アフガーニーとともに
アブドゥフは、ナイル・デルタのファッラーヒーン(農民)の家に生まれ、アズハル在学中からジャマール・アッ=ディーン・アル=アフガーニー(Jamal al-Din al-Afghani/1838~1897年)に師事している。 アフガーニーは、パン=イスラミズム(イスラームの団結)の思想家・行動家として知られる。彼は、イスラームが知的頽廃や専制支配などによって本来の活力を失っていると考えたのだ。だから彼は、各地の専制支配を排除し、ムスリムが連帯して活力を回復しようとした。 アブドゥフは、アフガーニーを偉大なる師と呼び、アフガーニーの顔写真を肌身話さず持ち歩くほど傾倒していた。1884年には、パリでアフガーニーとともに雑誌『固き絆』を創刊している。 |
『マナール』 アブドゥフが『固き絆』でアフガーニーの思想を世界に発信したように、アブドゥフの思想を雑誌で発信したのが、アブドゥフの弟子ラシード・リダー(Rashid Rida/1865~1935年)であった。彼は、1897年にカイロでアブドゥフの弟子となり、同年中に『マナール』誌(Al-Manar)を発行した。 『マナール』に示されたアブドゥフの思想は、世界各地のムスリムに大きな影響を与えた。東南アジアのムスリムもアブドゥフの思想によって覚醒した。 ミナンカバウ生まれのムハンマド・ターヒル(Muhammad Tahir)やマラッカ生まれのセイド・シェイク・アル・ハディ(Sayyid Shaykh Al-Hadi)らは、中東地域でアブドゥフに師事し、東南アジアに帰国して活発な言論活動を展開した。 |
マレー社会への影響
アブドゥフが世を去った翌年の1906年、彼らはシンガポールでマレー語新聞『アル・イマーム』(Al-Imam/礼拝の導師をつとめる者の意味)を発刊する。特にセイド・シェイクの活動は活発で、アブドゥフの著作の翻訳を発行するとともに、1926年には『アル・イフワーン』(Al-Ikhwan/同胞の意)、1928年には『サウダラ』(Saudara/兄弟の意)を創刊している。
アブドゥフの思想に沿ったセイド・シェイクらの思想は、伝統的マレー支配層とそれと結び付いた保守的ウラマーに対して、イスラームの純化、イスラームの改革による独自の近代化を志向した。そのため、セイド・シェイクらは旧来のイスラーム教育の在り方にあきたらず、近代化に適応した新しいイスラーム教育の必要性を唱えた。それは、伝統的なコーラン塾「ポンドック」(pondok)に対して「マドラサ」(madrasah)と呼ばれた(これらの経緯については、Roff,W.R.,The Origins of Malay Nationalism,1967、田村愛理「マレー・ナショナリズムにおける政治組織とシンボル操作」『アジア経済』1988年4月などを参照)。
マレーシアでは、セイド・シェイクとマドラサの果たした役割は高く評価されており、近年も主要紙が新聞で取り上げている。例えば、New Straits Timesは、「マドラサの真の意味」との見出しを掲げて、セイド・シェイクの歩みを回顧している(November 6, 2000)。
だが、アフガーニー、アブドゥフの影響とともに、独自の近代化に踏み出した当時の日本の影響が絶大だったことは、見落とされている。