来島恒喜─わが国の自主独立のために捧げられた命

以下、『維新と興亜に駆けた日本人』に収録した来島恒喜の評伝です。

高場乱から叩き込まれた志士の生き様

来島恒喜の壮絶な最期は、玄洋社をはじめとする志士たちに極めて大きな影響を与えた。彼の行動を支えていたのは、先天的な精神力とともに、若き日に受けた教育と凄まじい体験にほかならない。

来島は、安政六(一八五九)年十二月三十日、福岡の薬院(現福岡市中央区)で生まれた。父左衛門は武術に長じた古武士風の人物であった。少年時代の来島は、相撲をとることを好み、近所ではガキ大将として知られていた。いつも丹褐色の袴をはいていたので、友人たちは来島がやって来ると「赤袴が来たー」と叫んだという。

習字を金子善作に、四書五経を郷儒大久保正名に、さらに経史(経書、史記)を、朱子学の大家、海妻甘蔵に学んだ。海妻は、宗像郡山田村で私塾「教義塾」を開き、多くの少年を育てた人物である。

その後、来島は男装の女傑、高(たか)場(ば)乱(おさむ)が興した興志塾に入門する。眼医者としても知られる高場は、亀井陽州(亀井南冥の孫)の亀井派に属して、飯田太仲、中村北海に学び、漢学を修めた。興志塾門下には、来島のほか、福岡士族の武部小四郎や後に玄洋社に結集する頭山満、進藤喜平太、平岡浩太郎、奈良原至、月成功太郎らがいた。

ちなみに、頭山が興志塾の門を叩いたのは十九歳の頃である。高場は「やめたほうがいい。乱暴者ぞろいじゃ。仲間に入ったとして無難にはいかん」と断った。ところが、頭山は「それならなおさら入りたい」と入門したという。頭山は、高場について、「無欲、恬淡、至誠、豪快の先生じゃった。教えは徹頭徹尾、実践だ。区々たる文章の枝葉末節など頓着なく、大網だけを肚に入れさすのだ」と振り返っている。

高場の講義によって、来島らは志士の生き様を叩き込まれたのである。特に、『三国志』、『史記』、『靖献遺言』の講義は異様な熱を帯びた。来島たちは、高場が檀上にいることを忘れ、篇中の忠臣、節婦、英雄、豪傑が、その場にいるかと錯覚するほどの臨場感を得て、忠臣たちの生き様を自らのものとした。

来島の同志的野半介が監修した『来島恒喜』は、「彼が慷慨義を好み、忠勇君に尽すの精神、私を忘れて公に奉じ、身を捨てゝ国に殉ずるの気象、蓋し高場塾の感化に負ふ所少なからざるものあるを認めざる可からず」と評している(岡保三郎『来島恒喜』復刻、重遠社、昭和五十五年、三十一頁)。

来島が十五歳になった明治八年二月、大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが集まって大阪会議を開いた。ここに、同志の越智彦四郎とともに参加したのが、武部小四郎であった。武部の父建部武彦ら筑前勤皇党は、西郷南洲と緊密な関係を維持していた。平成十九年には、武部のやしゃご武部自一宅に保管されていた資料から、建部の死を悼んだ南洲が「靖献」と書いた書が発見されている。

やがて、板垣の立志社に倣い、矯志社、強忍社、堅志社が組織される。武部が率いた矯志社には、平岡浩太郎、頭山満、進藤喜平太、宮川太一郎、阿部武三郎、林斧(おの)助(すけ)、松浦愚、月成元雄らが、越智の強忍社には、久光忍太郎、舌間慎吾、大畠太七郎らが、そして箱田六輔が組織した堅志社には、来島のほか、奈良原至、中(なか)島(しま)翔(かける)、月成功太郎らがいた。

