独自の興亜論を展開
戦後のアメリカの対日政策の基本は、日本弱体化であった。だが、米ソ冷戦の開始によって、事態は180度変わった。「逆コース」といわれた通り、アメリカは、日本を反共の防波堤にすべくそれまでの日本弱体化政策を棚上げし、日本の復興を急いだ。
アメリカの矛盾は、ソ連封じ込めと興亜論封じ込めの両立を試みることから必然的にもたらされた。当時のアメリカの苦悩は、公開されたアメリカ政府文書でも裏づけられている。
1949年に採択されたアメリカ国家安全保障会議(NSC)文書48-1は、日本のアジア主義者に警戒すべきことを明確にうたっている。文書は「極右勢力は長期的にみてアメリカの利益にならない」と明記したのである。
1950年にはアメリカは戦犯の追放解除をしなければならなかった。1951年の講和条約調印のころには、鳩山一郎、岸信介などの旧保守勢力が政界に復帰し始める。彼らは吉田を対米従属と批判し、再軍備を含め、より自主的な日本の建設を主張した。アメリカから見て彼らは、再軍備の主張の点では好ましいが、対米協調の点で不安の残る存在であった。
東亜聯盟の流れを汲む辻政信は、こうした状況の中で、政界に乗り込んできた。
1945年タイ国駐屯軍参謀として終戦を迎え、東南アジアに潜伏していたが、1948年5月に密かに日本へ舞い戻っていた。東南アジアでの逃避行をつづった「潜行三千里」を出版、たちまちベストセラーとなった。 1952年8月16日、彼は郷里の石川で講演会を開いた。金沢の兼六公園広場に集まった聴衆は5万、「アジアの黎明」と銘打った辻の演説は2時間に及んだ。 「炎天下の長講に拘らず一人の野次もなく、煙草を喫むものもなく、扇子を使ふものもなかった。金沢では未曾有の大聴衆であった」という(『北國・富山新聞』1998年11月2日付)。 そして、同年10月の選挙に石川一区から立候補し、圧倒的得票で当選した。国民感情の中に反米・自立的なムードが残されていたことを物語る。 |
アメリカの懸念は、右翼と共産主義者が反米アジア主義で連携することであった。アメリカはあらゆる工作によって保守派、右翼を反共の方向に誘導して無力化したと見られる。1951年にトルーマン大統領が心理戦略本部(PBS)を設置し、日本に対しても巧みな世論工作を行なったことは、石井修・広島大学教授らの研究によって明らかになっている(石井修『冷戦と日米関係―パートナーシップの形成』ジャパンタイムズ、1989年)。
アメリカにとって、日中関係の進展を防ぐことは、大きなジレンマであった。この時期アメリカはこんなふうに悩んでいた。
「反共の砦とするために日本経済の復興を急ぎたい。しかし、日本経済は中国との相当量の貿易なしには回復できない。しかし、中国貿易に日本が依存し過ぎるのは避けたい」と。
そこで、政策として採用されたのは、中国市場にかわるものとして、「南アジアや東南アジアなどに日本のための代替市場を見出だす」という方針である。
ところが、日中関係強化の希望はとだえなかったのである。すでに、中共成立前の1949年5月に、帆足計らを中心に中日貿易促進会が発足していた。ここには左派だけでなく、新関八州太郎・第一物産社長などの財界人も参加していた。翌1950年10月には、自由党の水田三喜男などが参加して日中友好協会が結成され、1952年1月には石橋湛山、北村徳太郎(親和銀行頭取)、村田省蔵(大阪商船会長)らが中心になって、国際経済懇話会が結成されていた。彼らは日中貿易の拡大を目指して必死の抵抗をつづけるのである。日中関係強化のための運動は、石橋のほか松村謙三、高碕達之助、岡崎嘉平太らによって一貫してつづけられたのだった。
1954年12月には、吉田茂にかわって鳩山一郎が首相に就任した。もともと鳩山は、吉田外交とは異なる方向性を打ち出そうとしていた。反吉田勢力の外交姿勢の中に不完全ながら興亜論的な考え方の復活をみる。1954年11月、彼らは反吉田新党として日本民主党を結成したが、その結党宣言にはアジア復興に対する高い評価と自主国民外交がうたわれていた。東亜聯盟の創設者でもあった木村武雄のすすめで、辻政信も民主党に参加していたのだった。この民主党政権は、有色人種だけのはじめての会議、バンドン会議にも参加し、この場でも日中間の貿易拡大の糸口を模作した。
1955年には、社会党の合同に触発されて、民主党と自由党とが合同して自由民主党を結成したが、その初代総理となった鳩山は、「アジアの共産圏諸国との関係を正常化する独立的な国民外交」を打ち出した。鳩山は、特に日中貿易を増やしたいとの方針を組閣早々表明していた。吉田路線とは異なり、アジアに対する自主外交を模索する動きがはじまろうとしていた。
1956年12月に鳩山の後を継いで政権を発足させた石橋湛山は、一層対米追従を嫌い、「日中米ソ平和同盟」など、独自の外交路線を模索した。湛山は、辻政信とも接触し、第三勢力結集のために東南アジア、中東を回るよう指示していたともいわれる(生出寿『「政治家」辻政信の最後』光人社、1990年、142~143頁)。
辻は第2回アジア・アフリカ連帯会議を目指して中国にはたらきかけるなど、興亜外交を推進しようとした。石橋内閣の反動から、岸政権は親米反中色をつよめたが、その環境においても辻は、インドネシアのスカルノと会見して日中関係の改善を要請するなど、独自の行動をつづけたのであった。日中と東南アジアが核となり、アジアのグループ化を進めていくという発想は常に維持されていたのである。
1961年4月、突如辻はインドシナに旅立った。そして、「ホー・チミンと会って、東南アジアの和平を訴える」と北ベトナムめざして出発したまま行方不明になった。