大川周明のアジア主義

坪内隆彦『大川周明のアジア主義』(反時代出版、令和7年9月)

坪内隆彦『大川周明のアジア主義』(反時代出版、令和7年9月)蘇る大川周明 坪内隆彦
 第1章 神人合一
 第2章 道義国家論
 第3章 真個の中国精神を求めて
 第4章 アジアの精神の統一
 第5章 東洋哲学の可能性
 第6章 中国共産党と儒教
 第7章 天下による新国際秩序
新亜細亜小論 大川周明

欧米中心の国際秩序が動揺している。トルコのジャーナリスト、ハッサン・エレル(Hasan Erel)氏は「五百年にわたる西洋覇権の終焉か?」と題した記事で、「西洋中心の世界ではなく、アフリカ・ユーラシアを中心とした新しい多極的な世界秩序」の到来を予想している。BRICSなどの新興国が国際政治の主要プレーヤーとして台頭する中で、習近平国家主席、モディ首相、エルドアン大統領らの指導者が欧米の価値観や制度の普遍性を拒否し、自らの文化的・歴史的遺産に基づいた新たな秩序を提示しようとしているとも指摘されている。
欧米中心の国際秩序に異を唱える国では、思想家たちが新たな国際秩序の理論構築を急いでいる。かつて我が国は大東亜共栄圏を掲げて、欧米中心の国際秩序に異を唱えた。その理論構築を支えたのが大川周明である。
大川の言論には、欧米中心の国際秩序に対する根源的な批判と、その背景にある西洋哲学に対する透徹した分析が含まれていた。だからこそ、新たな国際秩序の理論構築を推進する世界の思想家たちは、いま大川の思想に注目しているのではないか。しかも、大川の思想には、新たな国際秩序が覇権主義に陥ることを回避するための大きなヒントが隠されている。
華東師範大学教授の許紀霖氏は、脱中心化と脱ヒエラルキー化を志向する「新天下主義」を掲げ、新たな国際秩序を模索している。彼は日本が提唱した大東亜共栄圏構想に「中国式の天下秩序の残滓」を見出し、日本の「ラディカルな右翼」が西洋の覇権とは異なる東アジア人による王道世界を構築しようとしたと述べている。日本人が唱えたアジア主義が、いま世界の思想家の間で蘇りつつあるのだ。
しかし敗戦後、GHQは大川が世界征服を目論んでいたと断罪し、民間人として唯一、A級戦犯の容疑で大川を起訴した。確かに、大川の言動には時代によってかなりの振幅があり、他民族の主体性への理解を欠いた「日本盟主論」に傾いた時期もあった。
だが、大川の思想の根底には、東洋の一元論に発する神人合一、万教帰一の観念があった。大川が道義国家を追求したのは、国家の在り方についても「大生命」の法則に基づいた道義の貫徹を求めたからなのではなかろうか。彼が、列強の植民地支配から脱するアジア諸民族に真個の精神の発揚を期待したのも、真個の精神こそ「大生命」と合致したものだと考えたからだろう。
大川には国家主義的な側面もあったが、同時に世界連邦を唱えるなど国家を超える世界人(コスモポリタン)的な側面もあった。大川は「真の世界人たるためには、先ず真の日本人たらねばならない」とも語っていた。
大川が日本中心主義から脱却し、世界連邦を唱えるにいたる契機は、支那事変の勃発だった。アジアの現実を直視し、王道アジア主義を唱えた石原莞爾との対話を経て、大川のアジア主義は新たな展開を見せていく。大川は大東亜共栄圏を構想で終わらせることなく、それを実現するという強烈な意志を維持していたからである。そして、構想の実現のためにはその構想が他民族に受け入れられるものでなければならなかった。そこから、大川の思想は大きな変化を遂げた。その劇的な展開を明確に示しているのが、本書に収録した『新亜細亜小論』である。既存の大川研究では、この大川の思想展開に焦点が当てられていなかったように思う。
『新亜細亜小論』には、欧米の覇道的秩序に代わるアジアの道義的統一の道筋が示されている。そして、西洋哲学を補完する東洋哲学樹立の可能性は『大東亜秩序建設』(昭和十八年六月)や『新東洋精神』(昭和二十年四月)などに示されている。