三組織に分かれてはいたが、その志は同一で、相互の人的なつながりは緊密だった。例えば、堅志社の箱田や奈良原は、矯志社にも加盟していた。『玄洋社社史』によれば、これら三組織は、「廟堂の優柔偸安なる国交の道を誤り或は弱国に辱を受けて、之が罪を問はず、正義忠節の士を郤けて、公議を杜絶し擅(せん)恣(し)専制不急の土木を起して、国努を浪費し奸商と結んで利を釣り、請託公行威福張る如斯政府、如斯当局、当に之れを覆さゞる可らず、当に之れ追はざる可からず」との立場を明確にしていた。

武部小四郎の絶叫─「臓腑の腐り止め」

明治九年には、神風連の乱(熊本)、秋月の乱(福岡)、萩の乱(山口)が起こっている。このとき、武部と越智は、あくまで南洲の決起を待つという姿勢を維持した。これに対して、箱田が率いる堅志社のメンバーや矯志社の一部は、前原一誠と接触し、萩の乱への呼応を試みた。その結果、箱田、頭山、進藤、奈良原らが拘束された。この間、堅志社、矯志社、強忍社の三社は解散に追い込まれた。

箱田、頭山らの拘束が続く中で、ついに西南戦争が勃発する。明治十年三月末、武部と越智は、西郷軍に呼応して福岡城下で蜂起する。だが、両者とも追撃されて捕まってしまった。越智は五月一日に処刑され、同月四日武部も処刑された。健児社を結成して武部らに従った興志塾門下の青少年たちも捕まり、武部と同じ獄舎に繋がれた。武部は健児社の連中は謀議には参与していないと弁明し、一人で罪を被ろうとした。それを知るや、健児社の少年たちは、毎朝武部の獄舎に向って礼拝するようになった。

処刑の日、広場の真ん中に進み出た武部は、雄獅子の吼えるような颯爽たる声で、「行くぞオォーーオオオーー」と絶叫した。健児らは、思はず獄舎の床に平伏して顔を上げることができなかった。オイオイ声を立てて泣き出す者もいた。奈良原至は、次のように回顧して、熱い涙を流したという。

「あれが先生の声の聞き納めぢやつたが、今でも骨の髄まで泌み透つて居て、忘れやうにも忘れられん。あの声は今日まで自分の臓腑の腐り止めになつて居る。貧乏といふものは辛労いもので、妻子が飢ゑ死にしよるのを見ると気に入らん奴の世話にでもなり度うなるものぢや。藩閥の犬畜生にでも頭を下げに行かねば遣り切れんやうになるものぢやが、其様な時に、あの月と霜に冴え渡った爽快な声を思ひ出すと、腸がグルグルとデングリ返つて来る。何もかも要らん、『行くぞオ』と云ふ気もちになる」(『夢野久作著作集五 近世快人伝』葦書房、平成七年、五十八、五十九頁)。

奈良原同様、来島は常に武部の最期を思い起こして、志士としての決意を固めていったに違いない。やがて、来島は興亜の先駆者、副島種臣にも師事するようになった。昭和二年十一月十八日、来島の三十八年忌法要において、来島の同志前田下学は、「私は、互に相許す友として、極めて敬愛して居つたもので、来島君の精神は、一々私の胸に映つて見えるやうに感ずるのであるが、それは、私と来島君とは、同時に、副島伯の薫陶を受けて居たからである」と語っている(『伊藤痴遊全集 続第四巻』平凡社、昭和五年、百八十六、百八十七頁)。

副島は、来島を山岡鉄舟に紹介した。国事に殉じた人々の菩提を弔うため谷中に全生庵を建立した鉄舟は、来島をそこに招いた。来島は、読書や参禅に励み、鉄舟の薫陶を受け、一時は全生庵に住み込んでいたともいう。

こうして来島の高い志と人格は成った。彼の性格は、「眉目清秀、白哲精悍、眼光人を射る。性、沈黙にして寡言、恭謙にして沈毅、奪ふ可からざる大節あり」とも評される(『来島恒喜』二百六十九頁)。

