「西洋近代への抵抗」カテゴリーアーカイブ

坪内隆彦「日本は、アジアの声に耳を澄ませ」(『伝統と革新』2020年5月)

■フィリピンの自主独立路線
 「米国と中国のどっちに味方する?」
 昨年シンガポールの研究機関が、東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟十カ国で、研究者や政府機関の職員、ビジネスマンらを対象とした調査を実施し、そう質問した。この質問に対して、「米国に味方する」との回答が多かったのは、十カ国のうちシンガポール、フィリピン、ベトナムの三カ国だけだった。ラオス、ブルネイ、ミャンマー、マレーシア、カンボジア、タイ、インドネシアの七カ国では、「中国に味方する」との回答の方が多かった。このうちラオスとブルネイでは約七割が「中国に味方する」と回答している。
 東南アジアの親中化は、中国の「札束外交」によってもたらされているとの主張がある。カネの力にモノを言わせて東南アジア諸国を靡かせているという見方だ。しかし、東南アジアの親中化は、それだけではとらえ切れない。そこを見誤ると、日本はアジアにおける影響力をさらに失うことになるのではなかろうか。筆者は今こそアジアの声に耳を澄ます必要があると考えている。
 八割以上が「米国に味方する」と回答したフィリピンにおいても、状況は激変しつつある。同国のドゥテルテ大統領は、二月十一日、「訪問米軍に関する地位協定」(VFA)を破棄すると米政府に通知したのだ。この決定の直接的な引き金は、アメリカがドゥテルテ大統領の側近に対して入国ビザの発給を拒否したことだが、フィリピンの自主独立志向に注目すべきである。
 フィリピンは一六世紀後半からスペインによる支配を受けていたが、一八九八年に勃発した米西戦争の結果、アメリカの植民地となった。一九四六年に独立した後も、基本的に親米政権が続き、アメリカ支配から脱却することができなかった。日本と同様、フィリピンにもスービック海軍基地、クラーク空軍基地などの米軍基地が置かれていた。ただし、一九六六年に改定された米比軍事基地協定は米軍基地の駐留期限を一九九一年までと定めていた。そこで、米比両政府は、基地存続を可能とする米比友好協力安保条約に調印したが、一九九一年九月十六日 フィリピン上院は同条約批准を反対多数で否決したのである。この日、上院周辺は、まるで独立宣言を行ったかのような熱気に包まれた。こうして米軍はフィリピンから完全撤退したのである。ところが、一九九八年にVFAが結ばれ、米軍の駐留に道が再び開かれた。
 我々は、ドゥテルテ大統領が目指しているものが真の主権回復とアイデンティティティの確立であることに注意する必要がある。獨協大学教授の竹田いさみ氏が指摘しているように、ドゥテルテ大統領の対米自立路線の原点には、自らの体験がある。ドゥテルテ氏が大学時代、ガールフレンドがいるアメリカへ渡ろうとした際に、入国ビザが発給されなかった。また、ドゥテルテ氏には、外交パスポートを持参していたにもかかわらず、ロサンジェルス空港で書類の不備を指摘され、空港係官に別室で尋問された経験がある。一方、アメリカ人はビザなしでフィリピンに自由に入国することができる。ドゥテルテ大統領は、こうした自らの体験から米比関係の不平等性を実感し、アメリカ優位の構造を変えなければならないと確信したのであろう。
 また、ドゥテルテ大統領は、「フィリピン」という国名が宗主国だったスペインのフェリペ国王に由来する名前だとして、国名変更に意欲を示している。国名の候補として「マハルリカ(高潔)」などが候補に挙がっている。ドゥテルテ大統領が共感するマルコス元大統領も、かつて「マハルリカ」を新たな国名に挙げたことがある。
 東西冷戦下で西側陣営に入った東南アジアの国は、概して親米的だった。しかし、植民地支配に喘いだ民族の記憶は容易には消えない。その記憶が自立志向に向かわせているのである。

