19日はひとまち交流館京都において「梅田雲浜生誕200年記念 生誕顕彰フォーラム」に参加。雲浜から5代目に当たる元大阪芸術大教授、梅田昌彦氏が記念講演された。
20日は、雲浜の寓居跡、石碑がある葉山観音(左京区)を訪れた。この旧跡碑は、文学博士の高瀬武次郎の発起によって建てられることになった。大正12年11月23日に除幕式が挙行されている。碑の裏には、「雲浜翁嘉永三年葉山ニ寓シ、勤王諸同志ト国事ヲ議シ、或ハ四明山下一閑人石川丈山ヲ追慕シテ、閑ニ風月ヲ弄セリ。長岡監物ノ臣某ガ来テ、浅見絅斎ノ赤心報国刀ヲ求メ、山縣元帥ガ謁シテ教ヲ請ヒ、翁ノ夫人信子ガ「拾ふ木葉」ノ名歌ヲ作リシモ、皆此時ナリキ。故ニ今有志相謀テ記念碑ヲ建ツ」とある。
長岡監物は肥後藩家老で、横井小楠らと藩校時習館の改革に当たった人物。「浅見絅斎ノ赤心報国刀ヲ求メ」とある通り、彼は崎門学を学び、絅斎に傾倒していた。
葉山観音の後、山崎闇斎・浅見絅斎の墓参を経て、東山区・安祥院にある雲浜墓所を訪れた。
安政の大獄で捕えられた雲浜は、安政6(1859)年9月14日に獄死した。しかし、未だ幕府の力は強く、雲浜の墓を建立することは憚らねばならなかった。このとき、京都を離れ小浜にとどまっていた、雲浜の姪登美子は、雲浜元服の際に下した前髪を実家で発見した。彼女はその前髪でお墓を作ろうと決意し、文久元(1861)年7月に京都へ戻った。
そして、雲浜門人の北村屋台太郎らの賛同を得て、安祥院にお墓を建立したのである。安祥院には雲浜の先妻信子、長男繁太郎の墓所がある。墓石の文字は巽太郎が書いた。ただし、幕府を憚り「梅田」の姓は省かねばならなかった。