特に、彼は友愛に富める人物だった。箱田が亡くなると、自ら奔走して荘厳な祭典を営み、福岡に戻るや、同人とともに箱田のために碑の建立に努力を惜しまなかった。友人藤崎彦三郎の長男が東京で病に伏すと、日夜看護をしてそばを離れず、没するや一切のことを処理したという。藤崎は、これに深く感謝し、来島のことを「一たび其友情の懇切なるに念ひ至れば、涕涙の滂沱たるを禁ずること能はざるなり」と書いている。

来島は平素、人と争うことを好まなかったが、「義に勇み、情に激しやすい人物」だったともいう(前掲書、二百七十二頁)。あるとき、頭山満が福岡の料亭「常盤館」で宴を催したとき、侠客・大野仁平の一派が乱入してきた。このとき、大野を燭台で殴りつけ頭を叩き割ったのが来島だった。

 

朝鮮開化派のリーダー金玉均支援に奔走

維新の貫徹と興亜の理想を抱いた来島は、朝鮮開化派のリーダー金玉均支援に乗り出す。明治十七年末、金はクーデター(甲申の変)を試みたものの、清国軍の介入で失敗、日本に亡命してきた。

来島は、久田全、一地知迂吉、的野半助ら玄洋社の同志たちと東京・芝弁財天の一角に拠点を設け、大和の樽井藤吉、北越の赤澤常容、柿本務、三浦清風、肥後の前田下学、金沢の関谷斧太郎らと日夜会合し、金玉均との提携を模索した。明治十八年に、久田らが金支援の動きを見せたが、結局自重、大井憲太郎らの試みは大阪事件で頓挫した。翌十九年、金は小笠原に送られた。そのとき、奇しくも来島は、的野半介、竹下篤次郎らの玄洋社員とともに、小笠原島で開拓事業に取り組んでいた。そこで、来島らは金への支援を開始した。金が小笠原を去った後も、竹下だけは開墾事業を継続していた。

来島は、列強のアジア進出に憤り、日本の自主独立とアジア復興を強く願っていた。そんな来島が命がけで当らねばならないときが近づきつつあった。

明治二十一年二月、大隈重信が外務大臣に就任、各国との条約改正交渉を進めるにあたり、国際会議方式ではなく、国別交渉方式で臨む方針を固めた。まず、同年十一月にメキシコと修好通商条約の締結、明治二十二年に入り、アメリカやドイツなどとの交渉を進めた。当初、大隈の条約改正案の内容は秘密にされていたが、その要旨が『ロンドン・タイムズ』紙上に報道され、国内各紙に訳載されるや、国民の間に激しい反対論が沸き起こった。特に問題視されたのが、外国人被告事件で大審院に外国人裁判官を任用することを定めていた点である。

大隈の条約改正に最も強硬に反対したのが、新聞『日本』である。明治二十二年四月五日から、「日本外交論」を掲載、対等主義による条約改正でなければならないと主張した。さらに、五月末に『ロンドン・タイムズ』の論説を記載、六月五日には、混合裁判の構成と泰西主義の法典とをもって、治外法権の撤廃を買うものだと批判した。『東京新報』も反対の立場を鮮明にしたが、六月二十八日に発行停止に追い込まれている。

これら反対論に対して、大隈派の矢野文雄を主筆とする『郵便報知』は改正案擁護の論陣を張った。『東京毎日新聞』、『朝野新聞』、『読売新聞』なども擁護に回った。

玄洋社は、直接黒田清隆内閣に訴える策を練った。頭山満は、谷干城、三浦梧楼、鳥尾小弥太らと謀り、頭山が大蔵大臣松方正義に、谷が逓信大臣後藤象二郎に、鳥尾が外務大臣大隈に、それぞれ説得に当ることを決めた。頭山は、松方に対して「条約案は、金甌無欠の国体を毀損するものなり。今日の策は、他無し、条約改正を中止するに在るのみ。……余は国論を代表して閣下の決心如何を聞かんと欲するものなり」(『来島恒喜』百五十三、百五十四頁)と詰め寄った。松方は、襟を正して「余は誓て足下の言に負かざらんことを期す」と語ったという。