■興亜論を共有した日本人とアジア諸民族
 かつて、日本人は欧米列強の植民地支配に苦しむアジア諸民族の解放に手を貸そうとした。少なくとも、在野のアジア主義者、興亜論者たちは、アジアの独立運動家を支援し、アジア諸民族の団結を目指した。例えば、興亜論の精神的支柱であった玄洋社の頭山満翁は、中華民国の孫文、朝鮮の金玉均、インドのビハリ・ボースだけではなく、東南アジアの志士たちを支援した。ベトナムのクォン・デ侯、フィリピンの志士アルテミオ・リカルテ、ベニグノ・ラモス、ビルマ(ミャンマー)の志士ウ・オッタマらである。一方、玄洋社出身の代議士中野正剛は一九四二年に『世界維新の嵐に立つ』を著し、次のように述べた。
 「帝国主義侵略は今日の人類世界では過去の迷夢である。日本は大東亜の新秩序を建設し、その指導者として、功労者として、永久の先行者として、大東亜全民族の幸福と栄誉の源泉とならねばならぬ。これこそ大和民族として生き甲斐のある存立を確保する所以である」
 かつて日本人は独立不羈の気概を持ち、植民地支配に苦しむアジア諸民族に共感していた。だからこそ、多くのアジアの志士たちが日本を頼り、日本との連携を模索したのだ。フィリピンの興亜論者ピオ・デュラン(Pio Duran)博士もその一人である。彼は弁護士として活躍し、日本人との関係を強め、一九三二年に『比国独立と極東問題』を刊行して宗主国アメリカを震撼させた。一九四二年には『中立の笑劇:フィリッピンと東亜』で、「幾世紀かの如何とも為し難い服従の間に強制的に押附けられた、厚く塗られた西洋文明の上塗りは、これを引剥いで、現在及び将来永遠に東洋諸国住民の生命の中に根本的影響を残す古き東洋文化の栄光を明るみに出さねばならぬ」と書いた。
 しかし、大東亜戦争に敗れたわが国はアメリカに占領され、興亜の理想はわが国においては封印されてしまった。だが、興亜の理想はアジア人の心に残されていた。一九五一年、サンフランシスコ対日講和会議で演説したスリランカのジャヤワルダナ大統領は「往時、アジア諸民族の中で、日本のみが強力かつ自由であって、アジア諸民族は日本を守護者かつ友邦として、仰ぎ見た。…当時、アジア共栄のスローガンは、従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には、最愛の祖国が解放されることを希望して、日本に協力した者がいたのである」と語った。 続きを読む 坪内隆彦「日本は、アジアの声に耳を澄ませ」(『伝統と革新』2020年5月)

「いま『大アジア』を問うことは時代錯誤だろうか」─松岡正剛『千夜千冊エディション 大アジア』

松岡正剛『千夜千冊エディション 大アジア』(角川ソフィア文庫)

 令和2年7月、松岡正剛氏の『千夜千冊エディション 大アジア』(角川ソフィア文庫)が刊行された。「大アジア」というタイトルに驚き、筆者の問題意識と重なる多くの書物が手際よく紹介されていることもあり、熟読した。
 さて、同書において、12年も前に書いた拙著『アジアの英雄たち』(展転社)を圧倒的ページ数(287~353頁)で取り上げていただいたことに、心より感謝申し上げる。
 〈著者は日本経済新聞出身のジャーナリスト兼ライターの坪内隆彦で、「月刊日本」連載の『アジアの英雄たち』をもとに充実させた。タイトルに『アジア英雄伝』とあるように、あからさまな大アジア主義称揚の視点で綴られている。冒頭に頭山興助の「推薦の辞」が飾られているのだが、この人は頭山満のお孫さんだし、あとがきには田中正明の『アジア独立への道』(展転社)からの影響を記している。田中は松井石根の私設秘書から近現代アジア史の著述に向かい、『パール博士の日本無罪論』(小学館文庫)、『東京裁判とは何か』(日本工業新聞社)などを書いた。
 そういう一冊ではあるのだが、当時の大アジア主義にかかわった人物を点検するには浩瀚かつ便利な一冊になっている〉
 松岡氏が「そういう一冊ではあるのだが」と、わざわざ前置きされたことについては、いろいろ考えるところがあるが、筆者が「大アジア主義称揚の視点」で綴っていたことを否定するつもりはない。
 ただ、大アジア主義といっても、在野のアジア主義と政府のアジア主義には違いがある。筆者は一貫してアジアの亡命志士たちが日本政府の政策に失望した事実を強調してきた。拙著の中でも次のように書いている。 続きを読む 「いま『大アジア』を問うことは時代錯誤だろうか」─松岡正剛『千夜千冊エディション 大アジア』