もともと『新亜細亜小論』は、満鉄東亜経済調査局が昭和十四(一九三九)年八月に創刊した『新亜細亜』に載った大川の巻頭言から構成されている。『新亜細亜』の特徴は、中東、東南アジアの情報発信に力を入れた点にある。大川は昭和七(一九三二)年の五・一五事件に連座して収監されたが、昭和十二(一九三七)年に仮出所した。それ以降、大川は東亜経済調査局に復帰し、モーリツ(Bernhard Moritz)やフェラン(Paul Gabriel Joseph Ferrand)など西欧のイスラム研究者の旧蔵書を購入したことで、中東・イスラム研究の基盤が整えられていた。
『新亜細亜』創刊号の表紙には砂漠のラクダの写真が使用され、米田実「パレスチン問題と英国の苦境」、野口米次郎「印度の眺望」、磯部美知「亜細亜の肢脚タイ国」、蒲生礼一「宗教的に見たイラーク国」、大久保武雄「イラン国の全貌」、西永義文「新嘉坡」、宮武正道「馬来文学の過去と現在」などの論稿が掲載された。
『新亜細亜』のもう一つの特徴は、アジア諸民族の政治、経済だけではなく文化に光を当てたことにある。同誌創刊の辞で、大川はアジア全土に復興の機運が漲ろうとしているが、それに英仏両国が拮抗していると指摘し、やがて全アジアが英仏との角逐の舞台となるだろうと述べている。そして大川は、こうした状況であるにもかかわらず、日本国民はアジアのことに甚だ無関心で、特に中国以外の諸国については無知だと批判した。
「ただ支那以外の亜細亜事情を国民に報告する著作は、なおまた暁天の星の如く少ない。東亜経済調査局は、この欠如を補わんために、ここに月刊『新亜細亜』を発行し、西南亜細亜並びに南洋諸国に関する知識の普及に努めることとした。この雑誌は、これらの諸国の政治・経済・文化の各方面にわたり、最も信頼すべき報道者たることを期す」
表紙には毎号、東南アジア、インド、中東などの文化を表した写真が用いられていた。手で糸を紡ぐインド人、イスラムのメッカ巡礼、サモア島の子供、インドのヒンドゥー寺院、シバ神、ニューブリテン島のトライ族の女性、路上で花を売るベトナム人女性、メナム川で洗濯をする女性、スリランカの聖地アヌラーダプラ、フィリピンのミンダナオ島マンサーカ族酋長の娘、ポリネシアの漁師などだ。
大川は、日本人がアジアの文化を十分に理解することで大東亜共栄圏の実現に近づこうとしたのではないか。大川が昭和十三(一九三八)年に開設した「東亜経済調査局付属研究所」(大川塾)の教育にもそれは明確に示されている。およそ百人の若者たちが大川塾で学び、アジア諸国に旅立っていったが、大川塾ではベトナム語、タイ語、マレー語、ヒンドゥー語、ペルシャ語などのアジア、中東の言語を教えていた。大川は「アジア諸国の知識層は……アジアの国々に対しては殆ど関心を有たなくなった。彼らはヨーロッパのあらゆる言葉を学んだが自国語以外の唯一の東洋の言葉を学ばんとしなかった」と批判していた(『大東亜圏の内容および範囲』)。日本人にアジアの言語や文化を理解してもらいたいという大川の熱意は本物だった。そして大川は、アジアに旅立っていく塾生たちに次のように諭していた。
「諸君の一番大切なことは正直と親切です。これが一切の根本です。諸君が外地に出られたら、この二つをもって現地の人に対し、日本人とはかくの如きものである事を己の生活によって示さなければなりません」
まさに、アジア諸民族の文化を理解し、常に真の日本人として接することのできる人材の育成を志していたのである。戦後の歴史観では、大川のこうした側面も長らく封印されてきた。本書で大川のアジア主義の封印を解いていきたい。

 
書評・レビュー
 ■タコライス「民族固有の思想が真の姿に立ち返るとき、民族を超えた普遍性を持ちうる」
 ■愚泥「西洋近代終焉以後の新秩序」
 ■さちひこ「大川周明の宗教論とアジア論」(令和7年10月26日)
 ■イトー「拓大生が今、知るべき『魂の熱源』」(令和7年11月7日)

坪内隆彦の「維新と興亜」実践へのノート