玄洋社は、頭山が中央で反対運動を展開するとともに、福岡においては筑前協会を組織して、香月恕経、平岡浩太郎、進藤喜平太らが中心となって、反対運動を展開した。また、大井憲太郎ら大同協和会は、七月に入ると反対運動開始を決めた。

 

死をもって日本国民の自主的精神を示す

明治二十二年八月十五日、条約改正反対派は非条約改正委員会を開催、ここで鳥尾は、形勢が切迫しつつある事情を述べ、反対派の一致団結を説いた。同日夜には、大同倶楽部、大同協和会、保守中正派、『日本』、『日本人』、国権党、玄洋社などの団体が集結した。それでも、大隈は妥協しようとはしなかった。

来島が命がけで大隈の動きを止めようと決意したのは、その直後のことである。彼は、敢えて玄洋社を脱し、八月二十二日に上京、玄洋社の結城虎五郎とともに九月四日まで鍛冶橋外明保野旅館に泊まり、その後、神田美土代町に移った。

当初、玄洋社の同志、月成功太郎は来島と行動をともにするつもりだった。月成は九月二十五日に神田美土代町に向い、来島と同宿した。しかし、来島は単独で事を起こす決意だった。来島は、月成に対して「余は独身にして、妻子の繋累なしと雖ども、月成は妻子あり、老母あるものにして、余等と同じからず。若かじ、余独力を以て大事を決行し、月成をして後事に任ぜしめん」と説得、さらに「一大臣を撃つに何ぞ二人の力を要せんや。足下は前途有為の士なり。今日の事、余一人之に当らん。足下宜しく国家の為に後事に任ずべし」とも語った。月成は、いったん志を決したのだから、途中で辞めるわけにはいかないとして食い下がったが、結局来島が単独で決行することになった。

来島は、上京後、大隈の動静を綿密に調べ、警戒が極めて厳重であることを悟り、爆弾による暗殺が有効と考えるようになっていった。そこで来島は頭山満を介して、大井憲太郎を紹介された。大井は、来島の志を壮なりとし、『あづま新聞』主幹の高野麟三に爆弾調達を依頼した。そして、高野から依頼を受けた葛(くず)生(う)玄(げん)晫(たく)は、淵岡駒吉とともに来島の決意に沿うように動き、ついに十月十六日、三多摩壮士の森久保作蔵から爆弾を調達する手はずが整った。その日、訪ねてきた葛生に向って、来島は「是れ実に皇天の冥助なり」と語っている。また、来島はこれで日本を救うことができると語り、同志の方々に迷惑をかけるようなことはないのでご安心くださいと語った。その場には、淵岡とともに茨城での自由民権運動家として活躍していた小久保喜七も同席していた。昭和十三年十月十八日、来島の五十年忌法要での追悼談において、小久保はこのときのことを振り返り、「私は嗚呼真の豪傑、真の国士と云ふものはこう云ふものだなと感嘆した」と語っている(小久保喜七談「来島恒喜君五十年忌辰法要追懐談」広瀬順晧監修・編集『政治談話速記録 第四巻』ゆまに書房、平成十年、二百四十七頁)。

十月十六日から来島は芝愛宕町の信楽館に移った。翌十七日には、来島は在京中だった平岡浩太郎を旅館信濃屋に訪れ、父母への書簡を委ねた。これが来島の最終決別書である。同日午後四時には、金玉均支援のために、ともに小笠原に赴いた竹下篤次郎を横浜の旅館福井屋に訪ねた。竹下は、日本人移民の奨励を志し、視察のためカリフォルニアに赴いていたが、一時帰国していた。

