明治31(1898)年3月26日、岡倉天心は東京美術学校を追われた。その背景には、スキャンダルがあったのだが、欧米型近代化に背を向ける天心流の国粋主義が、国家政策の邪魔になったと見ることもできる。
天心の受けた打撃は大きかった。しかし、ようやく天心は民間の自由人としてみずからの理想を追求できるようになった。ただちに彼は、私立美術学校として日本美術院の設立に動く。 ――自分たちは、あくまでも先生についていきます。
天心失脚に憤慨した橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草ら教官17名は4月に辞職、天心とともに歩んでいくことを決意していた。
10月15日、「新時代における東洋美術の維持、開発」を高らかに掲げ、日本美術院はスタートをきった。開院式に合わせて記念展覧会が開催された。人々は、会場に飾られた大作に注目した。
その1つが大観の「屈原」だった。横幅が3メートル近くもある大画面に、1本の花を手にして荒野をさまよう道服姿の屈原が描かれていた。屈原とは、固い信念で世の汚濁にそまらず正道を歩んだ中国古代の楚国の人。政敵の告げ口によって江南に放逐され、詩を書き残して入水したのである。
人々はこの絵に美術学校の校長を追われた天心の無念きわまる姿をみて、胸を打たれたのである。天心の胸中を察し、思わず涙するものもいた。
ところで、屈原は浅見絅斎の『靖献遺言』にも収められた、義を貫いた人物。
大観の父は、水戸藩士として「水戸学」を信奉し、尊攘派志士として活躍した人物。果たして大観と崎門学、水戸学の接点はどの程度あったのだろうか。
また天心自身、幼い頃に乳母「つね」に育てられたが、「つね」は橋本左内の遠縁にあたる人で、天心に左内のことを寝物語に語ってやまなかったという。左内は、『靖献遺言』を懐中に忍ばせていたと言われほど、崎門学に傾倒していた。
天心と崎門学というテーマも考えてみる必要がありそうだ。