アフガーニーとともに
マレー社会への影響
アブドゥフが世を去った翌年の1906年、彼らはシンガポールでマレー語新聞『アル・イマーム』(Al-Imam/礼拝の導師をつとめる者の意味)を発刊する。特にセイド・シェイクの活動は活発で、アブドゥフの著作の翻訳を発行するとともに、1926年には『アル・イフワーン』(Al-Ikhwan/同胞の意)、1928年には『サウダラ』(Saudara/兄弟の意)を創刊している。
アブドゥフの思想に沿ったセイド・シェイクらの思想は、伝統的マレー支配層とそれと結び付いた保守的ウラマーに対して、イスラームの純化、イスラームの改革による独自の近代化を志向した。そのため、セイド・シェイクらは旧来のイスラーム教育の在り方にあきたらず、近代化に適応した新しいイスラーム教育の必要性を唱えた。それは、伝統的なコーラン塾「ポンドック」(pondok)に対して「マドラサ」(madrasah)と呼ばれた(これらの経緯については、Roff,W.R.,The Origins of Malay Nationalism,1967、田村愛理「マレー・ナショナリズムにおける政治組織とシンボル操作」『アジア経済』1988年4月などを参照)。
マレーシアでは、セイド・シェイクとマドラサの果たした役割は高く評価されており、近年も主要紙が新聞で取り上げている。例えば、New Straits Timesは、「マドラサの真の意味」との見出しを掲げて、セイド・シェイクの歩みを回顧している(November 6, 2000)。
だが、アフガーニー、アブドゥフの影響とともに、独自の近代化に踏み出した当時の日本の影響が絶大だったことは、見落とされている。
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