日中の不幸なすれ違い─小泉菊枝『東亜聯盟と昭和の民』

小泉菊枝『東亜聯盟と昭和の民』東亜聯盟協会、昭和15年
 小泉菊枝は『東亜聯盟と昭和の民』(東亜聯盟協会、昭和15年)で、以下のように書いている。
〈漸く封建社会の諸制度を清算し、資本主義経済への発展により活発な国富増進へ歩み出した世界の後進国日本は、商品を売りさばく海外市場として残されてゐる所を支那大陸に求めるより仕方がありませんでした。日本は列強に追随しながら友邦支那の中に利権を確立して行きました。かうして一人殖民地と化し去らうとする東亜に於ける唯一の独立国家日本はぐんぐん国力を充実させ、列強の間に伍して進みました。かゝる日本の発展を、列強はたゞ侵略的・野心的進出としてだけ解釈し、東亜のユートピアとして「愛すべき日本」と呼んでゐた人々も「恐るべき日本」からやがて「恐るべき日本」と称してひたすらその成長を抑圧しようとするやうになりました。列強は競つて亜細亜の宝庫を分割しようとし、又この間に割り込む日本を牽制しようとしました。門戸開放・機会均等が屡々支那に要求されましたが、これは取りも直さす、搾取と侵略の自由平等を大亜細亜殖民地の上に確立しようといふ意志表示だつたのです。列強の利権が増大すればする程、利権擁護に名を借りた東亜諸問題への彼等の発言権は強硬になるばかりでした。日本は必死となつてこの間に立ちました。若し日本が支那大陸に利権を確守出来す、発言権を持たなかつたならば、亜細亜大陸は列強の欲するまゝに動かされるより他はなかつたのです。 続きを読む 日中の不幸なすれ違い─小泉菊枝『東亜聯盟と昭和の民』

『維新と興亜』第2号刊行

 令和2年4月、崎門学研究会・大アジア研究会合同機関誌『維新と興亜』第2号が刊行された。
 目次は以下の通り。

『維新と興亜』第2号

 【巻頭言】グローバリズム幻想を打破し、興亜の道を目指せ
 歴史から消された久留米藩難事件
 尊皇思想と自由民権運動─愛国交親社の盛衰②
 金子彌平―興亜の先駆者④
 新しい国家主義の運動を起こそう!②―津久井龍雄の権藤成卿批判
 江藤淳と石原慎太郎②
 金子智一―インドネシア独立に情熱を捧げた男
 重光葵と「大東亜新政策」の理念―確立すべき日本の国是を問う
 田中角榮の戦争体験
 『忠孝類説』を読む
 若林強斎先生『絅斎先生を祭る文』
 菅原兵治先生『農士道』を読む⑤
 首里城の夢の跡
 書評 拳骨 拓史『乃木希典 武士道を体現した明治の英雄』
 書評 浦辺 登『勝海舟から始まる近代日本』
 表紙の写真─片岡駿の生涯と思想
 活動報告・行事予定

政府の覇道主義的傾向を戒めた石原莞爾─「東亜連盟建設要綱」

石原莞爾
 明治期のわが国においては、興亜論、アジア主義が台頭した。アジア諸民族が連携して欧米列強の侵略に抵抗しようという主張であり、欧米の植民地支配を覇道として批判するものだった。しかし、国家の独立を維持するためにわが国は富国強兵を推進し、列強に伍していかねばならなかった。その結果、日本政府の外交は覇道的傾向を帯びざるを得なかった。
 そのことを在野の興亜論者たちは理解していた。ところが、やがて在野の興亜論者たちも政府の政策への追随を余儀なくされていく。こうした中で、その思想を維持した興亜論者もいた。例えば石原莞爾である。彼が率いた興亜連盟は、戦時下にあってもその主張を貫いていた。大東亜戦争勃発後に改定された「東亜連盟建設要綱」は以下のように述べている。
 〈明治維新以来、他民族を蔑視し、特に日露戦争以後は、急激に高まれる欧米の対日圧迫に対抗するため、日本は已むなく東亜諸民族に対して西洋流の覇道主義的傾向に走らざるを得なかった結果、他の諸民族に対する相互の感情に阻隔を来したのは、躍進のための行き過ぎであり、日本民族の性格からいえば極めて不自然のことである。日本民族が、国体の本義に覚醒し、かつ国家連合に入りつつある時代の大勢を了察するならば直ちにその本性に復帰すべく、東亜諸民族の誤解を一掃することは、極めて容易であると信ずる。そうなれば一つの宣伝を用いることなく、東亜諸民族が歓喜して天皇を盟主と仰ぎ奉ること、あたかも水の低きに流れるが如くであろう。
 しかし、遺憾ながら東亜諸民族が心より天皇を仰慕することなお未だしとすべき今日、日本は東亜大同を実現する過程に於て、聖慮を奉じて指導的役割を果す地位に立つべき責務を有する。ただしこの指導的地位は、日本が欧米覇道主義の暴力に対し東亜を防衛する実力を持ち、しかも謙譲にして自ら最大の犠牲を甘受する、即ち徳と力とを兼ね備える自然の結果であらねばならぬ。権力をもって自ら指導国と称するは皇道に反する。(中略)
 今や大東亜戦争遂行過程にあり、我が国民が急速に英米依存を清算して、肇国の大精神に立帰りつつあることは、誠に喜ぶべきところであるが、ややもすれば時勢の波に乗じて、軽薄極まる独善的日本主義を高唱するものが少なくない。
 天皇の大理想を宣伝せんとする心情やよし。しかれども日本自らが覇道主義思想の残滓を清算する能わず、外地に於ては特に他民族より顰蹙せられるもの多き今日、徒に「皇道宣布」の声のみを大にするは、各民族をして皇道もまた一つの侵略主義なりと誤解せしめるに至ることを深く反省すべきである。「皇道宣布」の宣伝は「皇道の実践」に先行すべきでない。〉