福井屋には、竹下の同志の美和作次郎も来ていた。そこで、来島、竹下、美和の三名で宵を徹して快談した。しかし、来島は自らの計画について、一言も漏らすことはなかった。

このとき、来島は玄洋社諸同人の氏名を紙片に記し、竹下に向かって「よろしく伝言してくれ」と頼んだ。竹下は、「何もいちいち紙に記し置く必要はないではないか」と言うと、来島は「忘れないように頼むのである」とだけ語ったという。

翌十月十八日朝、来島は友人枝英三郎を横浜病院に見舞い、午前十時二十分の汽車で、東京に戻った。そのまま信楽館に向かい、月成と最後の時を過ごした。

午後二時、来島はモーニングコートを着て、用意していた爆弾を洋傘の中に収め、月成とともに信楽館を出た。愛宕山に登り、勝軍地蔵に詣で、その成功を黙礼している。愛宕山を去ってから、来島は月成に「男児一たび死を決すれば、胸襟楽々、一塵を留めざるが如し、快之に過ぐる無し」「今日は吾人の目的を達するの日なり」と語り、単独外務省に向かった。

午後四時過ぎ、大隈を乗せた二頭立ての幌馬車が、外務省表門に近づいてきた。来島は、爆弾を取り出し、馬車に駆け寄り、左側から爆弾を投げつけた。爆弾は、門柱に当って炸裂、猛煙の中で大隈は倒れた。来島は、暗殺は成功したと判断した。その直後、駆け付けた警察官は沈着の様子でその場にいた来島が犯人だとは思わず、「犯人はどっちに逃げたか」と来島に問うてきた。来島は、「あちらの方へ逃げました」と虎ノ門の方を指さした。警察官は、虎ノ門の方向に走っていった。

来島は、右手を高々と差し上げた。これは、近くで見守っていた月成へ成功を伝える合図だったとされている。その直後、短刀を出して、後頸部から右方向に刀を引き回し、前頸部にいたる首の半分を裁断し、壮絶な自決を遂げた。ときに、来島恒喜二十九歳。月成は、「鮮血淋漓として流れ出づる有様を目撃したときには、自分は、凄愴悲痛の感に打たれて、何とも言ふことが出来なかった」と回顧している。

来島は暗殺成功と確信したが、大隈は右足を失ったものの、一命を取り留めていた。大隈の遭難の報を聞いて直ちに駆けつけたベルツ博士は、次のように書き残している。

「右脚内部のくるぶしの上方にある傷は、その個所で脛骨を完全に粉砕していた。その上方の第二の傷は、膝関節の内部下方にあって、この関節内への粉砕骨折を伴っていた。脛骨の中間部も同様に、全部粉砕されていた。下腿を動かすと、骨が、まるで袋に入っているかのように、手の中でがたがた音を立てた。上腿切断手術よりほかに、施す手段がないことは明白だった」(『ベルツの日記 上』岩波書店、昭和五十四年、百五十頁)

来島の一撃によって、内閣は総辞職に追い込まれ、条約改正交渉は中断された。その後、十月十八日の閣議で条約改正は中止になっていたという説が唱えられたが、十八日の閣議は通常の閣議であり、条約改正とは無関係だった。来島の一撃が条約を阻止したのである。

的野監修の『来島恒喜』は、「彼は死を以て輿論の精神を其未だ衰へざるに鼓舞せんことを期したるものなり。彼は、死を以て社会の風教を其未だ地に堕ちざるに振作せんことを期したるものなり。然らば則ち、霞関の一撃は、内に対して国論の精神たる対等条約に非ざれば、決して満足せざるの意志を政府に表白したるのみならず、外に対して日本国民の自主的精神を世界に発揮したるものと謂はざる可からず」と評している(『来島恒喜』六頁)。また、事件当日の日誌で、谷干城は次のように書いている。

