令の安木劉太郎は比企田の門下生だった。安木は比企田の意を受け、新政府に反発する愛宕を、この企てに誘ったのである。明治三年八月、愛宕は安木の誘いに応じ、比企田の計画のリーダーとなること、公卿の間にその計画を説き、同志に加えることを快諾した。
一方、柳河瀋の古賀十郎が、比企田の計画に加わった。古賀は、計画の拠点を秋田藩に求め、同藩の中村恕助と相謀った。古賀は秋田藩のことを、「去ル辰年中賊中ニ孤立致シ至テ頼母敷瀋ニテ」と評価していた。中村は秋田藩論を動かして挙兵し、東京へ進撃する準備を整えるため、藩地へ向かった。
この頃、受宕らの企ては各地に伝わり、あちこちから「農民一揆の盟主になってほしい」との依頼が、愛宕の下に集まった。例えば、福岡藩卒・的野秀九を盟主とする大和国十市郡野原村の農民らが、反乱を企てるに当たり、愛宕の名を借りたいと願い出てきた。愛宕はこれには応じなかったが、的野らは後に愛宕の連累者として処刑されている。
愛宕、比企田らは、謀議が熟したと判断し、再会を期して各々東京に向かって出発した。愛宕は明治四年二月に東京に到着した。これと相前後して東京に着いた比企田は、さらに挙兵の規模を拡張しようとして、有栖川宮熾仁、外務卿・沢宣嘉を説得して挙兵に誘おうと企てた。
二月上旬のある日、愛宕は、秋田藩士族・吉田精一郎・泉謙三郎の招待を受け、比企田らとともに元柳町の料亭に赴いた。そこには、吉田・泉のほか久留米藩士族・篠本廉蔵・川島澄之助や秋田藩の岩堀源吉・中島竜之助・堀内誠之進らが来会し、酒宴を催していた。また、堀内誠之進の供述によると、高知藩士族の岡崎恭助もいた。
東北大学名誉教授の石井孝氏は「この料亭での会合は東京在住の士族反対派の総集会だったようである」と述べ、この席上、岡崎は堀内に、「古賀が楠正行四条畷の決戦にまねて行動する」と岡崎に語った旨を述べた。
一方、古賀も、東京において外務権大丞・丸山作楽と気脈を通じ、計画の規模拡張を試みていた。
丸山作楽はこれ以前にも政府顛覆を企てたとの嫌疑を受けていた。例えば、明治三年四月、弾正台大巡察・原保太郎は、大納言・岩倉具視に、「丸山と気脈を通ずる東京府下の攘夷派浪士が西洋文明の摂取に積極的な政府官員を暗殺しようと企てている」と報告している。丸山はその後も征韓論を主張して、これを受け容れない政府に反感を抱いていた。→「平田派国事犯事件(明治四年)の真相」
政府は愛宕らの挙動について探知しつつあった。明治四年三月、比企田がまず弾正台へ召喚された。これを知った安木劉太郎は、すでに計画が政府の知るところとなったと考え、事の成否にかかわらず東京府下を焼き打ちして、宿志を決行しようと愛宕に説いた。愛宕はこれを制止しつつあったが、まもなく愛宕、安木も召喚を受け、以下連累者が次々と逮捕されるに至った。
View Comments
和泉謙三郎→泉謙三郎 訂正お願いします。
ご指摘ありがとうございました。訂正いたしました。