康有為─もう一つの日中提携論

康有為
日清両国の君主の握手
 「抑も康有為の光緒皇帝を輔弼して変法自強の大策を建つるや我日本の志士にして之れに満腔の同情を傾け此事業の成就を祈るもの少なからず、此等大策士の間には当時日本の明治天皇陛下九州御巡幸中なりしを幸ひ一方気脈を康有為に通じ光緒皇帝を促し遠く海を航して日本に行幸を請ひ奉り茲に日清両国の君主九州薩南の一角に於て固く其手を握り共に心を以て相許す所あらせ給はんには東亜大局の平和期して待つべきのみてふ計画あり、此議大に熟しつつありき、此大計画には清国には康有為始め其一味の人々日本にては時の伯爵大隈重信及び子爵品川弥二郎を始め義に勇める無名の志士之に参加するもの亦少からざりしなり、惜むべし乾坤一擲の快挙一朝にして画餅となる真に千載の恨事なり」
 これは、明治三一(一八九八)年前後に盛り上がった日清連携論について、大隈重信の対中政策顧問の立場にあった青柳篤恒が、『極東外交史概観』において回想した一文である。永井算巳氏は、この青柳の回想から、日清志士の尋常ならざる交渉経緯が推測されると評価している。両国の志士たちは、日本は天皇を中心として、中国は皇帝を中心として、ともに君民同治の理想を求め、ともに手を携えて列強の東亜進出に対抗するというビジョンを描いていたのではあるまいか。
 変法自強運動を主導した康有為は、一八五八年三月に広東省南海県で生まれた。幼くして、数百首の唐詩を暗誦するほど記憶力が良かったという。六歳にして、『大学』、『中庸』、『論語』、『朱注孝経』などを教えられた。一八七六年、一九歳のとき、郷里の大儒・朱九江(次琦)の礼山草堂に入門している。漢学派(実証主義的な考証学)の非政治性・非実践性に不満を感じていた朱九江は、孔子の真の姿に立ち返るべきだと唱えていた1。後に、康有為はこの朱九江の立場について、「漢宋の門戸を掃去して宗を孔子に記す」、「漢を舎て宋を釈て、孔子に源本し」と評している。 続きを読む 康有為─もう一つの日中提携論

スメラ学塾①─日本的世界観を目指して

 『日本百年戦争宣言』で知られる孤高のエリート軍人・高嶋辰彦に思想的影響を与えた人物の一人が、仲小路彰である。高嶋が仲小路と初めて会ったのは、昭和十三年十月二十七日のことであった。
 独自の「日本世界主義」思想を展開していた仲小路らは、昭和十五年に「スメラ学塾」を立ち上げた。その講義の中核を担ったのは、国民精神文化研究所に所属していた小島威彦である。小島は、日本中心の独創的な世界史を講じた。