「嗚呼、上君を歎き又万民を歎き、自己の非を遂げんと諮る売国の奸臣天下豈之を座視せんや。祖宗在天の霊、蓋し手を来島に借るものあるべし。与論は即ち天の声なり。天意豈恐れざる可けんや。天日未だ落ちず、猶幾多の来島を生ずべし。天道恐るゝに足らずといふ頑冥者、少しく戒むる所あらん哉」(井上右『興亜風雲譚 : 伝記・武田範之』復刻、大空社、平成六年、六十四頁)

 

葛生玄晫らに引き継がれた興亜の志

警視庁は、在京の嫌疑者として月成功太郎、淵岡駒吉、葛生玄晫ら三十名以上を拘引し、取り調べた。月成、淵岡、葛生ら九名は半年間拘留されたが、明治二十三月四月二十八日に無罪放免となった。また、竹下は事件直前に来島と会っていたために、爆弾は竹下がアメリカから調達してきたものだとの嫌疑を受けたが、その疑いもまもなく晴れた。

事件当日、条約改正反対の有志大会に参加のために大阪に滞在していた頭山満も拘引、尋問されたが、まもなく放免された。福岡では、平岡浩太郎、進藤喜平太、杉山茂丸、結城虎五郎、岡喬らが捕まったが、誰も罪に問われなかった。来島が、事件前に玄洋社から脱退するなど、周囲に迷惑をかけないよう周到に計画を進めていたからである。

十一月一日に、福岡・十里松原(現福岡市博多区)の崇福寺で営まれた来島の葬儀には、千人以上の人が参列した。頭山は弔辞において、「天下の諤々は君が一撃に若かず」と述べた。では、右足を失った大隈は、来島についてどのような感情を抱いていたのだろうか。

「爆裂弾を放りつけた者を憎いやつとは少しも思っていない。いやしくも外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する。若い者はこせこせせず、天下を丸のみにするほどの元気がなければだめだ」(『大隈重信は語る : 古今東西人物評論』早稲田大学出版部、昭和四十四年)。これが大隈の心情だった。さらに彼は、来島の一撃を「犠牲的愛国的の実現なり」と語り、来島追悼会の度に、弔詞や供物料を贈り、首相になった後、谷中に墓参に訪れたとの記録もある(『読売新聞』平成十三年九月四日付西部版朝刊)。ちなみに、保管されていた大隈の右脚は、テロから百十年を経た平成十一年四月に、佐賀市赤松町にある大隈家の菩提寺龍泰寺に安置された。

事件の二日前の十月十六日、来島は葛生玄晫に対して、東洋の哀弊を慨し、欧州諸国の跋扈を憤り、朝鮮を独立させ、日本はこれを根拠として大に雄飛すべきだと訴え、「若し余にして今回の計画なく、今回の決心なくんば、余は当に全力を尽して朴(泳孝)、金(玉均)を助け、朝鮮改革の事業に任じ、之をして其目的を達せしむるべきに、一身を以て此二大事業に当ること能はざるを憾む」と語っていた。

葛生は、来島の二十周年追悼会において、生前に来島が語った金玉均に対する支援、東洋振起策を想起し、「日夜念々相積んで癒ゆべからざるの痼疾を生じ、遂に今日の東洋狂となり、常に小説的東洋経綸策を論じて、識者の嘲笑を顧みざるに到れり」と語っている(「故来島恒喜氏二十周年追悼会」『日本及日本人』明治四十二年十一月一日、百十七頁)。葛生は、来島の志を引き継いで、金玉均と親交を強め、興亜の事業に全力で取り組んだのである。竹下篤次郎もまた、来島の意志を継ぐかのように、日満親善に奔走した。

来島恒喜が命かげて守ろうとした日本外交の主体性の尊さを、いま私たちはどれほど認識しているだろうか。

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