『GHQが恐れた崎門学』書評7(平成29年11月)

『明治聖徳記念学会紀要』復刊第54号(平成29年11月)
 『明治聖徳記念学会紀要』復刊第54号(平成29年11月)に、拙著『GHQが恐れた崎門学』の書評を掲載していただきました。
〈著者は日本経済新聞社に入社し記者として活動するが、平成元年に退社してフリーランスとなり、現在は『月刊日本』編集長などを務めている。坪内氏は『月刊日本』で平成二十四年から「明日のサムライたちへ」と題する記事を連載し、明治維新へ影響を与えた国体思想の重要書を十冊紹介した。本書はそこから特に五冊を取り上げ再編集したものである。GHQは日本占領の際、政策上都合の悪い「国体」に関する書籍を集め焚書した。崎門学の系統の書籍がその中に入っており、本書の題名の由
来となっている。
 近年は明治維新の意義や正統性に疑義を呈する研究が盛んである。それに対して、本書は明治維新を実現させた志士たちの精神的な原動力として山崎闇斎の崎門学をあげ、その「日本」の正統をとり戻した意義を一般に啓蒙せんとしている。崎門学は天皇親政を理想とし、そこでは朱子学は易姓革命論を否定する形で受容された。後に、闇斎は他の複数の神道説の奥義を学んだうえで自ら垂加神道を確立する。
 本書で取り上げた崎門学の系譜を継ぐ五つの書とは『靖献遺言』、『保建大記』、『柳子新論』、『山陵志』、『日本外史』であるが、書籍ごとに章を立て(『保建大記』と『山陵志』は同章)広く関連人物にも解説は及んでいる。特に、闇斎の弟子・浅見絅斎著『靖献遺言』は幕末の下級武士のバイブル的存在であったし、『日本外史』は一般にも読まれ影響力大であった。五つの書の中で、著者は『柳子新論』に対してだけは、湯武放伐論を肯定している箇所について部分的ではあるが否定的評価をしている。補論では、著者が大宅壮一の影響下にあるとみなす原田伊織の明治維新否定論への異議申し立てを展開している。「魂のリレーの歴史」として、「日本」の正統を究明せんとする崎門学の道統についての入門書として、有志各位にお勧めする。〉

『副島種臣先生小伝』を読む③─安政の大獄と副島種臣

井伊直弼
 嘉永六(一八五三)年六月、ペリー艦隊が浦賀沖に来航し、日本の開国と条約締結を求めてきた。幕府は一旦ペリーを退去させたが、翌嘉永七(一八五四)年三月三日、幕府はアメリカとの間で日米和親条約を締結した。
 安政三(一八五六)年七月には、アメリカ総領事ハリスが、日米和親条約に基づいて下田に駐在を開始した。幕府はアメリカの要求に応じて、日米修好通商条約締結を進め、安政五年三月十二日には、関白・九条尚忠が朝廷に条約の議案を提出する。大老井伊直弼は安政五年六月十九日、勅許を得ないまま、修好通商条約に調印したのである。
 これに反発した尊攘派に井伊は厳しい処断で応じた。安政の大獄である。幕府の最初のターゲットとなった梅田雲浜は獄死している。
 ところが、尊攘派の怒りは安政七(一八六〇)年三月三日に爆発する。江戸城桜田門外で彦根藩の行列が襲撃され、井伊が暗殺されたのだ。桜田門外の変である。これを契機に尊攘派たちが復権を果たしていく。
 この激動の時代を青年副島は、どのように生きたのか。
 日米和親条約が締結された翌安政二(一八五五)年、彼は皇学研究のために三年問京都留学を命ぜられた。まさに、弱腰の幕府に対して尊攘論が高まる時代だ。副島は、京都で諸藩の志士と交流し、一君万民論を鼓吹し、幕府の専横を攻撃した。
 安政五年五月、副島は一旦帰国して、楠公義祭に列したが、六月再び上洛、大原重徳卿に面謁して、将軍宣下廃止論を説き、青蓮院宮に伺候し、伊丹重賢(蔵人)と面会している。伊丹家は代々青蓮院宮に仕えた家であり、伊丹は尊攘派の志士として東奔西走していた。
 副島は、伊丹の相談を引き受けて、兵を募るために帰藩した。この時、藩主・鍋島直正は副島の身の上を気遣い、禁足を命じて神陽に監督を頼んだという。