 仲小路は、昭和十七年に『米英の罪悪史』を著し、以下のように書いている。ここには、欧米的価値観に基づいた政治システムに対する鋭い批判が示されている。
 〈思へば、英米の議会主義政治、政党主義的政治は一時全く世界政治の理想の如く宣伝され、その自由主義的民主政治は、実に政治的体制の典型として偶像化されました。これを以て進歩的なりとし、それに反対するものを悉く反動的保守的として排撃し、英米はその政治的偶像をもつて他のすべての諸国を、その政治的統制の下に独裁するのでありました。あらゆる植民地国は、自らの伝統的なる政治組織をもつて全く旧きものとして廃棄し、英国的政治の体制下に編入され細胞化されるのでありました。しかももし一国が強大となるや、これを抑圧するために、米英には適し、その国には不利なる米英的憲法、法律等を制定せしめ、さらにそれを英米的世界の現状維持のみを擬護する国際法をもつてしめつけ、全くその自由を剥奪することを以て、自由主義政治と称せしめ、彼等をして全く英米化し、米英依存せしめるのでありました。しかもすでに民主主義的なる米英的世界秩序は、それ自らの中に矛盾を激化し、末期的没落に瀕するのであります。
 かくして今次の大戦こそ、それ等一切の旧き民主主義的米英勢力圏を徹底的に粉砕すべき戦争であります。もしそれを為さずして、たゞ従来の米英的支配権を排撃して、それに代るに再び自らが米英的地位を占め、その搾取を繰返すことあるか、それともまた米英的なる近代国家体制、民主主義政体を植民地の独立として実施するか、或はまたソヴエート的なる民族解放理論がいかなるものなるを認識せず、帝国主義侵略を避けんとして、東亜の解放を実現せんとする如きあらば、これは全く皇軍の赫々たる戦果を無にするのみならず、却つて大東亜民族は不統一のまま殆ど救はるることなく、遂に克服すべからざる禍根を残すこととなるでありませう。まさに近代民主国家を根本的に否定し、海月なす、たゞよへる国々を修理固成するすめらみくにの国生みとしての日本世界史建設の大東亜皇化圏、すめら太平洋圏の復興を実現し、かくて大御稜威の下、アジアは渾然として、その根源的なるものに帰一するは、それ自らの本質的運命であります〉
 この仲小路の言説は、英米型民主主義を絶対視する、わが国の戦後言論空間においては、理解し難いものかもしれない。しかし、我々は改めて英米型民主主義が絶対なのかを問い直すべきではないか。

一帯一路構想─「特定国の覇権」か「参加国の共栄」か

 アジアとヨーロッパを連結する「一帯一路」構想は、現在中国によって主導されているが、このうち特に「一帯(One Belt)」は、かつて日本が主導していた構想である。アジア主義者大谷光瑞の「欧亜連絡鉄道計画」(昭和14年)や帝国鉄道協会の「中央亜細亜横断鉄道」(昭和17年)などの構想があった。「中央亜細亜横断鉄道調査部設置の趣意」には、以下のように書かれていた。
「……中央亜細亜横断鉄道とは大体支那綏遠省包頭、或は陜西省西安を起点とし、甘粛省甘州、新疆省ハミ、トロハン、カシガル等を経てアフガニスタンの首都カブール、イランの首都テヘランを過ぎイラクのバグダツドに接続せしめむとする延々七千余粁(キロメートル)に及ぶ鉄道なり。
 ……凡ゆる観点より重要意義を有し、特に変転極りなき国際情勢を想ふ時、東亜共栄圏確立上の交通動脈の一都としても其の重要性大なるものありと謂はざる可からず」
 「特定国の覇権」のためではなく、「参加国の共栄」のためにどうすればいいのか。今、古くて新しい問題が浮上している。

内藤正中『自由民権運動の研究―国会開設運動を中心として』①

 土佐中心史観による自由民権運動を、より中立的に分析するために、内藤正中『自由民権運動の研究―国会開設運動を中心として』(昭和39年、青木書店)を入手した。
 自由民権を考えるときに、福岡の向陽社なども十分視野に置かなければならないからである。

『笠木良明遺芳録』目次

以下は、『笠木良明遺芳録』(笠木良明遺芳録刊行会、昭和35年)の目次である。

序 児玉誉士夫

遺稿篇(一)
 忠誠なる日本青年の世界的陣容布地の急務
 青年大陣容布地の具体案
 満洲国県旗参事官の大使命
 宗門の革新
 電力官営を望む
 警官を泣かせし泥棒
 愛国の唯一路
 理論偏重より覚めよ
 小学生柔道大会
 年中行事『慈善鍋』
 不人情の跋扈
 撫順県遊記
 百喩経物語から
 至人武断
 夢中語
 妖雲乎瑞雲乎
 真人の歌
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